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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その悪名伝~  作者: 星見だいふく
第二部03 骨肉の争い
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憎み合う


「私で、何か力になれることはございますか?」


血と、泥と……屈辱にまみれて汚れてしまった王太子の手。ためらうことなく、マリアはそれに触れる。マリアの手の中で。王太子がぎゅっと自らの手を握り締めるのを感じた。


「……ここから逃げ出すことなら、そう難しいことじゃない」


王太子が動き、マリアの手に何かが触れた。ザラザラとした表面……手の中に隠せてしまいそうな小ささなのに強度はあって……これは、やすり?


「あの男についていけなくなった人間は、少なくないらしい。俺がここで生活するのに不自由しない程度には差し入れがくる。おかげで助かっている――色々とな」


王太子が助かったのは、密かに王に逆らう人間がいたから。どうやら、ベナトリア王の人望のなさは、マリアが思っている以上に悲惨なようだ。


「逃げるだけなら、いますぐにでも。だが……」


フリードリヒ王太子は言葉を切り、マリアの手を強く握った。


「あの男を、ここへ連れてくることはできるか?」


なぜ――と、問いかけることもせず。問いかける必要もない。

マリアは王太子の手を両手で包み、口付ける。それは、臣下が主君に見せる忠誠の証。


「必ず、連れて参ります」


その時のフリードリヒ王太子がどんな表情をしていたのか、マリアには見えなかった。握った手から伝わるもの……それだけで、マリアには十分だった。




ヨーナス司祭に感謝の意を伝え、マリアは修道士シモンやララの待つ宿舎に帰ってきた。フリードリヒ王太子の無事を知ってシモンはホッとしていたが、ヘルマンたちの死が王による処刑であったことを知ってショックも受けていた。

……それでも、シモンがぽつりとこぼした言葉をマリアは聞き逃さなかった。やはり、と。修道士はたしかにそう呟いた。


「殿下の無事を確認できたからには、次の行動に移りましょう。シモン様、密告者の正体は把握できておりますか?」


マリアの問いに、確証はありませんが、と前置きを入れて修道士が答える。


「密告者は彼らだ、という目星はついております。始末しますか?」

「いいえ。私たちが手を下してしまってはいけないわ。きっとその役目は、殿下が望まれるはず」


裏切者、卑怯者……王太子はきっと、彼らへの復讐を望む。その強く、歪んだ想いが、王太子を支えている。それを奪うわけにはいかない。

マリアが成すべきことは、彼が本懐を遂げられるようにすること……。




マリアが行動を起こしてから、翌日。向こうから行動が返ってくるのも早かった。

教会の修道士がマリアたちのいる宿舎にやって来て、どこかおどおどした様子で、ヨーナス司祭が呼んでいる、と言伝を。


「シモン様はここでお待ちになったほうが。いざとなったら、王を斬ることになってしまうかもしれませんよ」


当たり前のように自分についてこようとする修道士シモンに振り返り、マリアが言った。


「例えそうなったとしても、公爵を守るのが私に与えられた役目です」


ヨーナス司祭からの言伝に素直に従い、マリアは教会へ来た。

――途端、待ち構えていた騎士に捕らえられる。


「何が目的だ」


屈強な騎士に並ぶと、彼の小ささはいっそう際立つ。それでも、一番偉そうに立っているその姿は滑稽で……実際、一番偉いのだろうけれど。


ヨーナス司祭は、マリア同様逮捕されていた。

フリードリヒ王太子に会いに行ったことを知った王が、逮捕命令を出した――そしてマリアを呼び出した。

計画通り……順調に物事が進んでくれるのは有難いが、あまりにもちょろ過ぎる。もうちょっと、密告の真意を探ってみたり、怪しんでみたりすればいいのに。

……それほどまでに、ベナトリア王も王太子への感情を拗らせているのか。実の息子に……。


「なぜ王太子に近づく。何を企んでいる」


問いかける王から視線を逸らすことなく、マリアは周囲にも注意を払った。

王の命令に従ってはいるが、全員がその命令に納得しているわけではなさそうだ。聖職者や女性に手をかけることに、戸惑っている様子もある。特に王の近くに控えている軍隊長のグスマンなどは顕著で、視線をさまよわせ、自分の取るべき行動を悩んでいるようだった。


――きっかけさえあれば、この均衡は崩れる。

マリアはにっこり微笑んだ。


「そのような問いかけ……陛下はすでに予見なさっていたではありませんか。エンジェリク王の指名を受けた使者の護衛。それを隠れ蓑に、フリードリヒ王太子はエンジェリクへ逃亡するつもりだ――そうおっしゃって殿下を逮捕するよう命令したのはどなたです?」


マリアの言葉に、王が鼻白む。

それは、王が王太子を逮捕するために作り上げたものであった。


エンジェリクより客が来る――それも、エンジェリク王家に関わる人間。その護衛を引き受けて、王太子排除の口実を作る。

王太子は彼女の護衛につくふりをして、その実はエンジェリク逃亡を図るつもりだ。そうでっちあげて、王太子を逮捕した……でっちあげの、はずだった。


「ま、まさか、あいつは……余を裏切るつもりだったのか!?」


顔色を変えて狼狽するベナトリア王に、マリアは笑い出したいのを堪えた。

自分が王太子を排除したがっているように、王太子も自分を目障りに感じているかもしれないと、考えもしないのかこの男は。


「王よ、どうかお考え直しを。そのような話、偽り事に決まっております。フリードリヒ殿下が陛下を裏切るはずがございません」


司祭が、必死の面持ちで訴える。ヨーナス司祭には、マリアの企みを話していない。

王太子との接触が露見したこと……王への密告が、マリアが謀ったこととは知らない。それでも、ヨーナス司祭は自身の命ではなく王太子の身を案じていた。司祭が王太子を敬愛する気持ちは本物だ。

――善良さで有名な司祭に命乞いしてもらったほうが、臣下たちの心も動かしやすいというもの。


「王太子は国のため、王のため、常にその期待に応えようとしていたではありませんか。王太子を喪うことは、国にとっても、王にとっても大きな損失です……」

「黙れ」


司祭の説得は、かえって王の神経を逆撫でするだけだと誰もが感じていた。王はもう、誰の意見にも耳を傾けない。傾けるつもりもない……。


王がマリアたちを捕えている騎士に合図を出し、強引に歩かせる。

……きっとこうなると思っていた。


ヘルマンたちを――王太子に忠誠を示す人間を、彼の目の前で無慈悲に殺したように。王が同じことを繰り返すだろうと……王太子の心を完全にへし折るために……どこまでも絶望に追い詰めるために……。


マリアの予想通り、王が向かった先はフリードリヒ王太子のいる監獄だった。日も差さぬ地下深く、グスタフを始め数人の騎士だけを連れて王太子のいる独房へ。

松明に照らされ、王太子が顔をあげた。やつれてはいたが、その目から光は消えていない。このような状況にあっても正気を失わない王太子の強靭さに、グスタフたちが密かに息を呑み、感心しているのをマリアは感じ取っていた。


「フリードリヒ、この女が証言したぞ。おまえが、余を裏切ろうとしていたこと」


王が、王太子に向かって言った。


鎖に繋がれ、身なりを整えることもできずに屈辱にまみれた姿となった王太子。高貴な衣に身を包み、尊大な態度で王太子を見下ろす王。

それでもベナトリア王に敬意を払う気になれないのは、王があまりにも小物くさいせいだろうか。


「見るがいい。おまえのせいで、命を落とす者が増えた。ヨーナスは人望厚き司祭であったというのに、実に残念だ。おまえのような男を憐れんだために……。余の息子でありながら、おまえはつくづく期待外れの出来損ないであった。芸術など……軟弱で、何の利にもならぬものにかまけ、おまえは余の教えに逆らい続けた……」


王が言葉を切り、マリアに振り返る。ついに堪え切れなくなって、マリアは笑い声を漏らしてしまった。

嘲笑するマリアに、王が顔を歪めて近付く。


「何がおかしい?」

「失礼。あまりにも見苦しくて」


王だけでなく、その場にいる全員がマリアに注目していた。悋気で、短気で、極めて機嫌の悪い王に、何を言うつもりか。

心配と不安と、ほんの少しの好奇心に、周囲は黙り込み、展開を見守っている。


「男の嫉妬は見苦しいですよ、エルンスト王。お認めになったらいかがです。陛下は、王太子殿下に嫉妬しているだけだと。老いてよりいっそう小さくなった陛下には、若く勇猛な王太子が恐ろしくてたまらないのですわ。陛下の自信を奪い、尊厳を危うくする我が息子が目障りなだけ……男として、何もかも負けてしまっているから」


思い切り頬をぶたれ、マリアは吹っ飛んだ。捕らえていた騎士も突然のことに支えきれず、汚らしい地面にマリアは倒れこむ。衝撃で目の前がぐわんぐわんと揺れていた。

起き上がることもできずに地に伏せたマリアの腹を、追い打ちをかけるように王が蹴り上げる。

……ブーツで腹を蹴られると、男女逆でもかなりのダメージだ。それは、マリアも経験から知っていた。


「この……女狐が!貴様が王太子をそそのかしたのだろう!」


じゃり、と。

泥のついたブーツで頭を踏みつけられた。視線だけ動かしてマリアはベナトリア王を見上げ、怒りで王としての威厳を捨て去った愚かな男を鼻先で笑い飛ばす。

それはベナトリア王の怒りにさらなる火を点けた――無様な姿を、もっと晒せばいい。マリアを傷つければ傷つけるほど、自分の威信も地に落ちていくことに気付きもせず……。


「下らない男。あなたができることは、抵抗もできない女を殴ることだけよ」


ばきっ、と音がして、額を何かが伝うのを感じた。杖で殴られて、たぶん額が切れた……。


「グスタフ!この女の首を斬れ!」


これだけ王を侮辱すれば、裁判も必要ない。その場で斬り捨てられても当然なのだが……軍隊長は動かない。王とマリアに交互に視線をやり、立ち尽くしている。


「陛下……しかし、彼女はエンジェリク公爵で……彼女に手を出せば、エンジェリク王が……」

「おまえの王は誰だ!?余の命令が聞けぬのか!?」


周囲の騎士たちも困惑し、動揺している。

グスタフは、エンジェリクとの敵対を恐れているわけではない。女性を手にかけることをためらっているのだ。


拘束された女性に武器を振り下ろす――騎士にとって、それがどれほど恥ずべき行いであるか……。ウォルトン団長なら――高潔なエンジェリク騎士なら、我が主君であってもそのような振る舞いを許さなかっただろう。それはきっと、ベナトリアの騎士たちにとっても同じ。


騎士道を重んじる彼らは、激しく心揺れている。騎士として主君の命令に従うこと……騎士として誇りを守ること……。


彼らが葛藤に答えを出す前に、王太子が動いた。

ガシャン――鎖が動く音……王太子が吠える。


雄たけびにも似た咆哮に、ベナトリア王もマリアへの怒りを忘れ、恐怖を浮かべた。


「な、なにを……!?」


マリアにも、何が起こったのか分からなかった。

金属が飛び散ったような音がしたと思ったら、何かが鋭く風を切り裂いた。続いて、ベナトリア王の悲鳴。


気付いた時には、ベナトリア王が床に転がり、のたうち回っていた。顔を押さえ、痛みに悶えている。

騎士たちも呆気にとられ、松明を持ったまま立ち尽くしているだけ……。


ゆっくりと王太子が前に進み出てきた。じゃらじゃらと鎖を引きずって。

フリードリヒ王太子は、自らを捕えていた鎖を引きちぎった――差し入れられた道具で戒めを弱めていたのだろうが、それでも……。一か月以上この闇の中に捕らわれて、それでもなお、鎖を引きちぎるほどの力を残していた……。


「……その男を捕えろ」


フリードリヒ王太子が、床に転がる王を見据えて命令する。


どうやら、引きちぎった鎖を鞭のようにしならせて、ベナトリア王を攻撃したらしい。腕についたままの鎖は、引きずるほど長い。

……それに比例した重さがあるだろうに、衰弱しているはずの王太子はそれをものともせず振り回して。


「その男は、エルンスト王の名を騙る偽物だ。偉大なるベナトリアの王が、このような男のはずがない」


王太子の言い分に、反論する者は誰もいなかった。

王太子は、騎士の主君にふさわしい資質を証明してしまった。幽閉されようとも、その強靭さは失われることなく。これこそが、最強と名高い騎士の国の王のあるべき姿。反逆は、正統な後継者を示す証として受け入れられてしまった。


まだ痛みに呻いているベナトリア王を……王の名を騙る誰かを騎士たちは急いで捕え、男の抵抗を無視して連行していく。


僭王が去ると、王太子はよろめいた。自力で立ち、歩いているだけでも奇跡のようなもの。フリードリヒ王太子の体力は、とうに限界を迎えている。

軍隊長のグスタフが慌てて駆け寄り、王太子に手を貸そうとした――が、王太子がそれを冷たく拒絶した。


「いらぬ。少し疲れただけだ……それより、ヨーナス司祭と、マリア……オルディス公爵の手当てを。王に断りもなく、いつまで拘束しているつもりだ」


フリードリヒの言葉に、一同が息を呑み、姿勢を正した。

ベナトリア王は、王の名を騙る偽物だった――ならば、空いた玉座の新たな持ち主は。


「城に戻り、俺も休養を取る。俺が目を覚ますまでは、おまえたちも休んでいるといい。俺が目を覚ましたら、忙しくなるぞ」

「御意に――陛下」


軍隊長は頭を下げ、他の騎士もそれに倣う――こうして、ベナトリアには新たな王が誕生した。


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