猫の手も借りたい
マリアの右足につけられた鉄の足枷を、サーカス団の奇術師が観察している。膝をついて枷に手を伸ばし、何かを熱心に確認しているのを、ホールデン伯爵は不安そうな面持ちで見つめていた。
「鍵師の伝手はあるが、果たして彼らで外せるものなのかどうか」
この足枷の鍵だけは、結局見つけ出すことはできなかった。ずっと着けたままになるのかと思うと、やはり気が重い。外せるものなら外してしまいたいのだが……。
「鍵はいりませんよ。これ、マジック用の道具です。ほら、脱出系の手品で、こういう枷をつけて見せるものがあるでしょう。ああいった時に使うものです」
「マジック用……つまり」
マリアは目を瞬かせた。
「鍵がなくても開くんです――ほら」
奇術師が枷の一部をひねると、音もなくスッと枷が外れた。ぽかん、と口を開け、マリアは脱力した。
「い、いままでの苦労はいったい……なんとか外せないかと、あれこれ試しては悩み続けたのに……」
「知らなければ、絶対に外せないものなんですよ。それも普通では分からないようなものですし……私は本職だから、こういった道具の扱い方もよく知っているだけで。そうでないと、マジックがすぐに見破られてしまいますからね」
枷が外れた右足を、マサパンがすんすんと嗅いでいる。とりあえず、外れてよかった。
鍵もなく外れた足枷を、クリスティアンは手に取ってまじまじと眺めている。そんなものに興味を持たなくていいの、とマリアは取り上げ、伯爵にお願いして処分してもらうことにした。
伯爵までその足枷に興味を持つものだから、父子で変な趣味に目覚めないか心配だ。
「オルディス公爵、ご無事で何よりです」
マリアたちのいるテントに修道士シモンが駆けこんで来て、忙しなく声をかける。
「シモン様もご尽力いただいて、ありがとうございました。外での騒ぎは、やはりシモン様が……?」
「はい。ホールデン伯爵たちと話し合い、タイミングを見計らって――申し訳ありません。いまはゆっくり説明している暇もないのです。服を脱いで、彼女に渡してください」
シモンが指した彼女は、サーカスの女性だった。ショーで女性ながらに見事なアクロバットを披露していた……背格好がマリアとよく似ている。髪型と髪色も酷似しているし。
テントの奥に連れて行かれ、女性スタッフに手伝われてマリアは素早く服を脱いだ――脱いだというか、脱がされたというか。彼女たちは、マリアが知っている誰よりも素早く、要領よく服を脱がせた。代わりの服を着ている間に、マリアの服を着終えた女性は修道士シモンとテント出て行ってしまった……。
「彼女、私の身代わりとして囮になりに行ったんですよね。大丈夫なのでしょうか……」
「馬の扱いは一流ですし、適当な場所で聖堂騎士団から離れ、また着替えますよ。そうすれば向こうはもう追ってこないでしょう」
シルバーサーカス団の団長が、お腹を揺すりながら明るく笑って言った。
「君の協力に感謝する、ジュード。君たちがベナトリアで興行に来ていて助かった」
伯爵が言えば、なんの、と団長がまた笑う。
「こちらも君には恩があるからな、ヴィクトール。それからオルディス公爵殿……妹ご夫婦にも、今後とも贔屓によろしくとお伝えください」
ちゃっかりエンジェリク王にアピールすることも忘れないあたり、抜け目のない商人だ。マリアはくすくすと笑った。
「団長、フランシーヌ人が、テント内を調べさせろと言ってきています。というか、すでに勝手にテントの中に入ってきて……!」
スタッフの報告を受け、団長はやれやれとため息をつく。
「そう簡単には誤魔化せんか。おまえたち――私が連中に対応して、時間を稼ぐ。その間に、オルディス公爵を隠しておけ」
サーカスの団長はスタッフたちに指示を出し、マリアの足枷を外した奇術師が、私も一緒に行きます、と名乗り出た。
「テント内を調べるなら、私の道具が置いてあるところから……奇術用の大道具は、調べるのも一苦労でしょう……」
団長と奇術師が出ていくと、スタッフは一斉にマリアをどこへ隠すか話し合い始めた。
「マリアもだが、クリスティアンもどこかへ隠す必要がある。母親に似すぎた。女を探していると言っても、これだけ似ている子どもを無視はしないだろう」
伯爵が言い、マリアはクリスティアンの肩を抱く。自分が連れ戻されるのは御免だが、クリスティアンが危険な目に遭うのは絶対に嫌だ、そんなことになるぐらいなら、マリアがデュナン将軍に捕らわれたままで構わない……。
「その子にはピエロの衣装とメイクをさせよう。いくら似ているって言ったって、探してるのは女性のほうなんだ。見習いの子たちに紛れ込ませてしまえば気付かないだろう」
そう言って、ピエロがクリスティアンを案内しようと手招きする。クリスティアンは一度だけ両親を振り返り、ノア、マサパンと一緒にテントを出て行った。
「そっちのチャコ人の男も、念のため俺たちと一緒に来てくれ。人種も色々だから、俺たちの仲間のふりをしてれば、向こうも見分けはつかんだろう」
ララは、アクロバットのメンバーに連れて行かれてしまった。体格のいい男たちで構成されたメンバーは、人種も様々。ララも目立たないだろう。
やはり問題は、マリアの隠れ場所だ。
「どうやら結構念入りに調べてるみたいです。人が隠れられそうな場所は、隈なくチェックしてます」
フランシーヌ側の動向を見ていたスタッフの一人が、状況を報告する。それを受け、一同はマリアをかくまう方法をさらに考え込んだ。
「……やつらが絶対に調べない場所が、ひとつだけある。正確には、調べられない場所か」
発言した男は、マリアも見覚えがあった。
エンジェリクに来た時にも、彼と会話をした――サーカス団の目玉でもあるホワイトライオンたちを管理する、猛獣使いだ。誰もが彼を見つめ、彼が言おうとしていることを予測しつつもあえて口にはせず……マリアも、不吉な予感は胸に秘め、猛獣使いに黙ってついていった。
ひときわ大きく、頑丈な馬車。強固な鉄格子がはめられたそれは、専用の家。
――ホワイトライオンの親子たちが暮らす場所だ。
「ここなら奴らも探しに来ることはできない。この檻の中に、彼女を隠す」
言いながらも、猛獣使いもまた不安を隠しきれないでいた。先ほどマリアがクリスティアンにしたように、伯爵がマリアの肩を抱き寄せる――伯爵は反対なのだ……当然だが。
「そりゃ、そんなところにフランシーヌ人たちも入って来ないだろうけど……」
スタッフたちも互いに顔を見合わせ、不安そうだ。
檻の中に、ホワイトライオンは三頭。雄が二頭、雌が一頭。
雄のうち一頭は、檻の前に集まっている人間たちに興味津々といった様子で、檻の中をぐるぐると歩き回っている。三頭の中で一番身体の大きい雄は、外の賑やかさに関心がないのか寝そべって寛いでいる。
雌のライオンは横たわってはいたが、その視線は人間たちを……特にマリアをとらえて離さない。初めて見る顔に、彼女はいったい何を考えているのか……。
「シルヴァン、下がれ――よーし、良い子だ……」
頑丈な錠を開け、猛獣使いが入っていく。
自分もそれを追うしかないのだろう。大きくため息をつき、マリアも出入り口に近づいた。
檻の中をうろうろしていた雄――シルヴァンは、入ってきた人間たちに遠慮なく近づいてくる。猛獣使いは警戒を解かず、マリアの腕を彼の前に差し出した。
「ほら、俺たちと同じスカーフをつけてるだろう?これは家族の証って、いつも言ってるよな?新しい家族には、先輩として優しくしてやらないとだめなんだぞ」
まるで小さな子供に言い聞かせるように、猛獣使いは話し続ける。シルヴァンはスカーフのついたマリアの腕をスンスンと嗅ぎ、無邪気にすり寄ってきた。
サーカスの女性と衣装を交換した時に身に着けたものだが……馴染みの衣服のおかげで、シルヴァンからは家族認定してもらったようだ。
「そいつはシルヴァン。昔、あんたが抱っこした赤ん坊ライオンを覚えてるか?あの時の双子の、弟のほうだ。人懐っこいやつなんだが、図体がでかくなったのにメンタルが子どものままで……無邪気に遊びたがるのはいいが命にかかわるようなじゃれつきかたをする。身の危険を感じたら、毅然とした態度で叱ってやってくれ」
シルヴァンは新しい家族を歓迎してくれているのだろうか。マリアの周りをうろうろしているが、敵意は感じない。
それより気になるのは、横たわったままマリアからじっと視線を外さない雌のライオンのほう……。
「問題はあっちだ。双子の姉のシルヴィア」
猛獣使いが、シルヴィアを指して紹介した。
「気まぐれで、俺にもまだあいつの考えがつかみきれないことが多い。プライドが高いから、なかなか言うことを聞いてくれなくてな。機嫌がいい時はショーでも最高のパフォーマンスをしてくれるんだが……」
シルヴィアは横たわったまま動かない。猛獣使いはシルヴィアから視線をそらさず、一番身体の大きい、ずっと寝ころんだままの雄のライオンに近づいた。
彼が、シルバーサーカス団のシンボルでもあるシルバーだ。猛獣使いが手を伸ばして背中を撫でると、わずかに顔を上げてこっちを見た。
「紹介するまでもないが、こいつがシルバー。シルヴィア、シルヴァンの父親。だいぶ年を取って、すっかり人間に慣れてる。シルバーが意味もなく人を襲うことは、ほとんど有り得ないだろう。子どもらも父親には従順だ。なるべくこいつのそばにいて、シルヴィアと目が合ったら、下手に視線を逸らさないようにしろ」
猛獣使いに誘導され、マリアはシルバーにぴったり寄り添うかたちで彼のそばに座ることになった。シルバーはもう一度だけマリアに視線をやったが、すぐに興味を失って寝転がってしまった。
檻の外から、伯爵や他のスタッフたちが心配そうに見守っている。猛獣使いも、檻に錠をかけた後も出入り口から離れず、そわそわとしていた――いつでも檻の中に飛び込んめるように。
時々シルヴァンがマリアに頭をこすりつけて来ること以外、ライオンたちはマリアにアクションを起こすことはなかった。シルバーは寝そべって目をつむったまま、起きているのか眠っているのか分からない。
シルヴィアも退屈そうに横たわり――でもその視線がマリアから離れないことだけは感じていた。
誰も何も喋らず、マリアもじっとして身動きせず、早鐘を打つ心臓の音だけが、マリアの耳に響いた。
やがて、馬車に騒がしい一団が近づいてきた。
「……ここが最後ですが、ここもお調べになるのですか?あんまりおすすめしないと言うか、私共としても、彼らを刺激しないでやってほしいと言うか」
サーカスの団長の声に、マリアを探すフランシーヌ人たちがやって来たことを悟る。
床に敷き詰められた藁をかぶり、自分も横たわってシルバーの陰に隠れた。大きなライオンだから、身体を丸めて身を縮こませておけば、マリア一人ぐらいどうにでも隠れられる……。
「ほら、ここですよ。本当にやります?」
少し揶揄するような口調で、団長が言った。シルバーの陰に隠れてしまったから、フランシーヌ人の姿はマリアにも見えなかった。
けれど続けて聞こえてきた声に、息が詰まりそうになった。
「檻の外から獅子たちを動かせ。死角が多い」
聞き間違えるはずがない。デュナン将軍だ。
将軍の命令を受け、兵士たちが動く物音がした。やはり檻に入ってくることはできない。でも――。
「傷つけるのは止めてくださいよ!彼らだってうちの大事なスタッフなんですから!」
恐るおそる顔を動かし、何をしようとしているのか確認する。
どうやら、兵士たちが持っている槍で……一応サーカス側にも配慮しているのか、刀身の部分ではなく、反対のほうでライオンたちを突いている。
シルヴァンは遊んでもらっていると勘違いしているのか、槍に噛みつき、器用に前足でがっしりつかんで兵士を振り回していた。されるがままに顔や身体を突かれていたシルバーは、不快そうな唸り声をあげ……。
「う、わわ……!」
兵士の怯える声にあわせて、シルバーが立ち上がる。まずい、とマリアが思う間もなく、何かが圧し掛かっていた。
……重い。
うっかり椅子に転げ落ち、そのままお尻で潰されてしまったパンの気持ちが、いまなら分かるような気がする。
視線だけ動かして自分にのしかかったものを確認すると、それは雌のライオン――シルヴィアだった。シルヴィアはマリアにのしかかったまま、素知らぬ顔で眠ったふりをしている……。
「ひぃっ……!」
怒ったシルバーが咆哮を上げ、あたりの空気がビリビリと震えた。年老いていても、その貫禄には人間もひれ伏すしかない。
「もう止めてくれ。ショーが終わったばかりで、こいつらも気が立ってるんだ。あー、こんなに機嫌を損ねちまったら、明日からしばらくショーができねえ……」
猛獣使いが言えば、デュナン将軍が短く舌打ちするのが聞こえた。
マリアはシルヴィアに潰されながらも息をひそめ、フランシーヌ人たちから必死で隠れた。デュナン将軍の動向を聞き落とさないよう、注意して――しかし、将軍がそれ以降、何かを話すこともなく。
もう大丈夫ですよ、とスタッフから声をかけられ、気付けばフランシーヌ人たちは誰もいなくなっていた。
フランシーヌ人たちが行ってしまったことをマリアが確認すると、シルヴィアがゆったりとした動作でマリアから退いた。
「……ありがとう。助かったわ」
起き上がり、マリアは声をかける。シルヴィアはマリアに振り返ることなく背を向けて横たわり……一度だけ、尻尾を振った。シルバーは何事もなかったように寝そべる。今度は本格的に眠り始めたみたいで、たてがみからのぞく耳がピクピク動いている。
シルヴァンは遊び足りないのか、檻の中を跳ね回ってアピールしている――その動きは猫そっくりで、マリアも思わず吹き出してしまった。
「何事も起きなくてよかった。おい、早く」
猛獣使いに急かされ、マリアはライオンたちの檻を出た。
錠が閉まる音……無事に出てきたマリアに、スタッフたちも大きく安堵の溜め息を漏らしていた。
「マリア」
名前を呼ばれ、マリアはホールデン伯爵に抱きつく。彼の腕の中で、マリアもようやく安堵する。
「ライオン相手でも君の魅力は通用するとは……まったく。恐ろしい才能だ」
「もう。からかわないでくださいませ」
伯爵に抱きしめられたまま、檻に振り返る。
雌のライオンが――シルヴィアが、マリアをじっと見ていた。助けてくれたのは有難いけれど、もうちょっとお手柔らかにしてほしかったものだ。
 




