愛妾スカーレット 前編
ベナトリア――美しい城の一室にて。
与えられた自身の部屋で、スカーレットは黙々と絵を描いていた。
大きなキャンバスに、フリードリヒ王の姿を……。
「スカーレット」
ダーリーンから呼びかけられ、スカーレットは一瞬だけデッサンの手を止めた。
でもすぐに、何もなかったような素振りで絵を描き続ける。
ダーリーンが苦笑いするのを感じたが、スカーレットは素知らぬ顔を続けた。
「陛下がお越しだけれど」
「お断りしてください。いまの私は酷い有様なので、きっと陛下に愛想をつかされてしまうわ。私に少しでも情が残っていらっしゃるのなら、どうか今夜はお引き取りください――と、お伝えして」
ツンとした態度でスカーレットが言えば、ダーリーンは困ったように笑いつつも、スカーレットの言葉を伝えに行った。
残されたスカーレットは、ひとり黙々と絵を描き続けて……。
「もう!何よ、ニヤニヤしちゃって!人の気も知らないで!」
何だか肖像画の中のフリードリヒ王の顔が気に入らなくて、スカーレットは一人でイライラしながら言い捨てた。
このまま、いっそ破り捨てちゃおうかしら。
「すまなかった、スカーレット。俺が迂闊だった。おまえに知られるような真似をした俺が悪い」
いつの間にやら部屋に入って来ていたフリードリヒ王が、スカーレットの機嫌を取るように声をかけてくる。
自分を抱き寄せるフリードリヒ王に、スカーレットはわざとらしくそっぽを向いて、王のご機嫌取りに答えなかった。
「あの女は遊びだ。ちょっとした浮気心――俺の特別はお前だ。それに変わりはない」
「どうだか」
自分の肩を抱く王の手をぺちっと追い払い、スカーレットは冷たく言う。
「彼女と結婚の約束をしたそうですわね。気前の良いこと。でも、クラウディア様の不幸を期待するような女……同じ愛妾として肩を並べることも嫌ですわ。寵愛なさるのは陛下の自由ですが、私と顔を突き合わせることのないよう、別の場所でお会いになってくださいませ」
スカーレットがそっけなく言えば、なんだと、とフリードリヒ王が答える。
その声は、先ほどまでのスカーレットのものよりもずっと冷たく、怒りに満ちていた。
「……何と言った?俺が、結婚すると約束したと?しかもそれが……クラウディア亡き後に――あの女がそう言ったのか?」
王の本気の怒りにいささか委縮しながら、スカーレットは頷いた。
自分もこのセリフをあの女からぶつけられた時は憤慨したが……王の怒りは、自分の比ではない。
フリードリヒ王は怒気を孕んだままであったが、静かだった。何やら考え込み、また来る、と立ち上がる。
「用事ができた――埋め合わせは後日な」
何が王の怒りを買ったのか。
……スカーレットには分かる気がした。
八つ当たりで告げ口したことではあったが……恐らく、クラウディア王妃を蔑ろにするような女の言葉が原因だ。
フリードリヒ王は非常に情の多い男で、スカーレットもそのことは承知していた。
王はスカーレットを寵愛し、惜しみない名誉を与えているが、時々他の女……というか、美しいものに目移りしていることがあった。
初めて王の浮気を知った時は、盛大に取り乱したものだ――いまもそれを許したわけではないのだが。
たかが愛妾の分際で、王の浮気を責める権利はない。さすがにスカーレットに悪いと思ってはいるのか、王もこそこそと隠しているみたいだし。なら自分も、気付かなかったふりで容認する他ない。
そう思い、耐えてきた。
だが今回の浮気相手は、耐えられぬほど傲慢だった。
自身が王の寵愛を得たことをアピールしまくり、挙句の果てに、王妃クラウディアを役立たず呼ばわりして、いずれ自身が王を支える妃になるのだと誇らしげにスカーレットに宣言してきた。
いまの内に自分にこびへつらっておけば、王妃になった時、情けをかけてやってもいい――城の廊下ですれ違った際に、あの女は平然とそんなことを。
王がそんなことを言うはずがないと分かっていたが、ちらりと。
もしかしたらあの人は、閨の雰囲気に流されてそんなことを言ってしまったのでは、と頭に浮かんでしまった。
だから王に言いつけた。あれが女の虚言であったら彼女がどうなるか、分かった上で。
……自分も、なかなかいい性格をしている。
クラウディア王妃を蔑ろにされたことに怒ったのか……睦言でも、王に結婚の約束を囁かれた彼女に嫉妬したのか……。
「すまなかった、スカーレット。俺が迂闊だった。つまらぬ女に入れ込んだ俺が悪い」
先日とあまり変わらぬ謝罪の言葉を聞きながら、スカーレットは苦笑いする。
場所は変わって城の中庭。
冬が近づき、庭の木々は最後の生命の炎を燃やして美しく色付いている頃であった。そんな木々の一瞬の命を描くために、スカーレットは風景画を描いていて。
王の謝罪に、絵を描く手を止める。
「あの女は城から追放した。どこへ行くかは知らんが、二度とおまえたちの前に姿を現さぬよう言いつけてある――他に望む処罰があるなら、希望に沿うつもりだ」
「……いいえ。フリードリヒ様も、謝罪はもう結構です。あまり彼女を悪く言い過ぎると、そんな女性に一時でもフリードリヒ様の愛情を奪われたのかと、自分が惨めになりますから」
そうか、とフリードリヒ王は言い、スカーレットの髪を一房取って指で弄ぶ。
浮気を許したわけではないが……これからもそれに悩まされ続けるだろうが、今回はこれぐらいが落としどころだろう。
相手がいなくなったのに、いつまでもこだわって王とギスギスしていたくない。
「クラウディア」
中庭に、車椅子に乗ったクラウディア王妃が入ってくる。王妃付きの侍女フィリッパが、ゆっくりと車椅子を押していた。
気遣う王に、王妃は微笑んだ。
「今日は体調が良いんです。お庭でスカーレットさんが絵を描いているのが見えたから、そばで私も見たくって」
「なんだ。俺に会いに来たのではないのか」
からかうように王が言えば、あ、とクラウディア王妃が困ったような顔をする。
「申し訳ありません。フリードリヒ様のこと、全然見えてませんでした」
王妃の言葉に、王は大笑いだ。
フィリッパに車椅子を押され、クラウディア王妃はスカーレットに近づいてきた。侍女フィリッパは、警戒を隠すことなくスカーレットを睨んで……もとい、見つめてくる。
強烈な視線には気付かないふりで、スカーレットも王妃に挨拶をした。
「とても美しい絵……。スカーレットさんのお父様も、高名な画家だったのよね。ヴァイセンブルグでも、お名前をよく聞いたわ」
「恐れ入ります。残念ながら、私は父ほどの才能に恵まれなかったようです」
「そうなの?こんなに素晴らしい絵なのに」
クラウディア王妃はスカーレットが絵を描く姿を眺めながら、絵のこと、エンジェリクのこと、スカーレットの母のことを――色々尋ねてきた。
気兼ねなくお喋りができる女友達を得られたことが、とても嬉しいらしい。女同士の楽しいおしゃべりで、除け者にされたフリードリヒ王はちょっと退屈そう。
楽しいおしゃべりを続けていた王妃だが、少し咳き込むようになって、侍女フィリッパに止められてしまった。
「クラウディア様、風が冷たくなってきました。そろそろお部屋に戻りましょう」
王妃は首を振った。
「もっとスカーレットさんとお話したいわ。絵だって、もう少しで描き上がりそうなのに」
「部屋で待て。おまえが倒れると、スカーレットも筆が進まなくなる」
フィリッパをフォローするように王が言った。スカーレットも頷き、完成したらお部屋に持って行きます、と同意する。
「もっと見ていたいのに」
「この庭は部屋からでも見えるだろう。スカーレット、クラウディアを連れ戻してくる」
スカーレットは笑顔で王と王妃を見送り……一人、中庭に残って絵を描き続けた。
王の寵愛が深くとも……王にとって特別な女となろうとも、フリードリヒ王が何よりも優先するのはクラウディア王妃。
それだけは揺らぐことのない事実。王妃が来れば、熱心にスカーレットに言い寄っていたフリードリヒ王はあっさり背を向けてしまう。
クラウディア様が、嫌な女だったらよかったのにな……。
そう思ってしまうこともある。でも、王妃は可愛らしくて……自分の運命を悟りながら、懸命に生きていて。
そんな王妃を大切にするからこそ、自分はフリードリヒ王を慕っている……なんとも皮肉な話だ。
故郷エンジェリクに別れを告げ、フリードリヒ王の愛妾となって三ヶ月が経った。
その日も、スカーレットは普段と変わらず自室で寛ぎながら、のんびりと絵を描いていた。
王は地方の視察で一週間ほど城を離れており、スカーレットは留守と王妃クラウディアを守る役目を務めていた。
ちょっとした異変が起きて王に手紙を送り……フリードリヒ王は、予定よりもずっと早く城に戻ってきたのだった。
「まあ、フリードリヒ様。こんなに早くお戻りになられるだなんて。予定は明後日のはずでは……何かございましたの?」
日もすっかり沈んだ頃、馬を飛ばしてきたのか旅衣装のまま自分の部屋に飛び込んできた王を見て、スカーレットは目を丸くする。
おまえが呼んだのだろう、と王は呆れたように言った。
「私が……?たしかに、手紙はお送りしましたが……」
王の無事を祈る言葉と、城へ帰ってきたらできるだけ早めに会いに来てほしい、と。
それだ、と王は言う。
「おまえが自分から会いに来いと言ってきたのは初めてだ。俺でなくても、何があったのかと慌てるに決まっている」
「それは……申し訳ありませんでした?」
「……最後で首を傾げるな」
ちょっと不貞腐れたように言われたが、自分のせいにされるのは、スカーレットだってちょっと不本意だ。
「でも、会いに来てくださってとても嬉しいです。早くフリードリヒ様にお会いしたかったのは事実ですから」
スカーレットは微笑み、改めて王と向き合う。王もスカーレットに寄り添い、何かあったのか、と気遣った。
「手紙ですぐにお伝えすべきかとも思ったのですが、自分の口から直接お話したかったのです。フリードリヒ様……」
自分に寄り添う王の手をそっと取り、スカーレットの腹に。スカーレットは王を見上げる。
「私、妊娠いたしました。来年には、フリードリヒ様はお父様になられるのですよ」
ぱちぱちと目を瞬かせ、王が黙り込む。
そうか、と呟き、しばらくじっとスカーレットの腹を見つめた。
――顔を上げてスカーレットと目が合うと、勢いよく立ち上がった。
「そうか……そうか!よくやったぞ、スカーレット!」
スカーレットの言葉を理解するまでに、かなり時間がかかったようだ。頭の回転は悪くないはずなのに。
でも無邪気に喜ぶ王の顔が可愛らしくて、スカーレットもクスクス笑いが止まらない。
ベナトリア王の愛妾となったスカーレットは、王に深く寵愛され、さっそく愛妾としての役目を果たしたのだった。




