献身とわがまま
ララはチャコ帝国の皇子だった。スルタンと称されるチャコの皇帝を父親に持ち――いまのスルタンは、ララの腹違いの兄。
エンジェリクでは少し異質な風貌に気さくな性格だが、生まれ持った高貴さや品性などは自然と兼ね備えていた。だから女性の気を惹くこともあり、面倒な女に絡まれてしまうことも少なくなかった。
「……ねえ。悪い話じゃないと思うんだけど。従者なんかより、よっぽど良い待遇なのに」
自分の腕に絡みつく女を、辟易した表情でララは引き離す。
マリアがドレイク警視総監の秘書として城に働きに来ている間、ララは単独行動をとっていることが多かった。
ドレイク卿の執務室では護衛も不要だし、待ってないで好きにしてきていいとマリアから許可ももらっていては、好奇心をおさえられない。特に王がヒューバートに代わってから、ララの自由度は激増した。
主な行先は王国騎士団の詰め所だが、たまに城内をうろつくこともあった。文化の異なるエンジェリクの城は、眺めているだけでも楽しい。
そうやってうろうろしていたら、変な女に捕まってしまった。
……実は、こうやって暇を持て余した貴婦人から声をかけられることはよくある。自分は目立つ容姿だし、遊び相手としては非常にそそられるらしい。
今回も、自分の愛人に加わらないかと女がしなだれかかってきて。
いくらスルタンを兄に持つ元皇子でも、いまはただの異人。エンジェリクの城で、エンジェリクの貴婦人相手に礼を欠くわけにはいかない。
――蛇のようにしつこい女を、礼節を持って引き離すというのはなかなか至難のわざだと思う。
「ララ」
聞き慣れた声に、ララは振り返った。
マリアが、そこに立っていた。王国騎士団のウォルトン団長を連れ、何を考えているのか分からない表情で。
やましいことなど何もないはずなのに、ララはなぜか冷や汗をかいてしまう。浮気現場を目撃されたような気まずさ――ウォルトン団長は、面白がるように自分たちを見ている。
「君も隅に置けんな」
「勘弁してくれ。俺はあんたみたいに慣れてないんだ。どう対処したらいいのか困ってるってのに」
さすがにこれは笑えない。笑う余裕もない。からかっていないで、助け舟を出してほしい。
「ララ」
もう一度呼ばれ、ララは女の腕をいささか強引に引きはがした。
マリアのそばに駆け寄り、彼女の後ろでひそかに胸をなでおろす。
「よく躾けてありますこと。ますます欲しくなりましたわ」
「お譲りすることはできませんわ。私のお気に入りですもの――それに、遊び相手ならもう少しお相手を選んでくださいな。彼は存外真面目で、美しい女性からの誘いをかわすことに長けておりませんの」
マリアの返答に、貴婦人は気分を害した様子もなく、控え目に笑って去って行った。今日のところは引き下がってくれたらしい。去り際に、ララに向かって意味深な笑みを浮かべていたような気がするが、気付かなかったふりだ。
「まだまだ青いな。ご婦人からの誘いは、もっとスマートに対応できるようになりたまえ」
「レオン様も、からかっちゃダメです。意外と純情で硬派なんですよ、ララは。それが彼の良いところでもあるのですから」
マリアがウォルトン団長をたしなめてくれて、ララは内心ホッとしていた。
マリアの言うとおり、ララは女性慣れしていない。皇子で、すでに婚約者もいたララに、女の扱い方を学ぶ必要もなかったし……マリアと結婚するものだと思っていたから、別にそんなものを学ばなくていいと思っていたのだ。
マリアが相手なら、見栄を張らなくていいから。つたなくて、スマートじゃなくても、マリアなら笑って受け入れてくれると思っていたから。
「あの女はダメだけど、あなたに想う相手ができたらちゃんと言ってね。できれば祝福してあげたいって、そう思ってるんだから」
屋敷に戻り、風呂の最中。
いつものようにマリアの入浴を手伝っていたララは、髪を洗う手をぴたっと止めた。
「……おまえ、それ本気で言ってんの」
怒りで声が震えそうになるのを堪え、努めて平静を装い、ララは絞り出すように言った。
……分かっている。これが、マリアなりの自分への気遣いなのは。
王妃の外戚として妹と、エンジェリク王を支えているマリアが、ララと結ばれることはない。外国人で、何の身分も持たない自分……皇子としての地位も、いまは遠い昔。
助けた恩義でララを縛り付けていることを、マリアは気にしているようだった。
別に縛られているわけでも、恩義だなんてそんな純粋な感情だけでマリアのそばにいるわけではない。だから気にしなくていいのに、といつもララは笑い飛ばしていたのだが。
自分がマリアではなく他の女を選んでも、マリアは笑顔で送り出すというのか。自分は、その程度の存在なのか。
そう言われたようで。
そしてそれが、思いのほかララにとってショックで。
自分でもびっくりするぐらい冷たくドス黒い感情が、腹の底から湧き上がるのを感じた。
「いいえ、虚勢を張ってみただけ。たぶん、本当にその時が来たら、行かないでってすがりつくでしょうね」
目を瞬かせ、ララはマリアを見つめる。
自分に振り返ったマリアは、何とも形容しがたい笑みを浮かべていた。どこか悲しげな笑い方。
マリアは、ララの明るい笑顔が好きだとよく言ってくれる。落ち込んだり、悲しんだりしている顔は似合わない、と。
マリアも同じだと思う。マリアも、そんな笑顔は似合わない。
自分勝手で、強情で。人を振り回して悪戯っぽく笑っている姿のほうが、よっぽど……。
「別にいいよ、それで。俺はおまえのそばを離れたいと思わないし、いまさら、他の女を探したいとも思わない。自分が不幸だとも思わない。俺は十分幸せ者だぜ。初恋はしっかり実ったしな」
ちょっと嫌味も含めて言えば、マリアもくすりと笑い、ララに水をかけてきた。
自分の腕の中で寝息を立てて眠るマリアの髪を、優しく撫でる。
キシリアにいた頃も、こうして二人でひとつのベッドに入って、一緒に寝て……朝になって、自分たちを起こしに来た召使いを仰天させたっけ。あの頃は、どうして彼らが驚いたのか理解できなかった。
互いに色々あって、立場も何もかも変わってしまったけれど、こうしてあどけなく眠るマリアの寝顔は、昔のまま……。
「悪い。起こしたか?」
身動ぎ、目を開けるマリアに、ララが言った。
小さく首を振り、マリアはさらに身をすり寄せてきた。
「ちょっと……夢を見てたの。あんまり楽しい夢じゃなくて……」
そっか、と相槌を打ち、夢の内容は詮索しなかった。
話したければ、聞かなくても自分から話してくれる。だから、こちらから聞くつもりはない。意地っ張りだから、弱音を吐くことも嫌がって……。
「ねえ、ララ。ララは、子どもが欲しいとか考えたことないの?」
なんだか今夜のマリアは、いつもより無遠慮で、正直だ。
子どものことは、なんとなく互いに触れないでいた話題だった。マリアもララの複雑な内心を察してくれているのか、これについては遠慮がちで。
「私、ララの子どもなら生みたいわ」
唇を噛み、ララはマリアを抱きしめる。
すごく嬉しい言葉なのに、それはひどく残酷で。拒絶しなければならない我が身に、恨めしさを感じる……。
「俺は、自分の血を残すわけにはいかねーから。子どもは好きだけどさ。クリスティアンたちを見ていられれば、それで十分だ」
ララは、チャコ帝国の皇子だった。
いまの皇帝――スルタンは、ララの腹違いの兄。
だが仲の良かったはずの兄は、骨肉の争いの末に猜疑心にまみれた男となり、血の繋がった家族も信頼しなくなった。
もともと、チャコ帝国には、スルタンになれなかった皇子は全員始末される、そういう風習があった。ララの父親の代で廃れたはずの風習だったが、兄はそれを復活させ、ララのことも殺してしまう腹積もりで。
ララはそんな兄から逃れるために、マリアのもとに残った。
皇位継承権を捨てて外国に行ってしまった弟なら、スルタンも見逃すだろうと。
だが、そんな自分が子どもを作ってしまったら……万一にも、それが男児だったら。今度こそ、逃げることはできない。スルタンは、確実にララを消しに来る。
だから。
例えマリアが望んでくれても、自分は子を持つことだけは許されない。本当は、自分の血を引いた子をマリアに生んでもらうことができた彼らが、とてつもなく羨ましいけれど。
「クリスティアンたちは、あなたによく懐いてるわ。とても信頼しているし……あの子たちの父親が、時々嫉妬するぐらい」
「……たまには、そういうのもありかもな」
自分とマリアが結ばれないことは分かっている。
でも、自分はマリアにとって特別な存在で、特別な絆で結ばれている――そんな不遜な想いを抱くぐらいは、許してほしい。




