鎮魂歌 (2)
ベナトリアの城に滞在していたマリアは、当たり前のように執務室の常連となっていた。ベナトリア王に代わってデスクワークをこなし、毎日のように積み上げられていく書類を片付けていく。
デスクワークが苦手な王に押し付けられて渋々……を装ってはいるが、王の負担を減らす目的もある。やりたくないから逃げ回っているのも本音ではあるが。
「オルディス公爵、あなたに頼みたいことが――」
「今回はヨーナス司祭様ですか。今度はどなたの命乞いです?」
執務室にやって来たヨーナス司祭に、マリアは慣れた様子で答える。
フリードリヒ王の体制となり、焦っている人間も少なくない。特にエルンスト先王の寵愛をかさに着て王太子を見下していたような人間は、いつ新王に首を斬られるか恐れていた。
王に直接命乞いをする者もいれば、取り成してくれる相手に命乞いをする者もいる。その相手に、マリアが選ばれるのは自然な流れ……実態とは異なっているのだが、マリアはフリードリヒ王の寵愛を受ける女だと思われているわけで。
しかし、ヨーナス司祭ならマリアに頼まずとも。
彼が直接王に掛け合えばいい。王も、司祭の言葉には多少耳を傾けているのに。
「私だけではだめなのだ。公爵からも、ギーゼラの助命について王に取り成しを」
ヨーナス司祭が挙げたのは、女性の名だった。城にいる女官らしい。
女官が処刑の対象になっているだなんて珍しい――そう思いながら、マリアは女の詳細を修道士シモンに尋ねた。
「先王の愛妾でもあった女性です。ほら、謁見なさった時に居た……」
修道士から説明されても、マリアはすぐには思い出せなかった。
最初に会った時以来、特に接触のない女性だったから、本気で忘れていた。思い出すのに時間がかかって……それでも、印象の悪い女性だったような気がする、ということ以外何も思い出せなかった。
司祭の嘆願を受けてマリアは王のいる政務室に向かった。
書類はマリアがかなり片付けたが、やはり王でなければどうしようもないものも多い。どこか不貞腐れたような顔で書類仕事に挑む王は、マリアを見て笑う。
良い気晴らしがやってきた、と。でもその一方で、マリアが自分を訪ねてきた理由もすぐに察したはず。
「今度は誰の命乞いを頼まれてきた?」
先ほどの自分と同じことを尋ねる王に苦笑しながら、マリアはギーゼラの名を伝えた。彼女の名を聞き、フリードリヒ王は機嫌を急降下させていく。
「……あの女は、先王が無頓着なのをいいことに王妃のドレスや宝石をねだり、この城で、女主人のように振舞ってきた。俺が、あの女の首をへし折ってやりたい衝動を、何度抑えてきたと思う?俺から楽しみを奪うつもりか」
笑ってはいるが、王の目は怒りと憎しみに満ちていた。ギーゼラという女官の傲慢な振る舞いに、彼は怒り心頭らしい。彼女への復讐を妨げると、マリアまで敵認定されてしまいそうだ。
「おまえは、あの女のことなどどうでもいいはずだ。俺の不興を買ってでも命乞いしてやる義理が、どこにある?」
「まったくもって御座いません。特に何かされた覚えはありませんが、何かしていただいた覚えもありませんし」
マリアは涼しい笑顔で答える。
「陛下のおっしゃる通り、あのような女などどうなってもよいと思っているのに。陛下の名誉のため、陛下の不興を買ってでも命乞いをしなくてはならない私を、どうか憐れんでくださいませ」
王が、少しだけ態度を和らげるのをマリアは感じた。
誇り高い騎士の国の王が、女性を処刑した――そんな悪評を、立てさせるわけにいかない。憎い女であっても。
「あの女は、助けてやっても恩など感じぬぞ。断言してもいい。最初こそしおらしくしているだろうが、そのうちその傲慢で卑しい性根をあらわにし始める。贅沢と権力に味を占めた女が、いまさら慎ましく生きられるものか。生かしておけば、必ず問題を起こすぞ」
「丁度良いではありませんか。王の温情で生き延びた女が、その恩義を忘れた振る舞いをしたとなれば、今度こそ葬り去ることができますわ。生かしたところで、いずれ死を待つ運命……一度ぐらいの情け、どうということはありません」
ギーゼラという女に、マリアは何の思い入れもない。
恨みもないが、王の復讐を止める理由もない。恩義を感じて心を入れ替えるような女ではないのなら、さっさと消えてもらった方がいい――それはマリアも同意だ。
その手の類の人間は、下手に生かしておくと危険だ。いつ足元をすくわれるか……足元をすくわれる不安を抱えたまま過ごすこと自体、忌避すべきこと。
「……あの女がボロを出すのを、大人しく待っていろと?万一のことが起きたら……」
「もう、陛下ったら。辛抱強いにもほどがありますよ」
苦々しい顔でマリアの提案を聞くフリードリヒ王に、マリアはころころと笑った。
「いつか起きることが分かっているのなら、こちらの都合でそれが起きても誰も不思議がりませんのに」
虚を突かれたような表情――そして、フリードリヒ王も笑った。
「なるほど。おまえも、なかなか悪いやつだな」
「お褒めにあずかり恐縮です」
「冗談抜きに、俺もおまえを見習わないといかんな。王になったというのに、バカ正直に正面から向き合っている場合ではない。俺もまだまだ青いな」
「そうご自分を卑下なさらず。陛下は誠実で真っ直ぐな御方なのですわ。それは本来なら、人として素晴らしいこと……そう在ることを許されない、王という立場が異常なのです」
じっと自分を見つめるフリードリヒ王に首を傾げ、何か、とマリアは尋ねた。
「エンジェリクの先王が、お前に夢中になった理由が分かったような気がする。王をよくフォローし、そのくせ王の意見も尊重し、巧みに甘やかす……。エンジェリクに帰すのは惜しい。なんとしてもベナトリアに残るよう、俺も心して口説き落とさねばならん」
冗談めかして話すフリードリヒ王に、マリアは何も気づかないふりで笑う。
笑ってはいるが、マリアを見る目は雄弁に語っている――彼は本気だ。
「偉大なベナトリア王にそのように言って頂けて光栄ですわ。けれど、いまはどのような説得も無駄です。私は、どうしてもセイランへ行きたいので。どなたの説得にも耳を傾けるつもりはありません」
「おまえの頑固さは、短い付き合いだが把握したつもりだ。それほどまでにセイランに行きたいと……よほど会いたい男でもいるのか」
「そんなところです」
会いたい男。
ある意味では、その通り。マリアにとって、いま一番会いたくてたまらない相手だ。彼に会うために、セイランへ行くようなもの。
皮肉な思いでマリアが答えれば、フリードリヒ王はそれ以上詮索してこなかった。
「うーん。では、本番はおまえがエンジェリクに帰る時まで取っておくことにしよう。初めからがっつくと、逃げられてしまうからな。それはそうと、おまえがセイランに向かうまでには、必ず俺のベッドに連れ込んでやるぞ」
「楽しみにしておりますわ。私をベッドに連れ込めるほどお元気になれば、安心してベナトリアを発てますもの」
クラベル商会が滞在している宿舎に戻るのは、マリアも数日ぶりだった。
マリアが戻ってきたのを見て、クリスティアンが駆け寄って来る。愛しい息子を抱きしめて頬にキスし、それから息子の父親とも向き合った。
「ただいま戻りました。ヴィクトール様、フリードリヒ陛下より、クラベル商会ベナトリア支店の許可を頂いて参りました」
王からの書状を渡せば、ホールデン伯爵は苦笑いでそれを受け取る。
「支店の許可書はありがたいが……これを得るために君が代価を支払ったのではないかと思うと複雑だな」
「ご安心ください。恥じることのない、正当な報酬です。今回ばかりは、ヴィクトール様に顔向けできなくなるような真似はしておりませんわ。まだ」
「最後の一言で不安を掻き立てるには十分だ」
ほほ、とマリアは涼しい顔で笑う。
クラベル商会ベナトリア支店の許可書は、正真正銘、真っ当な労働の報酬だ。多忙なフリードリヒ王に代わって書類仕事に追われるマリアに、何か欲しいものはあるかと王が尋ねてきたから、遠慮なく褒美としてねだっておいた。
……たぶん、いずれは王のベッドに本当に連れ込まれることになるだろう。かわし続けると、かえって王の執着を強めてしまって危険だ。ある程度満足させて……あわよくば、それでマリアに飽きてくれればいいのだが。
「母上、やたらめったらと魅力を振りまくのは止めるべきだと、僕が忠告したばかりではありませんか」
「そんなつもりはなかったのよ――いえ、一部の方については、たしかに意図的に誘惑したのだけれど」
やり取りを聞いてたララが、やっぱ血筋かね、と訳知り顔で何やら頷く。
「マリアの親父さんの家系って、代々宰相を輩出してきただろ。だから王族と合う血筋なのかもしれねーな。生まれながらに、そういう気性なんだよ」
まさか、とマリアは笑ったが、ホールデン伯爵は真面目な顔で考え込んでいた。
「非常に説得力のある説だな。思えばマリアだけでなく、妹のオフェリアもエンジェリク王族を惹きつけ、クリスティアンもキシリア王女、オレゴンの王子に気に入られている。いっそそういう血筋だと言われた方が納得だろう」
「だろ。マリアの親父さんだって、キシリアの先王には尋常じゃないぐらい気に入られてたし。もう王族を惹きつける血筋なんだよ。宰相一族にとっては有利な素質だよな」
なんてことをララと伯爵が話している間に、宿舎に修道士シモンも戻ってきた。
「あなたも城からお戻りになられていたのですね。おそばを離れることを許していただき、ありがとうございました」
彼はマリアの従者をしつつ、ヨーナス司祭のいる教会に修道士としての勤めも果たしに行っていた。
多くの血が流れたから、亡くなった人たちのために祈りを捧げている――ヘルマンを始め、犠牲となった聖堂騎士団の仲間たち、生き延びるために自分が斬り捨てた敵、それから……公にされることのない、ベナトリアの先王。彼らの魂が救われるよう、一日の大半を祈りに費やしていた。
「公爵……少し前から考えていたのですが、あなたをセイランへ送り届けたら、私はベナトリアの王都に戻ろうかと。フリードリヒ陛下を見守っていたいのです」
「それは良い考えですわ」
マリアがベナトリアから去れば、フリードリヒ王は孤独となる。彼にはいま、心許せる相手がいない。先王の一件で、失ってしまった……。
修道士シモンとは旧知の仲だし、王も心強く感じることだろう。
「公爵がセイランからお戻りになる際には、再び護衛として公爵のもとに参ります。それまではヨーナス司祭様を手伝って、教会で公爵のお帰りを待つことにします」
「そう……それは良いのだけれど、あまり司祭様を変態扱いしていじめないようにね」
マリアが言えば、シモンは含みのある笑顔を浮かべる。
いまは修道士シモンも変態発言を控えているが、彼の日頃の言動は褒められたものではない。ヨーナス司祭も、彼にだけは変態呼ばわりされたくないだろう。
……いささか、司祭も節度がないような気もするが。
「変態司祭に愛想振りまくのもほどほどにしておけよ。司祭がデレデレし過ぎて、最近フリードリヒ王があいつのこと睨んでるぞ」
「大事な王の味方だから、大切にすべきなのに」
呆れたようなララの忠告に、マリアもちょっと不服だった。
王のための誘惑なのだから、王は寛大になるべきだ――と、マリアは真剣に思っているのだが、口に出すと伯爵にクリスティアン、ララ……四方から説教が飛んでくるので黙っておくことにした。




