女の務め (1)
マリア・オルディス公爵の結婚からおよそ三年ほど前。
エンジェリク王城は緊迫した雰囲気に包まれていた。
「うううぅぅ……痛いよぉ……もうやだぁ!もう終わりにしてよぉ……!」
幼子のように泣きじゃくるオフェリアに、もはや王妃としての威厳も矜持もなく。だがそれを咎める者は誰もいない。誰もが王妃を不憫に思い、不安を押し殺して彼女を励ましていた。
初めての妊娠。迎えた出産――陣痛が来てから三日が過ぎようとしているのに、まだ子どもが生まれてこない。激痛に苦しむ王妃は衰弱し、いよいよ危険な状態にあることを周囲も悟っていた。
姉のマリアは付きっきりで妹を労わり続け、汗と涙でぐしゃぐしゃになったオフェリアの顔を優しく拭う。彼女もまた臨月で、休養を取るよう何度か声をかけられたが……。
――いや!お姉様、どこにも行かないで!ここにいて!
夫であるヒューバート王は、オフェリアに付きっきりというわけにはいかない。初日こそ離れることなく王妃を労わっていたが、こうも長引いてしまっては王としての職務を果たさないわけにもいかず。
せめて姉だけはそばにいて、と懇願する妹を、マリアが突き放せるわけがなかった。
まさか、これほどまでの難産になるなんて。
誰もがそう思った。
姉のマリアはすでに三度の出産を果たし、そのすべてが安産だった。マリアがやたらと痛みに耐性があるせいで、呻き声すらなく出産が終わったこともあるほど。
だから王妃も大丈夫だろう、という慢心があったのは事実。深く考えることが苦手なオフェリア本人はもちろん、さほど楽天的ではないマリアですら、きっと大丈夫だという思い込みがあった。
それが、こんな……。
「オルディス公爵」
静かに名を呼ばれ、マリアは振り返る。侍医が、さりげなく自分を呼んでいた。
オフェリアに気付かれないように……は、無理だ。爪が食い込むほど、オフェリアはマリアの手を握りしめて離さない。
離れようとすれば、半狂乱となったオフェリアが悲鳴を上げた。
「お姉様、どこにも行かないで……一緒にいて……!痛いの……一人ぼっちにしないで……」
もう、泣き声も弱々しい。
王妃付きの侍女ベルダが、不安でたまらない内心を押し隠し、明るい笑顔を取り繕って声をかける。
「マリア様はすぐ戻って来ますよ。それまで私もナタリア様も一緒です!ね?一緒に待っていましょう」
妹をベルダに任せ、隠れるように部屋の片隅で姿を潜ませる侍医に近付く。物陰にはヒューバート王が――オフェリアから死角になる場所に、密かに戻って来ていたらしい。
「……オルディス公爵。もはや、ご決断頂くしかございません……」
険しい表情で、侍医は告げる。隣に並ぶ王も、侍医に劣らず険しい顔をしている。
「王妃様の体力はもう限界です。かくなる上は王妃様をお助けするため、御子は諦めるしかないかと……」
この提案は、すでに昨日の時点でマリアも聞かされていた。
終わりの見えない出産……オフェリアは憔悴しきっている。食事も睡眠もろくに取れないまま三日が過ぎ、危険な状態にあるのは誰の目にも明らかだ。
大臣たちは昨日この提案を聞かされた時、当然ながら反対していた。
王の子を生むのは王妃の義務――王妃を助けるために、王の子を殺すなど!
……しかし、もうその声も上がらなくなっている。
「このまま無為に待ち続けても、結局は王妃様が力尽き、腹の子もろとも儚くなってしまうだけです。こうなっては大臣たちも反対することはできません。御子を諦めて王妃様をお助けするか、御子を王妃様と共に死なせてしまうかのどちらかです」
王の子は助からない。その段階まで来てしまったのなら、せめて王妃だけでも。
マリアはヒューバート王を見た。
「……マリア。たしかに僕は、オフェリアとの子を望んだ。僕の後継ぎはオフェリアが生んだ子であってほしい。だが……そのためにオフェリアを死なせてしまうなんて……そんなこと耐えられない……」
苦渋の表情で、王は話す。
王妃オフェリアの成長を待って、ようやく得た二人の子ども。ヒューバート王とて子の誕生を心待ちにしていた。それでも……最愛の妃を喪ってしまったら、何の意味もないのだ。
マリアはベッドの上に横たわるオフェリアを見た。
日に日に大きくなっていくお腹を愛しんでいた……生まれてくる子のために、自分のドレスを切ってくまのぬいぐるみを作って――マリアたちの母が、我が子のためにそうしたように……。
子どもに会える日を、あんなに楽しみにしていたのに……。
それに、ここまで子どもが成長した状態で堕胎すれば、オフェリアも無傷ではいられない。二度と子を持つことができないかも……心にも、身体にも、大きなダメージを負うことに……。
――だけど。
「陛下。これは、陛下とオフェリアの問題です。夫婦の問題に、他人の私は口出しできません。ですが……」
オフェリアを死なせたくない。オフェリアを喪って生きていけないのは、マリアもまた同じ――。
「陛下がどのような選択をなさろうと、私は全力でそれを支持いたします。妹は、私が必ず説得してみせますわ」
戻ってきた姉の姿を見て、オフェリアはさらに激しく泣きじゃくる。
痛くて、辛くて……いつになったら終わるのか分からない苦しみに、オフェリアは泣くことしかできなかった。
「……オフェリア。いまから一時間以内に子どもが生まれなければ、その子は堕胎させるわ」
非情な言葉に、オフェリアがヒュッと息を呑む。
それまで泣きじゃくるばかりで誰の声も耳に入らない状態だったのに、冷水を浴びせられたようにオフェリアの意識は覚醒した。
「……いや!いや……いやよ!お願いよお姉様、赤ちゃんを殺さないで!私、もうやだなんて言わない!終わらせたいなんて言わないから!お願い……!」
必死で懇願する妹の肩を掴み、マリアは冷酷な態度を貫く。
「なら生みなさい、いますぐ!もう、その子を助けたいと思っているのはあなたしかいないの。子どもを守りたいのなら、あなたが、母親の意地で何とかするしかないのよ!」
気力でどうにかなる問題ではない――でも、もうそれに頼るしかない。
マリアの残酷な言い分に、オフェリアは大きく息を吸って……吐いて。涙は止まっていた。
――そして、マリアが宣言した時間が来た。
「おめでとうございます、ヒューバート陛下、オフェリア王妃様。王女殿下の誕生にございます!」
美しい王女を腕に抱き、ヒューバート王は喜びのあまり涙を流していた。起き上がることもできぬほど疲れ果てた王妃のそばに跪き、愛する妻に寄り添う。
オフェリアは声を出すこともできず、涙で濡れた瞳で王と王女を見つめ微笑んだ。
やがて王妃は眠りに落ちた――ほとんど気絶するように。
汗で額に張り付いた前髪を払いのけ、安らかな寝息を立てる妹をマリアは優しく撫でる。
「……ベルダ。あとはお願いね。私も休ませてもらうわ」
オフェリアを起こさないよう静かに立ち上がり、マリアは王妃付きの侍女に声をかけた。ベルダは頷き、マリア様も休んでください、と気遣う。
「マリア様もずっとオフェリア様に付き添って……すごく顔色が悪いですよ」
「そうね……私も、そろそろ限界かも」
ふらつく身体を、素早く駆け寄ってきた侍医が支える。赤子を抱いたままのヒューバート王がマリアに視線を向けると、侍医が笑顔で言った。
「陛下はお気になさらず。公爵様はお忘れのようですが、彼女も本来ならば療養に専念せねばならぬ身。しっかりとお休みいただいたあと、年寄りの説教に最後まで付き合ってもらいましょう」
マリアは苦笑し、ヒューバート王も困ったように笑う。幸せで、とてもめでたい空気に包まれたままの部屋を、マリアは侍医と共にあとにした――。
メレディスは、城の中を歩いていた。
メレディスはヒューバート王お気に入りの画家である。王子時代からの知り合いで――畏れ多いことに、王からは友と呼ばれることもあって。
ついに子が生まれたとの報せを受け、王女の絵を描きたいと……居ても立ってもいられず思わず城へ来てしまった。さすがに今日いきなりは無理だろうから。とりあえず頼み込むだけでも……。
「メレディス」
兄に呼び止められ、メレディスは足を止めた。
メレディスの兄は、由緒あるマクファーレン伯爵家の当主。家を飛び出し市井の男となったメレディスと違い、城仕えをしている。
腹違いの兄弟ではあったが、アルフレッドはいつも弟を気にかけてくれていて。メレディスにとっても、自慢の兄だ。
「兄さん。ついに子どもが生まれたって聞いて……子どももオフェリアも無事みたいで良かったよ。なかなか生まれないし、危ないんじゃないかって町の人たちも心配してたんだ」
笑顔でそう話す弟に、アルフレッドは目を瞬かせる。
あれ、とメレディスも目を丸くした。兄が自分を呼び止めたのは、何か別のことがあったから……?
「その様子だと、私が送った使いとは入れ違いになったな」
クスリと笑い、アルフレッドが言った。
「オルディス公爵がつい先ほど子どもを生んだ――おめでとう。お前も父親になったんだよ」
あんぐりと口を開ける弟に、アルフレッドは堪え切れず吹き出した。
その日、城では二件の出産があった。
ひとつは王妃オフェリア――国中が注目し、待ち焦がれた御子の誕生であった。
そしてもうひとつは、王妃の姉マリア・オルディス公爵――生みの苦しみに耐える妹の傍ら、彼女もひそかに陣痛が始まっていたのだ。痛みを顔に出さないものだから、周囲が気付くこともなく……。
兄から知らされたメレディスは急いでマリアのいる控え室に向かい、侍医から叱責されるマリアと出くわした。
「痩せ我慢もたいがいになされ!子の頭がすでに出てきておりましたぞ!なんと危険な真似を……!」
「無事に生まれたんだからいいじゃない。私の子だもの。私のお腹に来た時から、とんでもない母親を持つことになるのは覚悟してくれてたわよ、きっと」
懇々と説教をする侍医に対し、マリアはまったく悪びれる様子がない。
マリアらしい……苦笑いしながら、メレディスは恐るおそる部屋を覗き込む。メレディスの姿を見て、マリアがパッと顔を輝かせた。
「メレディス、来てくれたのね。女の子よ……抱いてあげて」
出産を終えたばかりのはずなのに、もうマリアはベッドに起き上がって娘を抱いている。メレディスはそんなマリアに近付き、我が子をその腕に抱いた。
小さくて、ふにゃふにゃしている。赤子の扱いには兄の子で慣れていると思ったのに、とてつもなく緊張してしまって。メレディスのぎこちない動きに、マリアがクスクス笑っている。
「名前は考えてくれた?」
やはり疲れているのだろう。ベッドに横になったマリアの顔は、いつもよりずっと白い。平気そうな態度で振る舞っているが、本当は彼女だってもう限界だ……。
マリアに寄り添い、メレディスも笑いかける。
「もちろん。男の子ならクリスティアン、女の子ならスカーレット――だろう?」
マリアが目を丸くする。
いいの?という問いかけに、もちろん、とメレディスは即答した。
「とても良い名前だ」
「そう……。ええ、そうね。とても素晴らしい名前よ。ありがとう、メレディス……」
スカーレット。
それは、マリアとオフェリアの母の名前。女の子を生むことがあれば、その名前をつけてあげたいと考えていた。
だからメレディスが、迷うことなくその名前をつけてくれて本当に嬉しかった。
生まれたばかりの弱々しい娘の泣き声を聞きながら、マリアはそっと目を閉じる。マリアもまた、ほとんど気絶するように眠りに落ちていった。




