血塗られた城 (4)
マリアが宿舎に戻ってきてからほどなく、修道士シモンも帰ってきた。
彼も自分の伝手を利用してフリードリヒ王太子のことを探っていたようだが、結果は芳しくない。
「やはり殿下の行方は分かりません。陛下からの命令で城へ戻ってきたのは間違いないようなのですが……何か知ってはいるようなのに、口を割ろうとしないのです。どこで陛下が聞き耳を立てているのか……誰が陛下に密告するか、不安なようです」
「エルンスト陛下は、それだけ人望がないということね」
家臣同士の密告が横行するということは、それだけ王の足元が不安定ということ。
……あの王ではね。
余所者のマリアですら、納得するしかない。
「何かきっかけがあれば、簡単に決壊することでしょう。悠長に待っている暇もないので、こちらから突いていくしかないですね」
マリアは微笑み、修道士シモンにこれからのことを説明した――。
ヨーナスは恐怖に震えていた。必要最低限の家具だけが揃った自室で、一心不乱に祈りを捧げる。
悪魔の囁きに屈してしまった。
犯した罪、暴かれた本性に、司祭は愕然としていた。
……そんなつもりはなかった。
彼女に手を伸ばしたのは……ただ、抱きしめて欲しくて……。怖がらせるつもりなんてなかった。小さい頃は抱きしめてくれた彼女も、成長すると距離を取るようになり。男の自分に、尼僧の彼女が触れられないのは分かっていた。
それでも。
これが今生の別れになるかもしれないから……最後にもう一度だけ。
けれど彼女は厳しく拒絶した。頬を叩き、我に返ったロルフを鋭く睨みつけていた。
あの時の彼女の表情……眼差しを、忘れることはできない。軽蔑と失望が入り混じったものを向けられ、ロルフは絶望するしかなかった。
罪に問われることはなかったが、彼女が会ってくれることはなかった。二度と。謝罪も拒絶されて。
当然だ、と思いながらも、行き場のない感情がロルフの心の奥底で渦巻いていた。
そして僧籍に入り、二度とこのようなことを起こすまいと自分を戒めた。女性には、なるべく近づかないようにした。
年を取って、さすがにもうそんなものに反応することはないだろうと油断していたのかもしれない。高貴な女性が自ら赤子の世話をするのは珍しい――その展開を予想していなかったというのもある。
遠く離れた我が子を想うオルディス公爵に、激しく心を揺さぶられて……。
自室の扉をノックする音に、ヨーナスは飛び上がりそうになった。
誰だ、と聞けば、男の声が返ってくる。
修道士シモンが、いつもと変わらぬ様子でヨーナスを訪ねてきた。
「夜分遅くに失礼いたします。ヨーナス様。オルディス公爵が、あなたと内密に会いたいと。用件は言わずとも察してくれる……そうおっしゃっていましたが、司祭様のほうに心当たりは?」
司祭に答えられるはずもなかった。他の選択肢などない。ヨーナスは黙って、修道士シモンについてオルディス公爵のもとへ向かうしかなかった。
ヨーナス司祭の苦悩が、マリアには手に取るように分かった。断頭台に登るような気持ちで、マリアのもとへ来ることだろう。
司祭にあるまじき蛮行――それに対して、マリアがどのような行動に出るか。
果たしてこれは、司祭が想像した通りの展開だろうか。
「公爵……これは……?」
部屋に入ってきた司祭は、マリアの姿を見て目を丸くした。
胸元が大きく開いた、薄手の寝衣。整えられた寝室。
男を誘うためのそれに、司祭は動揺している。普段の真面目な彼なら嫌悪し、すぐにでも部屋を後にしただろうが……いまはただ戸惑い、立ち尽くしていた。
「ロルフ」
にっこりと微笑み、マリアが優しく司祭の手を取る。
どうしてその名前を――なんて、問うことも忘れて。司祭は息を呑む。
「私のことを、軽蔑したのでは……?昼間のことで、怒って……」
「怒ってなんかいないわ。叱っただけよ。あなたが危ないことをするから」
幼子に言って聞かせる母親のような口調でマリアは彼の言葉を遮る。
「小さな子もいたし、誰がやって来るかも分からない場所であんなことしちゃダメでしょう?ここなら大丈夫……いらっしゃい。もう怒ったりしないから」
強く引っ張ったわけでもないのに、マリアに手を引かれるままヨーナス司祭は近付いてくる。もう一方の手で司祭の顔を撫でれば、弾かれたようにヨーナス司祭はマリアに抱きつき、胸に顔をうずめてきた。
大きな図体であることは無視して、子どもをあやすようにヨーナス司祭を愛しむ。
「ロルフは良い子ね。お母様は、あなたのことが大好きよ」
男というものは、いくつになっても母親を恋い慕うものらしい――自分も父親の面影を求めることはあるから、気持ちは分からなくもないけれど。
修道士らしい、地味で少し古びた衣。一番小さいサイズを借りたはずだが、それでもマリアが着れば袖が余っていた。大きめの服のほうが、体型やちょっとした仕草も誤魔化せるから、悪くはない。
髪もしっかりまとめて……部屋を出たら、フードもなるべく深くかぶっておかないと。
着替え終えたマリアは、相変わらず浮かない表情をしている修道士シモンに苦笑する。
「シモン様。苦々しい思いは分かりますが、これもフリードリヒ殿下を助けるため。人助けのためですもの。聖母ルチルも許してくださいますわ」
敬愛する司祭が、色欲によって堕落させられた――修道士にとって、愉快な出来事ではない。マリアとて、面白半分で聖職者を誘惑したわけではないのだ。王太子を助けるためだと割り切って……つい言い訳してしまうのも、許してほしい。
「致し方のないことだとは思っております。それに、結局は心の弱さを克服できなかったヨーナス様ご自身の問題……オルディス公爵を非難するつもりはありません。人には誰しも弱さがあり、それに負けてしまう時があるのも、人間なら仕方のないこと。悩み続け、努力し続けることが我々に課せられた使命。ただ……」
修道士シモンが大きくため息をつく。
「尊敬していた御方が、実は赤ちゃんプレイという変態性癖の持ち主だったことがショックで」
「おま……いや、あながち間違いでもねーけど。あの司祭だって、お前にだけは変態とか言われたくないって思ってるだろ」
ララが呆れたように言った。
「私の変態ぶりなど、まだまだです。せいぜい美しい公爵の足で踏みつぶされたい程度で」
「はいはい」
深く追求しても修道士を喜ばせてしまうだけなので、マリアは流すことにした。でも、とララがマリアに話題を振る。
「お前も妙なところ律儀っていうか、義理堅いっていうか。何もあの変態司祭に良い思いさせてやることなかったじゃん。女を襲ったなんて、司祭にとっては致命的な弱みだろ。それで脅せば十分だったんじゃねーの?」
「あの手の人間は抑圧するとかえって危険なのよ。罪悪感や責任の重さに耐えかねて、早まった真似をする可能性が高いの」
基本は善良で真面目――そういう男は、思い詰めると過激な行動に出がちだ。マリアも身を持って経験してきたこと。
だから優しく懐柔して、自ら跪きたくなるように仕向けたほうがいい。
自分の弱さが招いたこととは言え、マリアが原因で自殺でもされたら寝覚めが悪いし。
「鞭で厳しく躾けたら、飴をあげて、ちゃんと甘やかしてあげなくちゃね」
悪びれることなくマリアが言えば、ララが苦笑した。しかしそれ以上何か言う前に、部屋をノックする音が聞こえてくる。
お客様がお見えです、というノアの呼びかけに、マリアは振り返った。
――迎えが来たようだ。
「それじゃあ行ってくるわ。できれば今日中にでも、フリードリヒ殿下を救出できればいいのだけれど」
「多くを望むこと、結果を急ぐことは、かえって大きな損失を生みます。まずは殿下の安否を」
修道士の説教じみた忠告に、今回ばかりはマリアも素直に頷いておいた。
向かう先は監獄――ベナトリア王によって投獄された相手に会いに行くのだ。焦って事を起こしてはいけない。それぐらいはマリアも理解していた。
「勤め、ご苦労」
ヨーナス司祭が声をかけると、看守も気さくに挨拶を返す。
人格者で有名な司祭は、監獄でも歓迎される相手だった。
囚人への説教、聴罪、差し入れなど。聖職者は、罪人と外の世界を結ぶ唯一の人間だったりもする。だからヨーナス司祭が監獄に出入りすることは、特に不思議なことでもなかった。
そんな司祭の後ろについて、なるべく目立たぬようマリアは歩いていた。
ヨーナス司祭は慣れた足取りで監獄を進み、看守の一人に静かに声をかける。恐らく、看守の中でも司祭が最も信頼している相手。司祭がボソボソと短く話しただけで、彼はすべてを理解したように頷いてみせた。
「……会って話をするだけですよ。誤魔化せるのは、一時間が限界です」
「感謝する」
さりげなく鍵を受け取り、司祭はその看守とすぐに別れた。
それがどこの部屋の鍵なのか、ヨーナス司祭は尋ねもしなかった。この監獄では有名な独房なのだろう。
司祭は足を止めることなく進んでいき、いくつもの階段を下りていく。囚人はおろか、看守の姿も見かけぬほど、人気のない場所。
大きく頑丈な扉の前でヨーナス司祭は受け取った鍵を取り出し、開錠する。扉を開けた瞬間、吐き気を催すほど不愉快な臭いが一気に流れ込んできた。
「公爵……申し訳ないが、ここから先は……」
ヨーナス司祭は、本気で拒絶していた。この臭いでは無理もない。ただの悪臭ではないのだから。
その臭いは、死を強く感じさせた。不吉で……大半の人間が、即座に逃げ出したくなるようなものを孕んでいる。
「ありがとうございました、ヨーナス様。ここからは私一人で行って参ります。殿下にお会いして無事を確認したらすぐに戻りますわ」
「急いでくれ。このことが王に発覚したら、私たちも命はない……」
司祭から鍵を受け取り、マリアは扉をくぐって次の階段を下りた。下りた先には、もう一つの扉。小さな小窓がついているが、中は真っ暗で何も見えない。何かが動く気配もない……本当に、ここに……?
鍵を使い、最後の扉を開ける。持ってきた小さな松明だけが、唯一の灯り。マリアは用心深くあたりを照らし、そして見つけた。
日の光も届かぬ暗闇で鎖に繋がれ、フリードリヒ王太子はそこにいた。
「殿下……フリードリヒ様!」
床に横たわったままの王太子に、マリアは近付く。一瞬、もう手遅れだったのかとヒヤリとした。
王太子が捕えられた独房は酷い有様で、長年に渡る汚物と死臭が染みつき、人が暮らせるような状態ではなかった。一日過ごしただけでも、常人なら発狂してしまうのではないのだろか……そんなところで捕らわれていた王太子が生きてるなんて。そちらのほうが奇跡だった。
「う……マリア、か?」
王太子は動き、マリアが持つ松明の光に顔をそむけた。まぶしくて、目を開けていることもできないと言わんばかりの様子……それは、王太子がこの暗闇で過ごして長いことの証だ。
「お前がここにいるのなら……聖堂騎士団は?いったい、どれぐらいの時間が経った?」
「最後に私が殿下とお別れしてから、一か月以上経っております。聖堂騎士団は……」
マリアは言葉を区切り、一度深呼吸して、改めて説明した。
「ベナトリア王の手引きで侵入したフランシーヌ軍により、大打撃を受けました。シモン様が彼らをまとめて逃亡し、何とか壊滅だけは逃れましたが、あまり芳しい状態ではありません」
「王が……フランシーヌ軍を、手引きしただと?」
「確たる証拠はありませんが、フランシーヌ軍の指揮官が認めておりました。デュナン将軍ですら、ベナトリア王の密告に困惑していたぐらいで」
マリアは王太子の様子を観察した。
王太子は驚いているが、否定する様子はない。マリアの言葉を疑ってもいない。心当たりがあると……。
マリアも、王太子に問いかけた。
「殿下……ヘルマン様たちのことは……?」
「知っている。あいつらは、俺の目の前で首を切り落とされたのだからな」
ああ、やはり。
王太子は知っていた。ヘルマン――自分の腹心の部下が。信頼していた友が。かけがえのない相手が、すでにこの世にいないことを。
「あの男がやった。俺は城へ戻るなり反逆者として逮捕された。エンジェリクに逃亡するつもりだったのだろうと、そう問い詰めてきて。それでヘルマンたちを俺の目の前に並べた。俺の背信を証言しろと……馬鹿な奴らだ。俺のことなど見捨てて生き延びればいいものを。あの男の望み通りの言葉を口にしなかったから、共犯として処刑されて……」
王太子の言葉の一つひとつに、激しい憎しみと怒りが込められている。
――皮肉にも、それが王太子に正気を保たせた。おぞましい環境の中で、自我を失うことなく王太子を生き延びさせたのだ……。
「人には、死よりも辛いことがあるものです。ヘルマン様たちには、殿下を裏切ることは殺されることよりも恐ろしいことだったのですわ……」
それは、マリアにも痛いほど理解できる感情だった。自分が死ぬよりも辛いこと……それを捨ててまで生き延びることは、死んだも同然。王太子への忠誠心を捨てるぐらいなら、死んだ方がましだと……彼らは本心からそう思っていたのだろう。
暗闇の中で、鎖が揺れる音が聞こえた。フリードリヒ王太子が身じろいだ音……もしかしたら、闇の向こうで彼は涙を流していたのかもしれない。
きっと、マリアに見られたくはないだろう。何も気づかなかったふりで、マリアは王太子の手に自分の手を重ねた。




