冬の夜 (2)
ベナトリアの聖堂騎士団の宿営に建てられた貴賓用の天幕。それがマリアに与えられた、寝床だった。
この季節は隙間風がちょっと辛いけれど、騎士たちの天幕はもっと簡素なものだし、用意された毛布にくるまっていれば十分暖かいから不満はない。
困っているのはただひとつ。思ったよりも旅が進んでいないことだ。
王太子フリードリヒは、数名の部下を連れてマリアの護衛についてくれるはずだったのだが、父親でもあるベナトリア王からあれやこれやと指示が来て、結局ベナトリア聖堂騎士団本隊と合流することになった。
王太子が足止めを食らっているので、マリアもなかなか進めない。マリアはベナトリアの地理に疎いし、ララも同様。修道士シモンは聖堂騎士団の騎士として何度か訪れているそうだが、王太子を無視して進むのはよくないと反対された。
マリアもそれに同意した。ベナトリア側の許可をもらって通過する以上、王太子や王を無視するわけにもいかない。
焦れる気持ちはあったが、それが吹き飛ぶほどの出来事が起きた。
それは、天幕での生活にも慣れ始めた頃だった。
いつものように毛布にくるまってマリアは眠っていた。シモンは連絡役も兼ねて外で見張っているから、天幕内は見張りのララだけ。時々にぎやかな声が聞こえてくる以外は、静かで穏やかな夜だった……。
「マリア」
ララに起こされ、マリアはぱちっと目を開けた。
あっさりと目が覚めたのは、マリア自身も不穏を感じていたから。ララたちほどではないが、マリアも異変には敏感だった。
「シモンが呼んでるんだ。ヘルマンが来てて、中に入れてもいいかって」
ヘルマンとは、フリードリヒ王太子の愛人……もとい、部下の一人だ。マリアがベナトリアの港町に着いたときに、王太子と一緒に出迎えてくれた男。
ララが手にしたガウンを羽織り、マリアは彼を招き入れた。
天幕に入ってきたヘルマンは、武装していた――彼も騎士で、普段から武装しているが、いつもはもっと軽装だ。いまは完全武装で、そのまま戦場に赴くのではないのかと思うほどのいでたちを……。
「お休みのところ申し訳ありません。今夜はこのまま、私の滞在をお許しください。シモン殿、ララ殿の腕を信頼していないわけではないのですが、護衛を増やしていただきたいのです」
「何があったんですか?」
ヘルマンの申し出を拒否するつもりはなかった。
マリアは厚遇され、騎士たちは極めて紳士的に接してくれている。いまさら彼らの誠意を疑う必要もない。
ただならぬことが起きた――それが不安でならないだけだ。
「いまからおよそ三十分ほど前。見張りのために出ていた偵察部隊が、フランシーヌ軍と衝突いたしました」
ララが息を呑み、寝台に腰かけるマリアの肩に手を置く――ほとんど無意識だったのだろう。マリアを守るように、さりげなく抱き寄せた。
「まだ本陣には気づかれておりません。しかし、衝突地点からさほど距離もなく。また、フランシーヌ軍の斥候部隊が他にも存在しないとは断言できません。万一の時に備え、すぐ逃げ出せるよう準備だけはお願いいたします」
マリアは頷き、すぐにララに声をかけて着替えを始めた。
衝立一枚隔てただけの無防備な状態ではあったが、それを気にしている余裕はなかった。
「フランシーヌの軍隊がこの辺りに来るのは、よくあることなんですか?」
動きやすい衣装に着替えながら、衝立越しにマリアが聞いた。
「時期を考慮しないのであれば、よくあることです。国境も近いですし、山は広いですから。国境の警備の目をかいくぐって侵入してくることもしばしば。ただ、この時期に山越えを……というのは、あまり前例がありません」
「そうですよね。今年は雪が少ないとはいえ、冬に山越えだなんて」
戦には素人のマリアでもわかる。
冬場の山を越える――行って帰ってくるだけでも、戦力を大きく損なってしまうことだろう。普通は雪も解けた春に戦を仕掛けるものだ。
だからマリアも、この時期なら戦の心配もないだろうと踏んで出発したというのに。
「この宿営、もう引き払うのか?」
マリアの着替えを手伝いながら、ララが尋ねる。いいえ、とヘルマンは答えた。
「まだ気付かれていないのなら、下手に動くとかえって注意を引いてしまいます。敵に発見されない限り、夜明けまでは動かないと。殿下はそう告げております。夜闇で戦闘となると、乱戦になりやすく……そうなれば、同士討ちの恐れもありますから。移動は夜明けを待つそうです」
それが一番ベターな判断だろうなとマリアも納得した。
着替えはしても、マリアは天幕内で待機したまま――緊張も、時間が経つとどうしても薄れてしまう。外の騒がしさに注意を払いながらも、寝台に腰かけ、隣に座るララにもたれかかってウトウトとしていた。
「マリア、入るぞ」
マリアの返事も待たずに男が入ってきたが、マリアは異議を唱えることなく立ち上がって彼を迎え入れた。
王太子も、完璧に武装を整えている。真っ先にヘルマンに声をかけ、交替だ、と言った。
「第一、第三部隊を率いてオットーと合流しに行け。マリア、おまえは俺の天幕に移れ。おまえの護衛をできる人間が、俺しかいなくなった」
質問したいことはあったがそれを飲み込み、荷物をまとめて、マリアは大人しく王太子についていく。王太子とヘルマンは戦況について話し込み、後ろからついてくるマリアにはほとんど振り返らなかった。
「シモン、お前もヘルマンと一緒に行け――分かっている。マリアの護衛だろう?俺が引き受ける……お前ほどの人材を、遊ばせておく余裕がなくなったんだ……」
王太子の天幕に着くと、隅にある椅子に座って、マリアは置物と化していた。こういう時、女の自分は黙って成り行きを見ていることしかできない。色々と自分も聞いてみたいことはあるのだが、邪魔をしてはいけないという分別ぐらいはあった。
「移動させて悪いな。騎士のほとんどを外へやってしまうと、ここで一番暇なのは俺になるんだ。部下が出入りするから落ち着かんだろうが――」
「私のことはどうぞお気遣いなく。しかし……フランシーヌ軍は、それほど大規模なのですか?」
行きかう騎士たちの物々しさを見ていると、ちょっとベナトリアを偵察しに来たフランシーヌ軍との小競り合い……なんてレベルではなさそうだ。
マリアの護衛が役目のはずのシモンまで、王太子の部下として働くことになってしまって……。
「いまのところ、規模は大したことはなさそうだ。だが厄介な男が出しゃばってきた。ランベール・デュナンが来ているらしい」
マリアは息を呑んだ。
ランベール・デュナン――もちろん、その名前はよく知っている。いまのエンジェリクにとって天敵とも呼べる相手。ヒューバート王も、ここ数年は彼によく手こずらされていた。
「デュナン将軍が、ベナトリアに……?」
「御大はまだ目撃されていない。直属部隊が来ているそうだ。それでデュナン不在を期待するほうが、どうかしているだろう?」
デュナン将軍は、フランシーヌの皇帝。将軍というのはあだ名だ。将軍時代に革命を起こし、雄々しく戦ったことで有名だから、いまもそのあだ名で呼ばれることが多く。
マリアは彼と直接の知り合いではないが、以前エンジェリクの城に来た時にその姿を見た。
もとは平民の成り上がりだが、一国の王にも引けを取らぬ迫力と貫録を持つ男だった……。
「俺の父親よりも年上のはずなんだがな。まったく元気なじいさんだ。しかし総司令官としての実力とキャリアは俺より上だ。油断はできん」
「……それほど有能なのに、この季節に山越えしてまで侵攻してくるだなんて。よほどの事情があるのでしょうか」
マリアとしては何気なく呟いたつもりだったが、王太子は神妙な面持ちで、そうだな、と相槌を打った。
「デュナンほどの男が、冬場に山越えまでしてベナトリアを攻めるなど――浅はかにもほどがある。何か焦っているのか……?」
それきり、夜が明けるまで王太子がマリアに声をかけることはなかった。ベナトリア聖堂騎士団の団長代行としての責務を果たすのに忙殺されていて。マリアも以降は沈黙し、男たちの仕事を見守っていた。
結局、その夜の本陣では特に問題が起こることもなく。夜明けと共にすぐさま宿営は引き払われ、一行は移動を始めた。
夜の間にフランシーヌ軍も退き、追撃の様子はなかった。夜闇に紛れてうまく逃げられた、と王太子は悔しがっていたが、騎士のほとんどは本格的な戦にならなかったことを喜んだ。
聖堂騎士団は、マリアの護衛をする王太子と王の命令で合流しただけ。戦争の用意はない。だからフランシーヌ軍との衝突は、ありがたいものではなかったようだ。
次の日の夜はみな警戒し、ピリピリとした空気に包まれていたが、三日過ぎるとそれもずいぶん緩和された。
マリアの天幕も、見張りはララとシモンだけになったので、少しホッとした……。
「それにしても、ずいぶんあっさり退いた印象ですが……こういうのが、戦の駆け引きというやつなのでしょうか。冬に山越えまでしてベナトリアに侵入したのに、発見されたらすぐに雲隠れだなんて……」
お風呂には入れないので、身体を拭くことだけはこまめにやっている。背中はララにやってもらって、衝立の向こうで控えている修道士シモンにマリアは声をかけた。
「不安にさせるような発言は避けたいのですが……私もフリードリヒ殿下と同意見で、ものすごく不気味に感じております。決して楽な道のりではなかったはずなのに……危険を冒してまでベナトリアへ来た。その真意は、いったいどこにあるのか……」
やはり、あのデュナン将軍が、というのが最大の懸念らしい。あの男が、何の企みもなしにベナトリアへ来るはずがないと。
「年取って、立派な将軍もモーロクしたんじゃねーの?」
ララが言えば、衝立の向こうでシモンは考え込んでいた。
「……考えられない話ではありませんが……デュナン将軍も、もうかなりのお年のはずですし……」
「あまり楽観視できないけれど、どっちにしろ、フランシーヌ軍が追いついてこない内に王都に着いておきたいものです。国境が近いと、どうしても不安ですわ」
マリアの言葉に、そうですね、とシモンも返事をした。
身体を拭くと、マリアは手早く着替えた――いつものように、動きやすい服装だ。もともと旅をしやすいよう男装をしてきたが、フランシーヌ軍と出くわした報告を聞いて以来、眠るときに軽装に着替えることもやめた。
油断しないほうがいい――冬物の服は、しっかり着こむと男装であっても少し動きにくい。
「騎士の皆様方も落ち着いたようですし、今夜なら殿下に声をかけてもお邪魔にならないでしょうか」
あの夜以来、フリードリヒ王太子とはろくに会話もできていない。
どれぐらい進んだのか、どう予定を立てているのか、王太子に尋ねたいことはたくさんある。邪魔をしてはいけないからと今日まで遠慮していたが、そろそろ王太子の警戒も解けた頃だろうか。
ララとシモンを連れ、マリアは天幕を出た。
見張りに出ている者もいるが、騎士たちの大半は寛ぎ、楽しそうにしている。マリアが声をかけても、上機嫌で応えた。
「殿下も、いまは休憩を取っておいでですよ。たぶん、ヘルマンと一緒じゃないですかね――」
ヘルマンと一緒。
その答えを聞き、やっぱり遠慮したほうがいいかしら、とマリアは考え込んだ。
けれど賑やかなお喋りの合間から、リュートの音が聞こえてきて。マリアの関心はそちらに奪われた。
美しい音……でも、誰が。聖堂騎士団の中で、音楽を嗜んでいそうな人物が思いつかない。姿が見えない王太子だろうか。
……なんて。
しかし、音のする場所を探してみると、マリアが冗談のつもりで考えていたことは大当たりだったと分かった。
賑やかな一行から少し離れた場所で、ヘルマンを聴衆に、フリードリヒ王太子がリュートを演奏している。プロの楽師顔負けの腕前だ。
「ただ聞きとは感心しないぞ」
静かに演奏を聴いていたマリアに、王太子が悪戯っぽく笑って言った。
「申し訳ありません。あまりにも美しい演奏だったので、お声をかけることも忘れてしまいました。お邪魔でした?」
「いや。気分転換に弾いていただけだ。デュナンが何を考えているのか……あれこれ考えてみたものの、煮詰まっていてな。気晴らしには、これが一番手軽でいい」
そう言って、王太子はリュートの弦を軽く弾く。弾いてみるか、とマリアに向かってそれを差し出した。
「リュートなら、私よりララのほうが得意なんです」
「いや、得意ってほどじゃ……。一応習ったけどさ」
自分に振られ、困惑しながらララはリュートを受け取る。
チャコに伝わる曲を奏で――王太子もヘルマンも、感心したように聴いていた。
「ただ者ではないと思ったが、なかなかどうして」
「ララはかつてはチャコ帝国の皇子で、お母様は詩歌管弦に秀でた美女だったんです。ララも、お母様から教わって……」
「なるほど。チャコの皇子。道理で」
王太子が言った。
リュートを弾くララを眺めながら、適当に腰かける。不意にその視線がマリアに向けられ、王太子が隣をぽんぽんと叩いた――隣に座れ、ということだろうか。
「殿下のリュートも、もしかしてお母様からですか?」
「ああ。俺の母親はエンジェリク王家の人間だ。先代のエンジェリク王とはまたいとこだったか。母は芸術を愛する宮廷人で……俺よりもずっとリュートが上手かった」
上手だった――ベナトリアに王はいても、王妃はいない。フリードリヒ王太子の母親は、すでにこの世の人ではないのだ……。
王太子が見ているのは、ララではなく、ララが手にしたリュート……そしてそのリュートを通して見えるもの。それが何かはまだ分からないが、マリアはただ黙って、王太子と共に奏でられる音を聴いていた。




