ある太師の場合
それはマリアを追いかけてエンジェリク王ヒューバートがセイランを訪ねてきた頃のこと。
若き王同士、セイランの皇帝グーランとヒューバート王は、互いの文化や風習について世間話を楽しんでいるところであった。
「香袋ですか。セイランの風習は、どれも雅で美しい」
最愛の后から贈られた、手作りの香袋。惚気まじりに話すグーランに、ヒューバート王も笑顔で返す。
香袋をじっと見つめ、キンモクセイですね、と呟いた。
「その香袋に描かれた花です」
「ああ。シャンタンの好きな花なんです。橙色の可愛い花で、私も好きですよ」
グーランの言葉に、ヒューバート王はくすくすと笑う。
あれ、と目を瞬かせるグーランに、エンジェリク王は言葉を続けた。
「すみません――キンモクセイの花言葉を考えると、お二人にぴったりな花だなと思いまして。キンモクセイの花言葉は、初恋」
改めて香袋を見、グーランは幸せそうに笑う。
二人のやり取りを眺めていたシオン太師も、つられて笑ってしまった。
「叔父上も、マリアから香袋を贈られたんですよね。シャンタンが一緒に作ったと話していました」
話題を振られ、思わず目を逸らしてしまう。
できるだけ不機嫌に、威厳あるような態度を取り繕って、わしのはただのおまけだ、と話す。
「他の男たちに作るついでのな」
意味ありげに笑うグーランに鼻を鳴らし、ふん、とそっぽを向く。
どこにやったか、とわざとらしく自分の衣服を漁って、マリアからもらった香袋を取り出した。
……本当は、いつだって身に着けている。自分はその他大勢の一人でしかなく、他の男のついでだ、と自分に言い聞かせて。緩んでしまいそうになる顔を、いつも必死に堪えていた。
「その花は……シオンですね」
「叔父上と同じ名前の花ですか」
香袋に描かれた紫色の花について説明するヒューバート王に、グーランはニコニコと相槌を打つ。
太師は何も言わず、口をへの字にして黙り込む。
「シオンの花言葉は、遠くにいる人を想う――君を忘れない」
その夜、小箱を開けるマリアを何気ないふりで太師は見ていた。箱を開いて中に入っていた簪を見、マリアは顔を上げて礼を述べる。
「ありがとうございます。可愛らしい簪……」
「なんという花か、知っておるか?」
今夜、マリアに贈った簪は花を模った装飾がなされていた。マリアはもう一度簪を見て、いいえ、と困ったように笑う。
「申し訳ありません。花については、人並程度の知識しかございませんで」
「分からぬのならよい。わしも知らん。ふと何の花か気になっただけで、深い理由はない」
そう言って、やや強引にマリアを抱き寄せる。あら、とマリアが抗議めいた声を上げ、それから笑う――意味ありげな笑い方だが、その笑みの真意をシオン太師では察知することができなかった。
「シオン様。せっかくですから、私の髪に挿してくださいませんか」
得意ではないぞ、と前置きし、簪を手に取る。
結われたマリアの髪に、簪を挿して。自分にこういったセンスがないのは事実だ。マリアと会ってから、経験するようになったこと。
いまもマリアに言われたとおりに髪に挿してみたが、これで良いのかどうか。
マリアは満足げに自分の胸にしなだれかかっているが……。
「マリア。もし、来世があるのならば」
マリアの髪を撫で、涼しげな音を立てる簪に触れながら、シオン太師は呟く。
「その時は、わしの妻になってはくれぬか」
「無理です」
「――即答するでない!」
悩むそぶりすらなく拒絶され、太師は真っ赤になりながら怒鳴ってしまった。
マリアが相手だと、照れ隠しや動揺のあまり、つい怒鳴ってしまう――悪い癖だと反省する時もあるのだが、どうしても直らない。
なにせ、怒鳴られたマリアが怯えるどころか面白がって笑う始末で。
「シオン様と夫婦になるのが嫌というわけではないのです。ただ……私、死生観には詳しくありませんが、生まれ変わりというのは、善人……とまで言わずとも、それなりに徳を積んだ人間にのみ許されるものではありませんか?となると……私、きっと生まれ変わることができません。真っ逆さまに地獄行きですもの」
うむむ、と思わず納得して唸ってしまう。
地獄へ落ちる、だなんて。
本来は嘆くべき悲劇なのだろうが、マリアが言うと妙に納得してしまう上に、滑稽に聞こえる。マリア自身、悲観する様子がまったくないし。
「……確かにな。来世などより、そちらのほうが大いに有り得そうだ。よし、分かった。地獄で夫婦になってくれ」
「それも可能なのでしょうか。だって、私はきっと、エンジェリクの地獄に落ちることになりますわ。あの世でも、セイランとは繋がっているのかしら」
「そのような些細なこと。繋がってなければ掘ってでも道を繋げればよいだけ」
豪快に笑う太師に、マリアは苦笑しつつも反論しなかった。
そんな彼女を愛しむように抱きしめ、また簪に触れる――簪の花の名は、花梨。
香袋のお返しをしましょう、とグーランが提案し、ヒューバート王に花言葉を教えてもらって、シオン太師が選んだものだ。
――これは花梨です。花言葉は、唯一の恋。
ヒューバート王がそう説明した時、桃色のこの可愛らしい花簪を贈ると決めた。
マリアにとって自分は、数多の男の一人。でも自分にとって彼女は……。
「地獄に落ちる楽しみができたな」
「もう、シオン様ったら。本当にセイランの地獄からはるばるやって来そうで、私も返事に困ります」
何もかもを捨てて、マリアだけを選べたらと思う時がある。だが生きている限り、シオン太師には有り得ないこと。甥のグーランを、祖国セイランを、見捨てられるはずがない。
それはマリアも同じ。だから、別れなければならない日が、必ずやって来る。
死して、すべてのしがらみから解放された時。その時こそ、マリアだけを選んで彼女と共に歩みたい。地獄ぐらい、マリアのためなら踏破してみせよう。
五十近いシオンの人生において、マリアと過ごした時間は短い。それでも、これが生涯最初で最後の運命の恋だと、そう感じていた。




