束の間の (2)
広いサロンに、チェンバロの音が響く。
ドレイク卿の隣に座り、マリアは彼が演奏するチェンバロを聞いていた。ドレイク卿の演奏を聞くと、心なしかお腹の子も喜んでいるような気がする。
今日はドレイク卿の屋敷に招待され、彼からもてなされていた。ついでに、マリアが来ることを知って彼の父フォレスター宰相まで来ていた。
マリアにいらぬちょっかいをかける父親と睨み合いながらも、ドレイク卿もどこか寛いだ様子だ。
ドレイク卿とフォレスター宰相に子を労わってもらえるのは嬉しいが……宰相は、いま、こんなところにいてはいけないはずでは……。
「ニコラス様。オーシャンの一団がエンジェリクの港に着き、陛下はそちらの出迎えに行かれたそうですが、ニコラス様はよろしいのですか?」
マリアと結婚するために、オーシャンからやってきた王子の一団。それを出迎えるためにヒューバート王は王都を離れ、一団が到着する港へ行っている。本来なら、宰相もそれに同行するはずだ。どうしてここに、とマリアが思うのも当然である。
「年を取ると、いつも身体のあちこちに不調を抱えるものだ。若い王に付き従うのも一苦労でな……」
弱ったようなそぶりでわざとらしく振舞う宰相に、マリアは苦笑し、ドレイク卿は白い眼を向ける。
どうやら、仮病を使って同行を拒否してきたらしい。
「都合のいい時ばかり、年寄りぶるのはいかがなものかと」
「老人の知恵だ」
クスクスと笑い――マリアは息を呑んだ。そんな、という思いに目を丸くする。
「公爵……マリア、どうした」
隣に座っていたドレイク卿は、すぐにマリアの異変に気付いた。返事をする余裕もなく、マリアは痛むお腹を押さえて身体を丸める――こんなに急にやって来るなんて……。
「すみません……どうやら、陣痛が来たみたいで……」
マリアの言葉に、ドレイク卿とフォレスター宰相がそろって目を丸くした。
彫像のようなポーカーフエィスっぷりがそっくりな二人が、同じように驚いている。かなりレアな光景を、いつもだったら微笑ましく感じていたことだろう。残念ながら、いまのマリアには面白がっている余裕もなかった。
「誰ぞ、城へ行き医者を呼べ!オルディス公爵が産気づいた!」
部屋の外に向かい、宰相は召使いを呼びつける。ドレイク卿はマリアの腕を自分の首に回して、マリアの身体を抱きかかえた。
「父上。この屋敷ではマリアも落ち着いて出産に臨むことができません。医者を呼ぶよりも、マリアを城へ連れて行ったほうが良いかと」
「……それもそうだな――医者はいい。それより馬車の用意をしろ!」
あとにして思えば。
きっとこの時のフォレスター宰相とドレイク卿は、そうとう焦っていたのだろう。この二人が焦るなんて、そんなとても珍しい光景をしっかり見れなかったのは残念だ――さすがに、この時ばかりはマリアもギリギリだったのだ。
マリアの出産は、一晩経っても終わらなかった。
「お姉様がんばって」
城へやってきたマリアにオフェリアは付き添い、献身的に世話をしてくれていた。ベッドに横たわるマリアの手をぎゅっと握って、額に浮かぶ汗をこまめに拭って。
それに対し、マリアはかすかに笑って返しながらも、ひたすら痛みに耐えるばかりであった。
一人目は、陣痛が来てほどなく出てきた。だが二人目がなかなか出てこない。急な陣痛が始まって一日が過ぎ、マリアも疲弊していた。
「双子と言えど、生まれるまでに間が空くこともございます。産み月より早く陣痛が来ておりますし……おそらく、二人目はまだ、本来の出産時期ではなかったのでしょう」
侍医の説明を聞き、なんとかできないの、とオフェリアが尋ねる。侍医は依然険しい表情で、力なく首を振った。
「実を申しますと私も双子の出産に立ち会った経験が少なく……。申し訳ございません」
不安そうなオフェリアに、大丈夫よ、とマリアは声をかけた。
「私はもうベテランだし、子どもだって……私の子よ。きっと元気に生まれてくるわ」
そう言いながらも、マリア自身、強がりを取り繕うのも困難になってきているのを感じていた。
結局状況は変わらず、陣痛が始まって二度目の夜を迎えた。
日が暮れて空が真っ暗になった頃、マリアのいる部屋にベルダがやってきた。ぐずぐずと泣いているエステル王女を連れて。
「すみません、エステル様が泣き出してしまって。お昼の間は元気にしていらっしゃったんですけど」
部屋にやってきたエステル王女は、小さくしゃくり上げながらオフェリアに抱き着く。娘を抱きしめ返しながらも、オフェリアは戸惑っているようだった。
「……オフェリア。私はいいから、エステル王女のそばにいてあげて。お父様も不在なのに、母親のあなたまで私につきっきりだから、寂しくなったのよ……」
ヒューバート王はオーシャンからの客人を迎えに行って城にいない。そんな状況でオフェリアも王女に構ってくれなくて。幼い王女は寂しくて堪らなくなったのだろう。
オフェリアに抱きしめてもらって、王女も少し落ち着いたようだ。
「伯母ちゃま、いたいの?」
よしよしと。
自分があやしてもらった時のように、エステル王女も手を伸ばしてマリアの頭を撫でる。マリアを心配そうに見つめる表情は、オフェリアによく似ている……。
「あなたはお母様に似て、優しい子ね。ありがとう。伯母様なら大丈夫よ」
王国唯一の後継ぎとして、その重責を背負うことになってしまった少女。いまはまだそんなことも知らず、無邪気であどけなくて。
マリアの出産は、この可愛い姪を守るためでもあるのだ。オフェリアのため、エステル王女のため――。
夜が明ける頃、マリアは二人目も生んだ。ほとんど執念だったような気がする。
小さな泣き声を上げる娘に安堵の溜め息をもらし、マリアはベッドにぐったりと横たわっていた。
「おめでとうございます。とても美しい女の子です」
主人もその子どもも双方無事に出産が終わり、侍女のナタリアも涙ぐんでいる。横たわるマリアの隣に、小さな娘がそっと並ぶ。ふわふわの髪は銀色で……どちらかと言えば、父親に似ていそうだ……。
「マリア、入っても構わないか?」
ドレイク卿の控え目な声が聞こえ、先に生まれた息子を連れてマリアのそばへやってきた。マリアと娘の両方を見て、心なしかホッとしたように笑っている。
「ニコラス……」
娘の隣に、一昨日生まれた息子も並ぶ。二人そろって銀髪で、寝顔は双子らしくそっくり。横たわったまま我が子に触れ、マリアは微笑んだ。本当は抱いてあげたいけれど、今回ばかりはそんな余裕もない。
ドレイク卿と共にフォレスター宰相も部屋に入ってきて、二人目の孫と対面を果たした。宰相の望んだ女の子。目を細め、幸せそうに孫を見つめる。
「男と女の双子か」
「はい。娘の名前は、アイリーンと」
当たり前のようにマリアが言えば、ドレイク卿が眉をひそめた。
「……あなたの子でもあるのだ。父の意向に従わなくとも」
「良い名前ではありませんか。名前に負けず、この子も素敵な女性に育ってほしいですわ。だから、この名前をつけるのは私の望みでもあります」
ドレイク卿はしばらくの間黙り込み、そうか、と静かに頷く。小さな子どもたちを撫で、我が子に会えた喜びに浸っているようだった。
マリアも我が子を見つめ、安堵と寂しさの笑みを浮かべる。
――これで終わった。
果たすべき義務も、母親として過ごす時間も。もうすぐ、この子たちともお別れだ……。
とにかく疲れた。考えることはまた明日にして、いまはただ眠りたい。
マリアは目をつむり――部屋の外から聞こえてくる賑やかさに目を開けた。人が近づいてきている。この賑やかさは、彼の取り巻きが多いから。
――ヒューバート王が城に帰ってきた。
「マリア、出産が終わってしまったのか」
部屋に入るなり顔色を変えて王が言い、マリアは思わず非難がましい目で王を睨んでしまった。
休みたかったし、生んだことを責めるような言い草に腹が立って。
マリアの不機嫌さを感じ取り、王も慌てて謝罪した。
「あ、すまない……子どもが生まれたことはめでたいことだ。それを責めるような言い方になってしまって……。ただ、タイミングが悪過ぎる」
焦る王に、いかがなされました、と宰相が尋ねる。
「オーシャンからの客人が城に到着したんだが、式を今日にでも挙げろと。こちらもマリアの妊娠を理由にずっと先延ばしてきたから、言い繕うのも限界で。マリアのお腹を実際に見てもらって、引き下がってもらおうかと――」
オーシャン側がしびれを切らすのも無理はない。
マリア・オルディスが妊娠したから延期してくれと。そう言うのももう何度目になるだろう。何年もこの言い分で結婚を先延ばしにしてきた。妊娠そのものを疑われているのかもしれない。
生憎、マリアは子を生んでしまった。
そんな都合のいい言い分、オーシャンももう納得しない。
「……ナタリア。ドレスを持ってきて。一応、婚礼用の衣装は用意して、城に置いていたでしょう」
「は……えっ?マリア様、まさか……!?」
力の入らない手足を叱咤し、マリアはベッドから起き上がった。ナタリアは青ざめ、おろおろとしている。
「着替えるわ。陛下、式を挙げてください。私、新婦の務めを果たします」
「いくらなんでも無茶です!子を生んだばかり……それも、双子だったのですぞ!陛下、私は医者として断固反対します!」
侍医は強く拒絶し、マリアをベッドに押し戻そうとする。
ヒューバート王は視線をさまよわせて血の気を失い、やがてすがるように宰相を見た。自分がどう選択すべきか、ヒューバート王も迷っている――マリアを想う友人として、国を支える王として。どちらを優先すべきなのか……。
「陛下。オフェリアとエステル王女を守るためです。ひいてはエンジェリクのため。オーシャンのこせがれ一人。私が負けるとお思いですの」
ナタリアは嫌がったが、ヒューバート王にまで命令されてしまっては拒むこともできず。
双子を出産したその日、マリアは式を挙げることになった。
それを聞いたオフェリアが仰天して、姉を思い止まらせようと説得しに来たものの、マリアも頑として譲らなかった。いつもは妹に甘いマリアでも、こればかりは譲歩できない。
「お姉様、死んでしまうわ。式は延ばそう。私、お姉様のためにドレスを縫ってたの。まだ先だと思ってたから、できあがってなくて……。お姉様にそれを着て欲しいの。だから……」
無茶をする姉に、オフェリアは説得しながら涙ぐみ始めた。オフェリアの頭を撫で、安心させるように笑いかける。
「そのドレスは、私の娘が結婚する時に着せることにするわ。ありがとう。その気持ちだけで十分よ、オフェリア」
マリアためにオフェリアが心を込めて作ったドレス。
――こんな結婚式で、着たくない。打算と黒い思惑が錯綜する婚姻で……純粋な妹の誠意を踏みにじるようで、耐えられない。




