冬の夜 (1)
およそ十年前。
マリアは妹と別れ、一人で船に乗った。あのとき、マリアが進む道は真っ暗な闇の中で。孤独と不安に精一杯の虚勢を張って耐えたものだ。
今回もまた、マリアは一人。妹のオフェリアと別れて、自分だけ船に乗り、大陸へ渡っていく。
「この光景も久しぶりだわ」
永遠に続くのではないかと思うほど果てしない水平線の向こうに、大陸が見える。まさか妹を置いて、自分だけこの光景を再び目にすることになるなんて。
「俺もこっちに渡るのはずいぶん久しぶりだ」
「そう言えばそうね。次にクリスティアンたちがキシリアへ行くときは、あなたもお供でついてく?」
マリアが聞けば、少し悩んだ後、いいや、とララが答える。
「俺もお前と同じだ。おまえやアレク置いて、一人で行きたいとは思わねーよ」
「そう。それじゃあ、これからも遠慮なく私のそばにいさせることにするわ」
くすくすと笑い、マリアは改めて水平線のかなたに見える大陸に視線をやった。
「同じ大陸にある国でも、きっとキシリアとは雰囲気が大きく違っているのでしょうね」
はい、と修道士シモンが頷く。
「ベナトリアは騎士の国。軍事力はキシリア、エンジェリクにも劣りません」
「そのベナトリアの王太子が私たちの旅路を支援してくれるのは有難いですわ。気に入っていただけるように、私も言動には気を付けないと」
「ありのままのお姿で大丈夫ですよ。殿下はきっと公爵を気に入られます。ボロを身にまとっていても、公爵の輝きは健在ですから。公爵を前にすると……私など、なんとつまらなく、ちっぽけな存在であることか。いっそ公爵の美しい足で、ぷちっと踏みつぶされたい」
「はいはい」
この修道士はいつもこんな調子なので、マリアもララもいまさら動じない。
マリアはできるだけ質素な服を着、巡礼者を装っていた。ララと修道士シモンをお供に、ベナトリアを横断してセイランへ目指す。
旅をするには適切な季節ではないが、こればかりは仕方がない。程よい季節になってしまうと、フランシーヌが本格的な戦を仕掛けてくる可能性もある。多少の困難は覚悟の上……少なくとも、ベナトリア国内ではベナトリアの王太子からの支援があるのだから、きっと大丈夫だ。
「港町だからかもしれねーが、ベナトリアって、色んな人間がいるんだな」
普通の巡礼者を装って乗った船は賑やかで、雑多だった。港に着くと、乗客たちはその騒がしさを残したまま町へ降り、各自が目指す場所へ向かって去っていく。
その光景を、ララは物珍しそうに見ていた。
「ベナトリアは独自の信仰を大切にしているから、他民族や異教徒にも寛大なのよ。人種の多様さについては、キシリア以上かもね」
「ベナトリアってルチル教徒が強いんじゃねーの?聖堂騎士団ってルチル教のもので、ベナトリアにいるのが最強なんだろ?」
逆なんです、とシモンが口を挟む。
「ベナトリアはもともと強い騎士の国で、ベナトリアに派遣された聖堂騎士団はここで鍛えられて最強となったんです。だからベナトリアの聖堂騎士団は、もとは教皇庁直属でしたが、いまはすっかりベナトリア風になっています」
「ふーん。ベナトリアの聖堂騎士団って、いまのトップは……」
「ベナトリアの王太子よ。聖堂騎士団は一応修道士の組織だから、正確には団長代行って肩書きだったかしら」
「あー。王太子が坊主になるわけにはいかねーもんな」
マリアは聖職者嫌いだが、その原因となったのはルチル教の修道士だった。信仰心がまったくないわけではなく……どうしても、聖母ルチルを崇める気にはなれないだけだ。
だから宗教に関しておおらかなベナトリアは、マリアにとって敬意を払うべき国であった。
「昔は、キシリア以外で暮らすならベナトリアしかないと思っていたわ。こうして自分の足で訪れることができて、とても嬉しく思っているの」
「それは光栄なことだな」
突然聞こえてきた声に、マリアはぎょっとした。すぐそばに男性が――マリアはともかく、ララやシモンがいて、こんなに近くまで来ていることに気付かないなんて。
一瞬、修道士から強い警戒心を感じた。戦いには素人のマリアでも感じられるほどの敵意。でもそれは、あっという間に消えてしまって。
シモンはため息をつき、人が悪い、と笑った。
「この先の町で落ち合う約束だったのではなかったのですか、フリードリヒ殿下」
マリアはあっと声を上げそうになって、急いで姿勢を正す。
彼が只者ではないことはすぐに分かった。平服を着ているが、それでも隠すことのできない高貴さ、迫力、たたずまい……。ララに通じるものがある。でもまさか、王太子直々に出迎えに来るだなんて。
「マリア・オルディスです。セイランへ行くため、ベナトリア国内を通過させていただきます。王太子殿下には、ご協力いただいて、感謝の言葉しかございません」
「堅苦しい挨拶はいい。俺はそういうのが苦手だ。それに、美人相手に距離を置くような話し方をされると傷つく。なんだったら、呼び捨てにしてくれても構わんぞ」
上機嫌の笑顔で話すフリードリヒ王太子に、マリアは苦笑した。
王太子は、ヒューバート王と同い年。大柄ではないが、ヒューバート王よりは背が高く、それなりに体格もよい美丈夫といった容姿で。
ヒューバート王も武術の腕は優れているが、それでも、常に最前線で戦っている武人には敵わない。
「呼び捨てはさすがに……どうかご容赦くださいませ。殿下には、我が王も大変お世話になっているそうで」
「ヒューバート王とは二年……いや、もう三年前になるか。フレデリク地方での小競り合い以来だな。実に美しい王であった。その王を虜にした王妃も美しいと聞いていた――王妃の姉も」
品定めをするようにマリアを見つめる王太子の視線は、抜け目がない。
「真面目が取り柄と言われたグレゴリー王を、ただの男にした傾国の魔女。実物に会うのを楽しみにしていた。正直に言えば、たしかに美しいが傾国と呼ばれるほどかと言われれば首をかしげたくなる――が、強く惹き付けられる何かを持っているのは間違いなさそうだ。この旅の中で、その魅力をぜひ解明したいものだな」
「恐れ入ります。ですが、私としては期待外れの評価のままでも構いませんわ。私、殿下を誘惑に参ったわけではありませんし」
「む。それが傾国のやり方というわけだな。王太子相手に――そうやってそっけなく振舞って、男に何としても暴いてやろうという意欲を掻き立てさせる――」
王太子の言葉に、マリアは笑った。申し訳ございません、と悪びれることなく謝罪する。
「殿下を見ておりますと、レオン様……王国騎士団のウォルトン団長を思い出しまして」
「あんな軽薄が服を着ているだけのような男と一緒にされるのは心外だ」
王太子が言えば、修道士シモンに、王太子の供をしていた男も笑った。王太子が自分の供を睨めば、彼も悪びれることなく謝罪した――供の男は美しい容貌で、武人のようだがいささか線が細い。
「ですが、ウォルトン団長のほうでも殿下と一緒にされたくないと思っていらっしゃることでしょう。節操なしが鎧を着ているだけの男、と」
「失敬な」
フランシーヌという共通の敵との戦で、エンジェリクはベナトリアの聖堂騎士団と協力し合うこともあった。ヒューバート王も、王に即位してから何度か小規模な戦に参加しており、その縁でフリードリヒ王太子とも面識があるそうだ。
「フリードリヒ王太子は、美しいものなら区別なく好むそうだ。その……僕も彼から口説かれたことがあって。最初はマルセルが止めに入ってくれたんだが、マルセルのことまで口説き始めて、結局ウォルトン団長に止めてもらうことになったんだ」
エンジェリクを発つ前、王が苦笑いでそう話していたことをマリアは思い出した。
王曰く、王太子が副官としてそばに置いている部下は、彼の愛人の一人だそうだ。マリアがもう一度王太子の供をしている男性に視線をやると、愛想のよい笑顔で会釈した。
「ベナトリアへようこそ、オルディス公爵。殿下は戦場以外ではこのような調子のお方なので、不安に感じるかもしれませんが、武術の腕だけはたしかです。どうぞご安心を」
「おい、武術の腕だけとはなんだ」
フリードリヒ王太子と彼の部下とのやり取りは、まるで夫婦漫才のよう。
気さくで陽気な王太子――けれど、そんな王太子にも、触れられたくない話題があることをマリアは知っていた。
「お世話になります。ところで、ベナトリア王に私は挨拶しなくてもよいのでしょうか」
楽しい空気に水を差すのは気が引けるが、確認しないわけにはいかない。
ここはベナトリア。そしてこの国は、やはり王のもの。王を無視して通り過ぎてもよいものなのか、マリアも気になっていた。
「……セイランへ行くには、どっちにしろ王都を通り過ぎることになる」
笑顔のままだが、王太子の声のトーンが落ちた。
「その時にでも、陛下に挨拶すればいいさ。ヒューバート王の親書は受け取っているんだ、陛下も了承済みなのだから、焦る必要はない」
王太子はそう言って、出発するか、と声をかける。
「明るい内に、俺たちの宿営に着いておかんとな。今年は雪も少ない。さほど苦しい道のりにはならんさ」
はい、と頷いて、マリアもララ、シモンと共に王太子の案内についていく。
――やはり、ベナトリア王の話題は避けたほうがよさそうだ。
ベナトリア王太子について、ヒューバート王の説明には続きがあった。
「フリードリヒ王太子は、実の父親であるベナトリア王と何やら確執のようなものがあるらしい。僕が滞在している間にも、父王の無茶な命令に怒り狂う姿を見かけた。そのようなそぶりを見せないように振舞ってはいたが……。僕が見た限り、王太子は好人物だ。ベナトリアの諸侯たちも……はっきりと口には出さなかったが、問題を抱えているのは王のほうだと」
修道士シモンからも、その話はさりげなく聞いていた。
軍のトップである王太子と、そんな王太子と深い溝がある国王。
――何事もなくベナトリアを通過できればいいのですが。
シモンは王太子と国王の関係について言葉を濁したが、ぽつりとそんなことを呟いているのをマリアは聞き逃さなかった。
セイランまでの道のりは、なかなか険しいものになりそうだ。
灰色の冬の空を見上げ、マリアはため息をついた――吐き出した息は白い。




