有難くない再会 (4)
修道士シモンの救出を待つことになり、焦れる気持ちも少しは薄れた……が、不安が消えたわけではない。待っている間にも、国境が近づいてきている。
馬車で移動している間は目隠しをして、マリアに情報を与えないようにしていたというのに、ついにそれもなくなった。つまり、マリアが逃げ出す恐れが減ったということ。女が一人で逃げ出すには困難な場所まで――。
「この町を出たら、あとは一気に山越えだ。最後の休息になりますから、少し長めに滞在していきますよ」
山のふもとの小さな町に着くと、ロランはそう説明した。
久しぶりに、天幕ではなくちゃんとした建物で休むことになり、マリアも少しだけ落ち着いた。やっぱり、天幕の布で隔てただけでは寛げない。デュナン将軍やロランが目を光らせているから何事もなく過ごせているが、男ばかりの中に女が一人……兵士たちも、マリアの存在は気になっている……。
「雪が少ないのは良い傾向だ。帰路も、恐れていたほど酷いことにはならないだろう」
部屋に戻ってくるなり、デュナン将軍はマリアと一緒に待機していたロランに向かって言った。
「兵士たちも疲れが見え始めたようだね。引き返すという君の判断は正しく、非常に的確なタイミングだった。あれ以上ベナトリアを進んでいたら、ぐったりとした兵士たちを引き連れて山越えをする羽目になっていた。いまなら故郷へ帰れるという浮かれ気分で、なんとか疲れを補えそうだ」
「所詮、半数は平民だからな。根っからの軍人ではない。士気を維持するのも一苦労だな……」
フランシーヌも革命の混乱から落ち着いてはきたが、まだまだ課題は多い。兵士たちは大半が平民で、生粋の軍人ではない。精鋭部隊はデュナン将軍の指導を受けてかなり厳しい訓練を受け、しっかり統率されているようだが、それでもエンジェリクの騎士団や、ベナトリアの騎士団に比べれば素人感が強い。
デュナン将軍も、軍隊の統率にはかなり気を遣っているようだ。
「……うん?報告に来たようだ……ちょっと出てくるよ」
扉をノックする音に、ロランが立ち上がる。ロランが出ていくと、デュナン将軍は椅子に腰かけたまま腕を組み、テーブルに広げた地図や資料を眺めていた。
ベッドに放り出されたままのマリアは黙ってそれを見ていたが、姿勢を変えた拍子に右足首につけられた鈴がチリンと鳴って、デュナン将軍が振り返った。
「あとで構ってやる。もう少し我慢していろ」
「永久に後回しでも構いません――後にするとは」
後回しと言いながらベッドに近づいてくるデュナン将軍に、マリアは抗議した。
「いい加減、この鈴は外してくださいませ。うるさくてたまりません」
「飼い猫には鈴をつけて可愛がるものだ。猫は恩知らずだからな。鈴を外すとすぐに主人を忘れてどこかへ行ってしまう」
「勝手な主張ですこと。猫からすればたまったものではありませんわね」
ベッドの上で後ずさりするマリアを、デュナン将軍もじりじりと追い詰めてくる。絶対楽しんでる……悪趣味な男め。
鈴のついたマリアの右足をデュナン将軍がつかむと同時に、再び扉が開く。手紙のようなものを片手にロランが戻ってきた。
「ランベール――そう睨むな、私は悪くない。すぐ戻って来るのは分かっていたのに、君も節操がなくなってるな」
ロランが持っている手紙は、すでに中身が開けられていた。デュナン将軍に手渡しながら、手短に説明する。
「本国から急ぎで届いた。国境近くにキシリア軍が現れたそうだ。私たちに戻ってきてほしいと」
デュナン将軍もマリアと戯れるのをやめ、手紙に目を通した。
「ベナトリア側の真意を探るために私も同行したが、それがあだになったな……せめて私が残っておくべきだった……ミュレーズは指揮官としては優秀だが、彼だけでどこまで耐えられるか……」
「まだ国境付近での集結が確認されただけだ。いまから戻れば、最悪の事態は免れるだろう。ほかのことでは期待できんが、馬にさえ乗っていればお前より有能だ」
キシリアが軍を動かしたことで、デュナン将軍やフランシーヌの関心はそちらに引き付けられる――それは有難いが、本格的に国へ帰ることになって、マリアもいよいよ時間が無くなってきた。
シモンたちの救出計画は、どれぐらい進んでいるのだろう……。
「それと、シルバーサーカス団というのがこの町の近くに来ているそうで、私たちにショーを見て行かないかと……ほら、こっちは招待状だ」
ロランの言葉に、マリアは驚きを表に出さないよう務めた。カラフルな招待状を差し出されても、将軍は眉間に皺を寄せるばかりで受け取らなかった。
「そう怪訝そうな顔をするなよ。世界のあちこちで興行をしているサーカス団だ。不穏な状況が何十年も続いていたが、最近落ち着いてきたから、国のトップである君に顔を売りに来たんだろう。私はちょっと興味あるよ。小さい頃に、母親に連れられて見に行ったきり……あの頃は、まだ母も元気だった……」
思い出を懐かしむようにロランが言った。将軍は渋々といった様子で招待状を受け取り、中を確認する。
「兵士たちも、サーカス団の賑やかな雰囲気が気になっているらしい。山越えして……帰ったらキシリアの戦だ。その前に、息抜きもかねてサーカスのような娯楽を提供するのもいいんじゃないか」
ロランの説得に、将軍はため息をつく。自分をじっと見つめているマリアに視線を向け、お前も興味があるのか、と尋ねてきた。
「正直に打ち明ければ、かなり。私も昔エンジェリクで見て……あの時は、ホワイトライオンのシルバーの子どもを抱っこさせていただきました。あの子たちももう、大きくなっているのでしょうね。見てみたいです」
シルバーサーカス団とは、世界を旅するサーカス一座。名前の由来は、サーカス団が飼っているホワイトライオンのシルバーから。
昔、エンジェリクへ興行をしに来た時、マリアも彼らのショーを見た。ショーは楽しかったのだが、その後ちょっとしたトラブルがあって……あれで、ホールデン伯爵は自分の商会を失ってしまった……そしていまのクラベル商会が結成されて……。マリアにとって、忘れることのできない思い出だ。
「……いいだろう。憂さを忘れさせる娯楽は有用だ」
ちょっと呆れたような口調ではあったが、デュナン将軍はサーカスの観劇を許可してくれた。マリアも一緒に――この厚遇は、非常にありがたかった。
シルバーサーカス団がテントを張っている場所は、フランシーヌ軍が滞在している町から少し離れたところだった。目隠しはされなかったが右足の鈴はつけたまま――けれど、賑やかなサーカスなら音も目立たない――逃げ出す機会は、きっと来る。
サーカスを見に来た兵士たちはかなり浮かれていた。世界的に有名なサーカス団……庶民ではそう簡単に観劇することもできないほど人気で。デュナン将軍とロランのお供で観劇することができて、本気ではしゃいでいるらしい。
「空中ブランコが見ものなんだ。これはすごいぞ……ランベール、君でも驚くぞ……」
ロランも珍しく浮かれている。将軍だけはいつも通りの冷静さだが、はしゃぐ周囲を諫めることはしなかった。たぶん、諦めているのだろう。
ショーが始まる前、サーカス団の団長がデュナン将軍とロランに個人的に挨拶に来ていた。団長はマリアに気を留める様子もなく。
……ヒューバート王とオフェリアのついでに挨拶されただけの関係だ。向こうが覚えていてくれているかどうかは、期待半分ではあった。やはりがっかりはしたが。
ショーの構成は、マリアが見たものとは少し違っていた。
大がかりなマジックからのキャスト登場で始まり、動物たちの入場パレード……目玉であるホワイトライオンは出てこなかったが、猫や鳥、犬など、小さくも可愛らしい動物たちが行進してくる。
種類も色々だ。マリアは動物に詳しいわけではないが……犬の中に、マサパンと同じ犬種と思われる子が……。
……いや、あれはマサパンだ。
マリアは目を瞬かせた。
――あれはどう見ても、マサパン……よね?
クラベル商会で飼われている大型犬。キシリアから一緒にエンジェリクへ……オフェリアやマリアによく懐いていて……。
間違いない。
行進の最中にマサパンは立ち止まり、観客席に座っているマリアをはっきり見つめた――立ち止まった犬と、それを追いやろうと必死になるピエロの掛け合いにほかの客たちは笑っていた。やがて犬は、自分を引っ張っていたピエロを引っ張って走っていき……引きずられていくピエロの間抜けな様子に、場内はさらなる笑い声が響き渡った……。
サーカスショーは、兵士たちを大いに楽しませたようだった。ロランも空中ブランコに大興奮して、旧友でもあるデュナン将軍に明るく話しかけている。
マリアは、オープニングで見かけたマサパンのことが気になって、ショーの間中、上の空だった。
ショーが終わり、デュナン将軍に引っ張られるようにしてマリアは馬車に乗せられそうになった。なんとか引き止めて、もう一度サーカス団の団長に会えないか――マリアが困り果てている時。
兵の小隊長と思わしき男が、血相を変えて将軍のもとに走ってきた。
「失礼します!いまから十分前、偵察部隊が聖堂騎士団の残党と衝突いたしました!」
デュナン将軍の目の色が変わった――人間らしさもあった表情が一変して、冷酷な軍人のそれになった。
「その衝突は本当に偶然のものか。奇襲の可能性は」
「いえ、残党で間違いないかと。こちらを見て、向こうも慌てて逃げ出したと――武装もしておらず、その姿から本隊とはぐれた一団ではないかと――」
小隊長の報告は、蹄の音によって遮られた。馬に乗った一団が、猛烈な勢いでこちらに駆けて来る。武器は持っていないが、あの馬の集団にぶつかってはひとたまりもない。馬から避けるため、デュナン将軍が飛び退いた――マリアを捕らえていた手が、遠くに離れた……。
「――待て!その女を捕らえろ!」
怒号に近い命令を背に、マリアは振り返らず走った。
ショーを楽しんで浮かれ気分でサーカスのテントから出てくる兵士たちの隙間をかき分け……将軍の命令を受けて追いかけてくる者もいるが、この人混みはマリアの味方だ。
テントに入って客席を通り過ぎ、ステージを横切ってバックヤードへと逃げ込む。どこへ逃げたらいいのかなんて分からないのに、とにかく逃げた。呆気にとられるサーカスのスタッフを横目に……。
犬の鳴き声が聞こえ、マリアは足を止めた。あたりをきょろきょろと見まわして、入ってきたところとは別の出入り口を見つけた。鳴き声は外から。ためらうことなく、マリアは外に出た――途端、腕を引っ張られる。
あ、と声を上げる間もなく、ノアに抱きかかえられた。
「足で鈴を押さえていてください」
鈴が鳴らないように。
なかなか器用な真似を要求してくるな、とマリアは苦笑いした。けれどノアに会えたことが嬉しくて――思っていた以上に、自分は心細くなっていたらしい。ホッとした気持ちが胸を占め、温かいもので満たされた……。
ノアはマリアを抱きかかえたまま、テントの合間を素早く移動した。気付けば、マサパンもノアの隣を走っている。いくつかのテントを通り過ぎ、大きなテントの中へ入っていった……。
「母上!」
テントに入るなり自分に飛びついてきた少年に、マリアは目を丸くする。自分そっくりの顔……父親と一緒にいるはずの長男だ……。
「クリスティアン?それに、ララも……」
久しぶりに会えた息子。無事だった従者。何を喜んだらいいのかも分からないほど幸せな気持ちに包まれ、マリアは彼を見て微笑んだ。
「ヴィクトール様……!」
彼に駆け寄って、その胸に抱き着く。ヴィクトール・ホールデン伯爵――彼の腕の中は、マリアにとって世界のどこよりも安心できる場所だった。




