有難くない再会 (1)
ぺちぺち、と誰かが自分の頬を軽く叩いている。痛みはない。優しい手つきは、くすぐったいぐらいで。
マリアは目を開けて、自分の顔に触れている相手を見た。ララが自分を見下ろして……呆れたような、微笑ましいような……曖昧な笑みを浮かべている。
何度か目を瞬かせ、マリアは納得した。まだ少し重い身体を起こし、覚醒しきっていない頭を振る。
ここは宿屋。修道士シモン率いる聖堂騎士団から離れてしまったマリアとララは、夜が明けると移動をはじめ、半日かけて町にたどり着いた。
町に着くなり一番に宿を探して、マリアを部屋に残し、ララは買い出しついでに外に出て……休んでていいと言ってくれたララに甘えて、つい。
「ごめんなさい。ちょっと休むだけのつもりが、思いっきり寝てたのね」
「ま、いいさ。やっぱり、男ばっかの場所に女一人で、おまえも落ち着かなかったみたいだし」
ララは笑い、マリアの頭をポンポンと撫でた。
飯にするぞ、と声をかけられ、マリアはテーブルについた。ララは買ってきたばかりのパンをいくつかマリアに手渡し、テーブルの上に地図を広げる。
ララは、食料や必要なものの買い出しと共に、情報収集をしてきてくれたのだ。
「正体明かすわけにはいかないから詳しくは聞けなかったんだが、町の人たちの話から推測すると……たぶん、俺たちが聖堂騎士団と離れたのはこのあたり……王都はこっちだから、本来の進行方向とは真逆に進んじまったみたいだ」
地図を指さし、パンをかじりながら、ララが説明する。
フランシーヌとの国境を離れベナトリアの王都へ向かう――聖堂騎士団は人のいる町や村を外れて山に近い場所を移動していたようだ。混乱の中で逃げ惑い、マリアたちは来た道を引き返して、いまいる町にたどり着いた……。
「仕方ないわね。あの暗がりに、フランシーヌ軍の奇襲……どっちへ進むべきなのかなんて分からないわ、あの状況じゃ。引き返したおかげでフランシーヌ軍の追撃を避けられたのかもしれないし、逆戻りしたと言ってもせいぜい徒歩で半日程度でしょう?大した距離じゃないわよ」
「そう言ってもらえりゃ助かるぜ。結局、肝心なことは分かんないままだし――聖堂騎士団が通ってた正確なルートははっきりしないからなぁ。しかもこんな入り組んだ山道じゃ、土地勘のない俺たちだけで合流するのは無理だろうな、やっぱり」
ララはもごもごとパンを食べ、マリアもパンをかじる。
「俺たちが通るなら、この道にすべきだよな。王都まで旅するならここを通るのが一般的だって、町の連中も言ってたし」
パンをくわえながら地図を指してララは説明を続ける。地図を見つめ、マリアは首を傾げた。
「……ちょっと疑問なんだけど。どうして聖堂騎士団は、その一般的な旅の道を避けて、こんな複雑そうな山道を移動してたのかしら。侵入してきたフランシーヌ軍がこのへんでコソコソしてるのは分かるわ。でも、ベナトリアの正規軍なのよ。色々とついでの仕事はあったでしょうけど、たかが私の護衛で……そんな面倒くさいことして、余計な手間がかかるだけじゃない?さっさと終わらせたいのが普通じゃないのかしら」
ララは返事をしなかった。
考え込んでいるのか、口いっぱいに頬張ったパンのせいで話せないのか――どっちもかな、とマリアもパンを食べた。
「こうなってくると、シモン様任せにしてたのはまずかったわね」
「お前にしては珍しく出しゃばりを控えて大人しくしてたのが、あだになるなんてな」
まだ口をもぐもぐさせたまま、ララは笑った。
軍隊というものについて、マリアは素人だ。だから彼らの行動を詮索して、その活動の妨げになるようなことは避けていた。特にここは外国で。いくら王太子が気さくに振舞ってくれていても、エンジェリク王やキシリア王と同じ態度は取れない。
旧知の仲である修道士シモンに王太子の対応を一任し、マリアは大人しくしていたのだ。それがいま、裏目に出てしまった。シモンに任せきりにしていたから、マリアもララも情報不足だ……。
「今日はこのまま、宿で休みましょう。もう日も暮れ始めたし、出発は朝になってから……ララ、先に休んでいいわよ」
「そうさせてもらう。さすがに俺も、ちょっと限界……」
ベッドに倒れこんだララから寝息が聞こえてくるようになるまで、数分とかからなかった。マリアはくすりと笑い、ララに毛布を掛ける。
ララも、昨夜からろくに眠っていないはず。やせ我慢と強がりは、マリアといい勝負だ。
マリアはもう一度テーブルにつき、地図を眺めた。
気がかりなことが多すぎて、なかなか思考がまとまらない。はぐれてしまった聖堂騎士団のこと……みんな無事だろうか……王都へ行ってしまったフリードリヒ王太子はどうしているのか……フランシーヌ軍が、ここまで大胆不敵な行動に出るだなんて……。
フッとあたりが暗くなり、マリアは顔を上げた。
開けっ放しにした窓から風が吹いて、燭台の火がひとつ消えてしまったようだ。空からは太陽が消え、火がひとつ消えただけでもずいぶん部屋が暗くなった。テーブルの上の蝋燭を手にして、燭台に改めて火を点ける。
ついでに窓を閉めようと手を伸ばして、マリアは目を丸くした。
町に、大規模な集団が来ている。軍馬と装備を揃えた彼らは、町の代表者と話していた。たぶん、滞在するにあたっての交渉を……。
「ララ、起きて。窓の外を見て」
急いでララを起こし、いま見たものを指さす。鷲の紋章が描かれた旗に、寝ぼけていたララも一瞬で覚醒した。
「おいおい、嘘だろ」
「残念ながら現実よ。というより、私の認識が甘かったわ。彼らだって引き返してくるかもって、その可能性をまったく考えてなかった」
侵攻を切り上げ、国へ引き返す――その可能性は十分あった。混乱と疲労で、自分もずいぶん呆けてしまっていたらしい。
鷲の紋章を掲げた軍隊。彼らは、デュナン将軍率いるフランシーヌ軍だ。
フランシーヌ軍がこの町へやって来たのは、侵略ではなく一時的な滞在のため。
調べに行かずとも、その話はマリアたちの耳にすぐに入ってきた。宿でもフランシーヌ軍の話題で持ちきりで、誰もがその動向に注目している。
町の代表者との交渉の結果、町の人間に危害を加えないこと、三日後には速やかに町を去ることを条件に、フランシーヌ軍は二晩滞在することを許可され、町の門は閉められた。
ベナトリアにとって招かれざる客ではあるが、町を戦場にしたくない町民たちの意向が優先され、フランシーヌ軍は受け入れられることになったらしい。
翌朝。
マリアは再び一人で宿に残り、ララの帰りを待っていた。
「出ていくほうは問題なさそうだ」
部屋に戻ってくると、開口一番にララが言った。
交戦を避けるため、町の門は閉められ、フランシーヌ軍が見張っている。町に入る人間はかなり制限されている。が、出ていく人間への制限は緩い、とのこと。
宿にはマリアたちと同じように、さっさと町を出てしまいたい人間が大勢いた――厄介事に巻き込まれる前に。
「一応、怪しい人間はいないかチェックはしてるらしい。巡礼者なんかは問題なくパスできてるみたいだが……」
ララが言葉を濁す。マリアには、もちろんその理由が分かっていた。
マリアも巡礼者を装っている。正規の巡礼許可書を持っているし、本来なら問題ないはずだ。
……本来なら。
ベナトリアを通り抜けるはずだった。だから、これが問題になるなんて思ってもいなかった。
マリアが持っている巡礼許可書は、エンジェリクで発行されたものだ。果たして、フランシーヌ軍がエンジェリクの巡礼許可書を持っている自分をすんなり通してくれるのか……。
「とりあえず行ってみましょう。自分の目でどんな様子なのか確かめたいし……どうしてもダメそうなら、明後日まで待つわ」
大人しく待っているべきかどうかは、マリアもかなり悩んだ。
昨夜もララとさんざん話し合い、結局、何も分からないままの自分たちでは結論を出せないことを思い知っただけだった。
町は静まり返っていた――巡回のフランシーヌ兵士が町中を見張り、町民たちは家に閉じこもって接触を避けている。宿にも巡回の兵士がやって来て、滞在客を確認していた。そろそろ、マリアの泊まっている宿にもやって来る頃だ。
門を見張っているフランシーヌ軍の兵士は、思ったよりまともそうだった。
見張りは三人。
リーダー格らしい青年はたどたどしいながらもベナトリア語を話し、理性的な顔つきをしている。マリアの前にも駄馬に乗った老夫婦が町を出ていこうとしていたが、それなりに礼儀正しく対応していた。
以前エンジェリクに来たフランシーヌ軍人が、思い出すのも不愉快なほど酷い連中だったので、つい最悪の展開ばかり考えていたが……これならなんとかなりそうだ。
マリアが門に近づくと、見張りの一人が声をかけてきた。
「町を出るなら、その前に荷物を検めさせてもらうぞ」
従順に荷物を差し出すと、見張りたちは中身を確認し始めた。予想通り、巡礼許可書は注目の的となった。
「巡礼者か。でも、この季節に?女が一人で?」
巡礼許可書とマリアを交互に見やり、うさんくさそうに見張りの一人が言った。
マリアは静かに、努めて憐れっぽく、はい、とうなずく。
「母が重い病にかかりまして。ある夜、聖サジャが夢枕に立ったのです。カルステン教会に巡礼せよと……苦難を乗り越えれば、必ずや聖人の加護を得られるだろう……そのお告げに従い、かの地へ赴く途中なのです」
見張りの一人は不思議そうな顔をしたが、別の見張りが、聖サジャが疫病の守護聖人であること、カルステン教会にその聖人の遺骨があることを説明した。
「雪も降ってるこの時期に、女が旅だなんて危険じゃねえか!」
「ばーか。だからだろ。聖人様の出した試練を見事やり遂げりゃあ、奇跡が起きて、おふくろさんもきっと治るはずってことさ」
「ああ、なるほど。そりゃえらいな。親孝行な娘じゃないか!」
ちょっと間抜けっぽい、お人好しな見張りが言えば、そうだな、ともう一人も相槌を打つ――こっちもなかなかお人好しらしい。
リーダー格の青年はまだ訝しげにマリアを見ていたが、マリアは上目遣いに彼を見つめ、改めて懇願する。
「どうか、お通しくださいませ。私はどうしても、母を救いたいのです。聖サジャの導きを信じるしか、もう……。どうか……」
――いける。
マリアはそう確信した。
リーダーの青年も、真面目だが冷酷ではない。マリアにじっと見つめられ、顔を赤くして目を泳がしている。
これなら押し切れる――。
「ほぉ、チャコ人か。ベナトリアじゃちょっと珍しい人種だよなぁ」
下品なフランシーヌ語に、マリアとララは身体を強張らせた。
ニタニタ笑いを浮かべ、別のフランシーヌ兵士が近づいてきた。人の好さそうな見張りたちも、嫌悪に顔を歪ませている――どうやら、あまり好ましくない人間のようだ。
チャコ人のララは赤い髪を黒く染めて、フードを深くかぶってなるべく目立たないようにしていたが……やはり、この地域でチャコ人はいやでも目立ってしまう。
チャコ人のララを見ていた男は、マリアを見て顔をしかめた。
「んん?おい、この女、エンジェリク人じゃねえのか?しかも――貴族か」
マリアの腕をぐいっとつかみ、男が言った。無遠慮に顔を近づけ、マントからのぞく女の身体を見てさらに気色悪く笑っている。
「隠しても無駄だぜ。この季節に、こんなに綺麗な手をしていられるのは貴族ぐらいだ」
「デュナン様から、揉め事は起こすなと言われただろう」
勇敢にも、リーダーの青年が口を挟んだ。うるせえ、と男は反論する。
「町の人間に対してはお行儀よくしろってことだろ。エンジェリク人で、しかも貴族だぜ。こいつは例外だろ」
そのまま腕を引っ張って、男はマリアを連れて行こうとする。
フランシーヌ人の見張りが止めてくれているが……どう抵抗すべきか、マリアもためらった。注意を引くような真似はしたくない。いっそこの男についていき、人目のなくなったところで――。
「俺の命令は絶対、逆らえば命はない――直属部隊にいながら、そのルールを知らんとは言わせんぞ」
聞こえてきた声にぎくりとする間もなく、マリアの目の前で鮮血が飛び散った。
自分の腕をつかんでいた手が、ずるりと気持ちの悪い音を立てて落ちていく――首のなくなった身体が、地面に崩れ落ちた。
「そいつを始末しておけ。町の者の迷惑にならんようにな」
数名の兵士が遺体を取り囲み、どこかへ運んでいく。見張りの兵士たちは姿勢を正し、彼に敬礼していた――ランベール・デュナン将軍に。




