鎮魂歌 (1)
城へやって来たクリスティアンは、王太子の部屋で待機していたマリアに会い、血の気が引いていた。真っ青な顔で、暴行の跡が残る母を見つめる。
「は、母上……!ご自分をもっと大事になさってください!父上に怒られても、取り成してあげませんよ!」
「心配かけてごめんなさい。どうしても、必要なことだったのよ」
心配のあまりいきなり説教となってしまった息子を、マリアはなだめる。
これで愚かな王を引きずり下ろすことができたのだから、顔の傷などマリアにとってはどうでもいいこと。でもクリスティアンやホールデン伯爵にとっては、自分が傷つくよりも辛いこと……。
衝立の向こうで、ベナトリア王――王となったフリードリヒ王が目を覚ますのを感じて、マリアは静かに寝室を覗く。痛みに顔を歪めながら、フリードリヒ王がベッドから身を起こそうとしていた。
「おはようございます、フリードリヒ陛下。そのように急いで身体を起こすと、傷に障りますわ」
「……俺はどれぐらい眠っていた?」
命にかかわるような怪我はなかったが、やはりあの牢獄に長期間捕えられていて、王の身体は衰弱していた。
鎖を引きちぎって父親を攻撃したのは、怒りと憎しみで我を忘れていたから成し得たこと。診察した医者も、この身体で自ら立ち上がって喋った、というだけで驚愕していた。
「一晩程度です。お休みになられてから、半日も経っておりません」
「それだけ時間が過ぎていれば十分だ」
十分な時間。
それは、休養のことを指しているのではない。
臣下たちに与えた時間のこと……簒奪者であるフリードリヒ王に従うか、否か。王への意向を定め、血の気の多い者なら反乱を考えていても不思議ではない。
「僭越ながら。私は陛下のことを、友のように想っております。友としての忠告が許されるのなら、もう少し休養を取って頂きたいです」
寝衣を脱いで着替えを始めるフリードリヒ王に向かって、マリアは静かに言った。じっと自分を見つめる王に、わずかに頭を下げる。
不興を買って、この場で斬り捨てられることになっても……無駄だと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「気遣いに感謝する。だが俺には、ゆっくりしている時間などないのだ……もう二度とな」
その返事も、予想していた。
いままで、色々な王を見てきた。人の上に立つ者に、安らぎなどない。常に孤独で、多くのものを抱えて、何かに急かされていて……。
「おまえの息子か?」
着替えながらマリアを振り返り、王が言った。視線を追うと、部屋の外からちらりと中の様子をうかがうクリスティアンが。
ここまでそっくりだと、紹介する必要もない。
「はい。長男のクリスティアンです」
マリアが手招きすれば、おずおずとクリスティアンが部屋に入って来る。初めまして、と礼儀正しく頭を下げるクリスティアンに、フリードリヒ王はふっと笑った。
「母親に似た美人に育ちそうだな。将来が楽しみだ――母親を大事にしろよ」
そう言って、王はクリスティアンの頭をぽんと叩き部屋を出て行った。
「私はもうしばらく城に滞在するわ。セイランへ……逸る気持ちはあるけれど、フリードリヒ陛下の体調が気になるもの」
「分かりました。父上たちに伝えます。父上もきっと理解してくれますよ。こっそりベナトリア支店の計画を立てていましたし、もしかしたらこうなることを予想していたのかも……」
クラベル商会の宿舎へと帰っていくクリスティアンを、マリアは見送った。ララもクリスティアンを宿舎へ送るため、一時的にマリアから離れていた。
修道士シモンを従者に、マリアはフリードリヒ王の姿を探した。
突然の即位に戸惑う家臣たちと、今後のことを話し合っているはず――と思ったら、彼は執務室にいた。線の細い、いかにも文官といった恰好をした男たちに囲まれている。
声をかけるかどうか考えるよりも先に、フリードリヒ王がマリアに気付いて満面の笑みで近寄ってきた。
……嫌な予感しかしない。マリアだけでなく、供をしていた修道士シモンもきっと同じ気持ちだったに違いない。
「マリア、丁度よいところに来た。おまえだけが頼りだ」
そう言って王はマリアの腕を引っ張り、豪奢な細工が施された椅子に案内する。座るよう勧められて、マリアは辞退したくてたまらなかった。豪華な椅子にふさわしい重厚なデスクには、書類が山積み……。
「これから会議なのだが、その前にこの書類を片付けて行けと詰め寄られたのだ。俺の身体はひとつ。おまえは公爵領の領主も務め、書類整理や細々とした作業は得意だとシモンから聞いている。いまの俺にとっては、天の遣いだ」
なんと調子の良い。
余計な評価を吹き込んだシモンを睨みつつ、マリアはため息をついた。
「では、これはおまえに任せたぞ。俺がサインだけすればいいようにしておいてくれ」
「いくら何でもそれは無茶です。外国人の私が見ていいものでもないでしょうに――」
マリアの反論を聞く素振りも見せず、フリードリヒ王は笑顔で執務室を出て行った。残されたマリアは、目の前の書類と、難しい顔をした文官らしき男たちを眺めてため息をつく。
「……とりあえず、私で何とかできるものは引き受けますわ」
外国人の自分に任される仕事など大したものではないだろう。
そう高を括っていたのだが、家臣たちは結構容赦なく仕事を寄越してきて。
これぐらいできますよね、という顔で渡されては、マリアも首を振ることはできず。意地になって仕事を片付けていき……そうやって片付けてしまうから、次々仕事を押し付けられてしまうのでは、と修道士シモンに苦笑されてしまった。
「働くのは構わないんですけどね。ずっとお客さん扱いで、ただ寝ただ食いで城に滞在させてもらうよりは気が楽です」
それは強がりではなく、マリアの本音だった。
ベナトリアに来てから王太子、聖堂騎士団、周囲の人々には世話になりっぱなしだ。少しぐらい自分も労働すべきだと思うし、働くことは嫌いじゃない。書類整理とかは、マリアの得意分野だ。
……でも。
もうちょっと外国人の自分に任せる仕事は選ぶべきだとも思うの。
渡される山よりもマリアが片付けて積み上げていく山のほうが大きくなった頃、執務室の外がにぎやかになった。
フリードリヒ王が戻ってきたのだろう。
「……分かっている、それらの議題については明日、改めて議論することにしよう」
大臣や部下たちと話しながら、王が執務室に入って来る。片付いた仕事の山を見て、顔を輝かせた。
「いやぁ、見事。おかげで助かったぞ」
フリードリヒ王は、本心から褒めている。たぶん、彼はこういった仕事が苦手なのだろう。
……そんな感じはする。
「宰相よ、無粋な話はここまでだ。俺は彼女の世話になりっぱなしだからな。公爵を労う必要がある」
マリアに近寄り、するりと腰に手を回してくる。周りに見せつけるように……。
もう、とマリアはため息をつき、自分の腰を抱く王に連れられるまま、執務室を出た――途端、王の体重がのしかかってくる。
マリアは足を踏ん張り、必死で王の身体を支えた。マリアが支えていることなど周囲に気付かれぬよう、王は平静を装っているが……。
強がりに、見栄っ張りの意地っ張り。
自分は、妙にそういう人間に縁がある。
――そう愚痴をこぼしたら、お前が言えたことか、とあとでララに笑われてしまった。
「陛下、しっかりなさって。もう少しでお部屋ですよ」
笑ってはいるが、フリードリヒ王はもう限界だ。いや、限界などとうに超えていた。最初から。
起き上がって何気なく振舞うことすら、できるはずがないのだ、本来なら。
恐ろしいほど強靭な気力で支えているだけで、常人なら、ベッドから起き上がることもできない状態。それを家臣たちには気取られたくなくて、雄々しい王の姿を取り繕っているだけ。
王には、弱音を吐くことも許されない……。
部屋に着くと、フリードリヒ王は膝から崩れ落ちた。それを修道士シモンが素早く駆け寄って支え、なんとかベッドに彼を連れて行く。
「医者を――」
「だめだ。俺の不調を外部に気付かれるような真似は許さん。医者など信用できるか。王の弱った姿を見て、諸侯たちが何を考えるか……」
フリードリヒ王は簒奪者。それは、覆すことのできない事実。
王太子ではあったが、父王を始末して、血塗られた手で王冠を手に入れた。
正統な王であることを証明するため、王は孤独に耐え、これからも多くの試練を乗り越えていかなければならない。いまも、家臣や諸侯を頼ることができず、虚勢を張って、強い王であろうと……。
「フリードリヒ様。ではせめて、ヨーナス司祭様をお呼びしましょう」
司祭は薬草の知識に長け、多少は医学の心得もある。司祭の、王への敬意を疑う必要はない。
捕らわれたフリードリヒを憐れみ、救出を手助けした。それに……彼がマリアに逆らうことはない。
「……分かった。司祭だけは許してやる」
王の言葉に修道士シモンはホッとし、すぐにヨーナス司祭を迎えに部屋を出て行った。
残されたマリアはフリードリヒ王が横たわるベッドのそばに座って、彼の看護を……。
「まったく。美人と二人きりになっておきながら、口説くこともできんとは。我ながら、なんとも情けないことだ」
「フリードリヒ様ったら」
マリアは明るく笑い、王の髪を撫でる。フリードリヒ王は、瞼が重そうだ。
「マリア。司祭が来たら、ヘルマンたちのことを……あいつらを手厚く弔ってやらなくては……」
「承知しております。司祭様は、すでにヘルマン様たちのご遺体を教会に運んで、改めて埋葬する準備を……。ヘルマン様は、亡くなられたお父様、お兄様と同じ教会にしてもよいか、相談を受けておりました」
「ヘルマンは……父や兄と同じところにしてやりたい司祭の気持ちも分かるが……できれば俺が通いやすい場所にしてほしい。遠くはいやだ……」
疲労と睡魔で、フリードリヒ王も口調が幼くなっている。
きっと、ヘルマンのような親しい相手にだけ見せてきた素顔。マリアは何も気づかないふりで、態度を変えることなく王に接した。
「ではそのように。司祭様も、フリードリヒ様のお気持ちを優先してくださいますわ」
「俺が王になったら……あいつを聖堂騎士団の団長に……真っ先にそれをやるはずだった……」
「ヘルマン様は、その地位に相応しいだけの才覚をお持ちでした。それはきっと、誰もが認めております」
ふと、部屋の片隅に飾られたリュートにマリアは視線をやった。
いつか、フリードリヒ王が自ら演奏していたもの。あの時はヘルマンが王の演奏を聴いていて、マリアもララと一緒に王の演奏に聞き入っていた……。
「あのチャコ人の従者はどうしている……?」
マリアがリュートを眺めているのに気づき、王が重たい瞼を開けて尋ねた。
「今日は私の息子を送るため、城を離れております。外国人ですから、やはり遠慮しているのでしょう」
「なら、おまえがセイランへ行く前に、城へ寄らせろ……あいつが演奏していた曲を、俺も覚えておきたい……」
「はい。ララに伝えておきます」
リュートを手に取り、マリアはベッドに戻ってきた。フリードリヒ王はそれに触れることを許してくれているようなので、マリアも遠慮なく……。
「……おまえ、もったいぶっていたな。俺がすすめた時には断ったくせに」
リュートを奏でるマリアに、王が苦笑いする。マリアも苦笑いで返し、リュートを奏でる手は止めないまま、ご容赦くださいませ、と言った。
「フリードリヒ様の見事な演奏の直後に、自分の拙い腕を披露できるほど、私も勇者ではありませんの――それに、やはりララには劣りますわ。この曲を教えてくれたのは、ほかならぬ彼ですし」
ララは、マリアの婚約者だった。
幼い頃からの知り合いで、時々キシリアに遊びに来て。その時に、チャコ帝国では有名なこの曲をマリアに教えてくれた。リュートの腕前は、ララのほうが上だ。
「子守歌として奏でられることも多いこの曲ですが、もとは恋の詩なのだそうです。愛しいあなたを、いつまでも待ち続けると。来ぬ人を恋い慕う曲だとか」
「……そうか」
それきり、王は目を閉じて黙り込んだ。
マリアもお喋りを止め、リュートを奏でていた。




