愛妾スカーレット 後編
出産を終え、スカーレットは療養に務めていた。
ゆったりと休み、時々絵を描いて。一度絵を描き始めると他のことなど目に入らなくなる自分が、マリアの泣き声にだけはすぐ気付くようになった。
いまも、マリアの泣く声が聞こえてデッサンの手を止めた。
「どうしたの、マリア。寂しくなっちゃったのかしら」
そう言って娘を抱き上げながら、寂しく感じてるのは自分のほうよね、とスカーレットは内心で自嘲する。
娘が生まれて十日ほど――妊娠中はあんなにもスカーレットにべったりだったフリードリヒ王の訪問が、三日ほど前からぱたりと止んだ。
最初はスカーレットを労わって訪問を控えてくれたのかと思ったのだが、さすがに三日も続くと、そんな言い訳が通用するわけがなくて。
ついに、フリードリヒ王の浮気虫もうずきだしてしまったのか……。
「スカーレット。女の子が無事に生まれたそうだね。おめでとう」
その日は長兄クリスティアンが城を再び訪ねてきてくれたので、寂しさもずいぶん和らいだ。
クリスティアンはベッドで眠る姪を見て、でれでれと相好を崩す。
「リリアンも元気な男の子が生まれて、すくすくと育っているよ。それに……ダフネ様がもう妊娠してるんだ。ローレンスのやつ、硬派に見えて、結婚した途端新妻とよろしくやってるみたいだ」
「みんな仲良くやってるのね。でもローレンスったら……お母様の喪中だからって、パーシーも結婚を先延ばしにしたって言うのに」
「ローレンスとダフネ様の結婚は、キシリアとエンジェリクの友情がかかっているから仕方がないと言えばそうなんだが」
やっぱり、兄弟とこうして他愛のないおしゃべりができるのは楽しい。
ベナトリアで手厚くもてなされ、フリードリヒ王やクラウディア王妃からあたたかく受け入れられているけれど、兄弟たちとの気安い会話は格別だ。
「可愛い姪に、僕からプレゼントだ」
そう言って、クリスティアンはベビードレスをプレゼントする。
ベビードレス……王妃クラウディアからも、贈られるはずだったのだが……。
「そう言えば、クラウディア様にご報告がまだだったわ。私もずいぶん体調が良くなったし、マリアをお見せしないと」
王妃のことを思い出してスカーレットが言えば、従者のロルフが動揺するのが見えた。スカーレットはもちろん、クリスティアンも従者の様子を見逃すことなく、二人揃って彼に視線を向ける。
ロルフは視線を泳がせながら、実は、と打ち明けた。
「陛下から、療養に務めるべきスカーレット様の負担を増やさぬようにと口止めされていたのですが……王妃様の容態がかなり悪化しておりまして。それで陛下も、政務の時間以外は王妃様に付きっきりに」
「そうだったの……。私やマリアのことは気にせず、どうぞクラウディア様のおそばにいてあげてください、と陛下にお伝えして」
クラウディア王妃の容態が悪い――なら、スカーレットのもとへ来ないのも納得だ。自分よりも王妃を優先してほしいと、素直にそう思った。
自分には、何かあった時にこうして駆けつけてくれる兄妹もいて、何より、娘のマリアがいる。だが王妃には、フリードリヒ王しかいない。
スカーレットも、心優しくも健気な王妃の回復を祈った……。
王妃のことはスカーレットに一切知らされず、スカーレットも余計な詮索はせず、娘のマリアと過ごす日々を大切にしていた。
スカーレットに正式に伝えられたのは、それからさらに三日後。突然、王妃の部屋に呼び出された。
あたたかな雰囲気に包まれていた王妃の部屋は、外からでも分かるほど重苦しい空気が満ち、何が起きたのか悟らずにはいられなかった。
「スカーレット、急に呼び出してすまぬ。マリアと共に、クラウディアのそばへ」
クラウディア王妃のベッドのそばにフリードリヒ王が寄り添い、いつもスカーレットを警戒している侍女フィリッパは、スカーレットたちを気にしている余裕もないといった様子で王妃を見つめていた――青ざめ、悲痛な面持ちだ……。
ベッドに横たわる王妃には、完全に死に取り憑かれていた。弱々しい命の灯は、もはや風前の灯火。
どこか虚ろな表情ではあったが、王妃は視線を動かし、スカーレットとマリアを見て、ホッとしたように微笑んだ。
何かを訴えているようでもあって。
ベッドサイドのテーブルに載せられた包みを指している。それが何か、スカーレットはすぐに分かった。
「ありがとうございます。クラウディア様が真心を込めて作ってくださったドレス……大切に致しますわ」
王妃は小さく頷く。そして、改めて王を見た。
「……フリードリヒ様……私、この身体に生まれたことを、ちょっとだけ感謝しているんです……。だって、健康に生まれていたら、きっとフリードリヒ様に会えなかったもの……」
王は苦笑する。
健康であれば、クラウディア王妃は別の男のもとに嫁がされていただろう。ヴァイセンブルグ帝国のため……病弱で、政略結婚の役には立てない娘と判断されたから、使い捨ての駒としてベナトリアに人質に差し出された。
なんとも皮肉な結末だ。疎まれたがゆえに、良い結婚相手に巡り合えただなんて。
「クラウディア様……!」
目を閉ざし、そのまま動かなくなった王妃に、侍女がすがりつく。泣きじゃくるフィリッパにかける言葉もなく、フリードリヒ王もスカーレットも、ただ彼女を見ていた。
やがて、フィリッパは振り返り――激しい憎悪の目をスカーレットに向けてきた。
「……おまえが……!」
見境を失っている――スカーレットは思わず後ずさり、従者のロルフがフィリッパの視線からかばうように割って入る。発作的にスカーレットに飛び掛かろうとしたフィリッパを、フリードリヒ王が止めた。
「おまえが!クラウディア様に毒を盛ったのだろう!子を持って増長し……クラウディア様が邪魔になって!だからこんなにも急に――許さぬ!絶対に許さぬ!」
フィリッパの殺意は本物だ。下手に反論するのも危険な気がして、スカーレットは腕に抱いたマリアをかばうことしかできなかった。
「スカーレット、自分の部屋に戻っていろ」
それからまた、スカーレットはマリアと二人きりで自室にこもる日々となった。
もちろん、自分の侍女のダーリーンや従者のロルフを始め、身の回りの世話をしてくれる人間はいたが……ベナトリアに来て初めて、スカーレットは孤独というものを身近に感じていた。
「陛下は……まさか、スカーレットが王妃様を害しただなんて、そんなことを信じてはいないわよね……?」
ダーリーンが、ひそかにロルフにそう相談する声が聞こえたが、スカーレットは反応せず、静かに絵を描き続けていた。
王妃の葬儀に出ることもできず部屋にこもるスカーレットのもとに、ナサニエルがやって来る。
部屋を移っていただきます――普段から愛想のかけらもない男ではあったが、そう言った声が冷たく感じてしまうのは、スカーレットの心情のせいだったのだろうか。
「そんな……スカーレットは、王妃様のことをとても尊敬していたわ。陛下と王妃様のためなら、我が子だって差し出す覚悟で――」
「お喋りをしに参ったのではありません。私はただ、陛下の命を受けて――スカーレット様、必要最低限のものだけ持って、すみやかに移動をお願いします」
スカーレットを擁護しようとするダーリーンを一蹴し、ナサニエルは言った。
承知しました、とスカーレットは頭を下げ、必要最低限のものに娘が含まれるのかどうかだけが気になった。
「マリア様も、スカーレット様と共にお部屋を移っていただきます」
「マリア様は正真正銘、王の血を引く子ですのよ!?なのに……陛下は、我が子までお見捨てになるおつもりなのですか……!?」
我が子にまで無情な態度を貫く王に、ダーリーンは青ざめている。スカーレットは頷き、マリアの身支度を始めた。
……娘と離ればなれにされるよりは、ずっといい。
「大丈夫よ、マリア。お母様が一緒だから。それに……お父様は、あなたのことをとても愛しているわ。私はお父様のことを信じてる」
ナサニエルに案内され、スカーレットたちは新しい部屋に向かう。
ダーリーンは王の仕打ちを悲しみながらも二人に付き従う覚悟で、従者のロルフも最後までスカーレットとマリアを守る決意を固めていた。
城の中心を離れ、人気のないエリアへ。まるでスカーレットたちを隔離するように。
着いた部屋は……前の部屋よりもずっと広く、中庭に面した美しい場所で。新しい画材道具や、マリアのための可愛らしいベビー用品が揃っている。
中庭は色とりどりの花が植えられ、小さな湖や東屋も整えられていて。
「とても美しいお部屋とお庭ですね。マリアも嬉しそう」
スカーレットは案内してくれたナサニエルに対して素直に礼を言ったが、ダーリーンたちはまだ不満そうだった。
王は、体よくスカーレットを追い払うつもりだと。
ナサニエルたちが去った後でダーリーンとロルフはフリードリヒ王への疑いをなくさないようにしていたが、スカーレットはマリアをあやし、新しい部屋で寛いていた。
王が自らスカーレットを訪ねたのは、最後に訪ねてきてから一ヶ月近く経った頃だろうか。
前触れもなしに侍女のフィリッパを連れてやって来たものだから、ダーリーンとロルフに強く警戒されしまっていた。
二人を取り成し、スカーレットは王とフィリッパを迎え入れる。
「申し訳ありませんでした……」
げっそりとやつれ、青白い顔をしてはいたが、憑きものが落ちたような表情で、スカーレットを見るなりフィリッパが言った。
心からの謝罪であることは、スカーレットにも伝わった。
「本当はずっと……分かっていたのです。貴女が優しく、誠実な方であると。私が勝手に、貴女を憎み……敵と見なしていただけ……貴女を嫌な女だと思い込もうとして……。そうしないと、あまりにもクラウディア様が気の毒で……!」
泣き崩れるフィリッパの肩に、スカーレットはそっと触れる。
ロルフに頼んで、描き上げておいた聖女の絵をフィリッパの前に――聖女のモデルは、もちろんクラウディア王妃。
「クラウディア様が眠る尼僧院にこの絵を飾って欲しくて、ずっと描いていたの」
フィリッパはよろよろと絵に近づき、聖女を見て、さらに泣きじゃくる。彼女が落ち着くまで優しく背をさすり……やがてフィリッパは、スカーレットに深く頭を下げたのだった。
「フィリッパは尼僧になるそうだ。クラウディアの眠る尼僧院に入って、彼女のために祈り続けると」
二人だけになった後、王はそう説明し、きっとそうなるだろうと思ったとスカーレットも頷く。
「おまえがクラウディアを害するなど、あり得ない話だ。それは俺もフィリッパもよく分かっている。だが……あの時のフィリッパは、そう説得しても聞く耳を持たない状態だった。時間を置くしか解決方法がなかった――おまえを遠ざけ、冷静にさせようと」
スカーレットを抱き寄せ、王が言った。
「説明すべきだったのだろうが、俺がおまえに近づくと、取り乱しているフィリッパをさらに逆上させてしまう恐れがあったのだ。フィリッパの悲しみを利用しようとする人間が、現れないとも限らなかった」
「だからフリードリヒ様はあえて私と距離を置き、落ち着くのを待ったのですね。この部屋に移させたのも、私と娘を守るため……」
「王の子と、それを生んだ母親――不埒なことを考える輩は一定数いる。いまならばフィリッパのせいにしてしまえると、浅はかなことを考える連中もいるからな。おまえとマリアを守るため。だがそのために、おまえたちに不安な思いをさせた。許せ」
真摯に謝罪する王に、スカーレットは微笑む。
「許すも何も、最初から怒っておりません。お会いできなかったのは寂しかったですが、フリードリヒ様を信じておりましたわ。それに……フリードリヒ様は、クラウディア様の名誉を守りたかった……」
フィリッパがスカーレットに危害を加えれば、王妃の名誉も汚れてしまう。スカーレットたちを守ったのは、フィリッパ……そしてクラウディア王妃のためでもあった。
どこまでも献身的に王妃を守ろうとした王を、責めることなどできない。
「……おまえの物分かりの良さに感謝すべきなのだろうが……なんだか面白くない。嫉妬など面倒だと思っていた……だが、こうしてヤキモチも妬いてもらえないと」
ちょっと拗ねたように話すフリードリヒ王に、スカーレットはくすくす笑う。
妬いておりますよ、と王の胸にしなだれかかり、スカーレットは言った。
「結局、私やマリアよりも、クラウディア様のためだったわけですから。私も面白くはありません。でも……そんなフリードリヒ様をどうしようもなく愛してしまったのです。変わってしまうのは困りますわ……」
「そうか……。乙女心というのは複雑なのだな」
王の言い様が滑稽で、スカーレットは声を上げて笑ってしまった。
王は笑うスカーレットをじっと見つめ、強く抱き寄せてくる。スカーレットは笑うのを止め、王を見上げた。
「……スカーレット。もし、おまえが望むのなら」
「いいえ」
王の言葉を遮り、スカーレットは首を振る。
「ベナトリア王妃は……フリードリヒ様の妃は、生涯クラウディア様お一人。それでいいのです」
「そうか――だがそうなると、俺たちの子は……」
「承知しております。マリアは王国の跡継ぎにはなれません。私がこの先何人子を生もうと……例え男の子が生まれたとしても……」
王子は、王妃の子でなければならない。クラウディア王妃が亡くなり、新しい王妃も存在しないのなら、スカーレットが生んだ子を王妃の子にすることもできない。
それが王妃と愛妾の絶対的な差。
聞き分けの良い……都合のいい女になるつもりはないのだが、一つぐらいは手に入らないものがあってもいいと思うのだ。
スカーレットは両親にも恵まれ、愛する男から愛の証も授かった。
だから……フリードリヒ王との結婚が唯一の幸せだったと微笑んでこの世を去っていった少女に、それだけは譲るべきだと。
どうせ、全てを手に入れたところで新しい欲が出るだけ。
なら、いつまでも手に入ることのないものに焦がれていよう。クラウディア王妃のことを想いながら。
「そうか……俺は本当に、おまえには頭が上がらんな。せめておまえと子に与えうる限りの最高の名誉を与え、愛情を尽くすと誓おう」
「またそんな調子の良いことを言って。どうせフリードリヒ様のことですから、しばらくしたら浮気の虫がうずき出すに決まってますわ」
スカーレットがすげなく言えば、フリードリヒ王はうぐっと奇妙な声を漏らし、冷や汗をかいていた。
「せめてクラウディア様の喪が明けるまではお控えくださいませ。あと、マリアのライバルをこさえてきたら承知しませんから。場合によっては、実家に帰らせて頂きますからね」
「……善処する」
断言せず善処などという言葉で誤魔化すあたり、フリードリヒ王はバカ正直というか、妙なところで真面目というか……。
スカーレットは苦笑いし、大人しく王の腕の中におさまっておくことにした。
ベナトリア王フリードリヒ。
王妃クラウディア亡き後、再婚することはなかったが、愛妾スカーレットと深い絆で結ばれ、彼女との間に何人もの子をもうけた。
クラウディア王妃亡き後、フリードリヒ王を公私ともによく支えたスカーレットはベナトリア宮廷で王妃も同然に扱われ、周囲からも慕われ……スカーレットを新しい妃に推す声も少なくはなく。
晩年のフリードリヒ王も彼女に何度かプロポーズしたのだが、スカーレット本人から断られ、たびたび落ち込んでいたとか。
フリードリヒ王は自身の甥の子を後継者として迎え入れ、スカーレットとの間に生まれた娘マリアを彼に嫁がせたという。




