故郷に散った紫色のクラベル
飾り気のないフェルナンドの服を、丁寧に整える。
日は、ずいぶん高くなった。
女王に報告に向かった使者は夜通し走り続け、朝早く戻ってきて、フェルナンド処刑の意を伝えてきた。処刑の準備が進められ、やがてフェルナンドを迎えに、人がやって来る――彼の着替えを手伝って、落ち着いた様子で自分を見下ろすフェルナンドの手を握る。
「そばにいるわ。最後の時まで。今度は、あなたを手離したりしないから」
フェルナンドは微笑み、そっとマリアに口付けた。
フェルナンドの処刑には、マリアだけでなくセシリオやローレンスも立ち会った。
もともと自分の運命を受け入れていたフェルナンドの処刑は速やかに終わり、遺体が納められた棺を前にローレンスはちょっと憮然とした様子だった。
「結局、女王からの執行書一枚で終わるんかい。そんなら、昨日捕えた時にケリつけてても良かったんちゃうか」
「紙切れ一枚の形式ではあるが、女王が正式に命令したという事実が大事なんだ。イサベル様は、これからキシリアを治めていかなくてはならないんだからな。フェルナンドの処刑は、彼女にとっては終わりではなく、始まりの象徴になる」
セシリオが言い、苦笑いで弟を見る。
「ただ……女王の裁定を待つべきだと言ったのは、半分は本気だったが、もう半分は方便だった。俺に代わって弟殺しの汚名を被ろうとするお前を、止めるためのな」
内心を見透かされ、ローレンスは照れくささを誤魔化すようにそっぽを向く。マリアはくすりと笑い、フェルナンドの眠る棺を見た。
「フェルナンドの遺体は、シルビオと共にサンタロッサ尼僧院に埋葬することにしたわ。大罪人ではあるけれど……私たちの家族でもあったのだから。私のお父様も、きっと受け入れてくれるでしょう……」
シルビオも、改めて埋葬しなくては。
これからのことを考え……マリアは、重い溜息をついた。今朝から身体が重く、思考能力も鈍っていて、考えがまとまらない。色々と、考えなくてはならないことがあるのに……。
「母上。まだ顔色が優れません。きちんと休んでください――ローレンス、お前も処刑の見届けが終わったのなら、もう部屋に戻って休め」
「こんなもん、怪我のうちにも入らんわ!」
「どこが。十分大怪我だろう」
息子たちのやり取りを微笑ましく眺めた後、セシリオの言葉に甘え、マリアは自室に戻ることにした。
けれど部屋に戻ろうと廊下を歩き始めて、ふと……あの女はどうなったのか確かめたくなった。
与えられた自室とはまったく別方向の、見張りの厳しい牢獄代わりの貴賓室へ向かう。部屋の様子をうかがうまでもなく、扉の外にも聞こえるほどの嘆き声が響いてきた。
「ああ、お嬢様ぁ……!なんと酷い目に……!」
年老いた女の声。ノックもせず、マリアは扉を開けて部屋を見た。
清潔な寝台の上に、彼女は横たわっていた。
瞳を固く閉ざした女の遺体に老女が泣きすがり、マリアが近づくと、憎しみに満ちた目で睨みつけてくる。
「魔女め……よくもお嬢様を……!」
マリアに飛び掛かろうとした老女を、見張りの男たちが止めた。マリアは動じることなく冷笑し、猫撫で声で話しかける。
「ナルシソという男のことを覚えてるかしら。フェルナンドの教育係だったそうだけれど」
突然何を、と言わんばかりに老女は目を瞬かせたが、ナルシソのことはちゃんと覚えているようだ。
幼いフェルナンドを、あの男はよく躾けていた。自分たちの意を汲んで……なかなかの働き者で。
「その男が、あなたたちの居場所を私たちに教えたのよ。情報を提供する代わりに、自分のことは許してほしいと、そう訴えてきたの。ずいぶん誠実な男を雇っていたのね。彼の忠誠心のおかげで、私たちはあなたたちを捕えることができたわ」
もっとも、その男もさっさと始末しておいたが。
居場所を教えるので命だけはお助けを、と彼が勝手に持ち掛けてきた条件だ。リーリエを殴り殺した男を生かしておいてやる義理はない。
魂が抜けたように老女は口をぽかんと開き、へなへなと崩れ落ちていく。
呆然とする老女を放置して、マリアはベッドに近づき、女が……シルビオの正妻が死んでいることを確認した。そばには、毒の入った小瓶が。
昨夜、部屋を出る前に、ノアがそっと彼女に渡しているのを見た。きっとこうなるだろうと思っていた。
……これで、本当にすべて片付いた。なんだか、とても……疲れた。
その夜。
マリアは高熱にうなされていた。
早めにベッドに入ったのだが、その頃にはフラフラで。自分で感じていた以上に、マリアの身体はボロボロだったらしい。
付きっきりで看病してくれるナタリアに、大丈夫と強がる余裕もなくて。
ナタリアが水を取り替えに行き、一人きりになった時、熱にうかされて幻覚……あるいは、不思議な夢を見た。
ベッドに横たわったまま、荒く呼吸をすることしかできないでいる自分の額に、何かがそっと触れてくる――大きくて、優しい手。
懐かしい感覚にマリアは目を開け、彼の姿を見つけてかすかに笑った。
「ヴィクトール様……私を、迎えにきてくださったんですか?」
彼とは、また会えると信じていた。
自分が終わりを迎えた時……その先で、待っていてくれていると。だから、別れはとても寂しかったけれど、また会える時までの、しばしの別れと思って受け入れた。
ずっと会いたかった……そろそろ会いに行ってもいいのではないかと、そう考えるようになっていた……けれど。
「せっかく迎えに来てくださったところを申し訳ないのですが、私、もう少しだけやりたいことがあるんです。もうちょっとだけ、待っていただけませんか?」
マリアが言えば、彼も微笑み、マリアの額にそっと口付けた。
夜が明けて、昨夜の熱が嘘のようにマリアの体調は回復していた。
そうなった途端、忙しなく旅の準備をする母を、クリスティアンたちは諫めた……が、マリアも譲らなかった。
「時間がないの。いまのうちに、できるだけのことをやってしまわないと」
マリアの言葉にクリスティアンたちは首を傾げる。
マリアには、確信があった。
昨夜、彼が自分のもとに現れたのは……あの時は、自分を迎えに来たのだと思ったのだが、きっとそうではなかった。
自分を迎えに来た別の人を、彼が止めてくれた。まだ終わりを受け入れられないマリアのために。
……自分の命運は、とうにタイムリミットを切ってしまったのだ。
ナタリア、クリスティアン……一緒に行くと、こちらも自分の主張を譲らないノアを連れ、マリアは出発しようとした。
そんなマリアと入れ違うようにダフネ王女がやって来て、ローレンスは目を丸くする。しかも、自分を見るなりダフネ王女は目に大粒の涙を溜めてくるものだから、ローレンスはおろおろとしていた。
「ローレンス様、大丈夫なのですか?大怪我をしたと聞き、居ても立ってもいられず……あなたが、明日をも知れぬ身だと……」
「はあ!?誰や、そんな大嘘、ダフネに吹き込んだやつは!」
「俺だ」
セシリオが冷静な声で言った。
「お前がちゃんと休もうとしないから、ダフネ様に大袈裟に伝えて来いと指示を出しておいた。俺はイサベル様のもとに戻らないといけないから、俺の代わりに彼女に見張っていてほしくて。大袈裟にはしたが、嘘は言っていない」
看病を頼みます、とセシリオはダフネ王女に頭を下げ、俺は大丈夫や!とローレンスは訴えつつも、ダフネ王女の涙には勝てないようだった。
マリアもクスクスと笑い、ローレンスのことはダフネ王女に任せることにした。
雪が積もった道を馬で進み、マリアたちはサンタロッサ尼僧院を目指す。
もうすぐ年も変わる。キシリアは、新しい時代を迎える。
自分が妹を連れてキシリアを出たのも、ちょうどこんな季節だっだ……。
「久しぶりね、エマ」
「お久しぶりでございます。お戻りになられてると聞いてはおりましたが、またこうしてお会いできてとても嬉しいですわ」
いまは院長となった、父のかつての愛妾。セレーナ家の人間は、いまやマリアと彼女だけ。
サンタロッサ尼僧院の院長は、マリアたちをクリスティアン・デ・セレーナとその妻が眠る墓へ案内した。
「お父様……お母様……」
二人の墓の前に跪き、静かに祈る。マリアの後ろで、ナタリアたちも目を閉じて祈りを捧げていた。
「少しの間、ひとりにしてくれる?」
背を向けたままマリアが言えば、彼らがそっと礼拝堂のほうへ向かう気配がした。
墓地にはマリア一人きり……あたりは白く染まっていて。尼僧院に着いた頃にはいったん止んでいた雪が、またちらちらと降り始めていた。
「今回は、私だけです。オフェリアは……戻ってこれなかった。代わりにこれを……」
生前、オフェリアが大切にしていたくまのぬいぐるみを墓前に供える。
エンジェリクの王妃として生涯を終えたオフェリアは、キシリアへ帰ってくることはできなかった――だからせめて、あの子の形見の品だけ。
夫ヒューバートはこれを手離さなかったけれど、息子のエドガーはマリアの頼みを聞き入れてくれたから、ようやくマリアのもとに返ってきた。
マリアたちの母が、生まれてくる娘のために作ったぬいぐるみ……。
「前にお別れを告げたあの時から、ずいぶん時間が経ちました。明日は私の誕生日です……もう四十になるんですね。私も、すっかり年を取って――次女のリリアンが、男の子を生んだそうです。私、おばあちゃんになったんですよ」
キシリアで、娘が孫を生んだという手紙を受け取った。幸せいっぱいの、メルヴィンから届いた手紙。生まれてきた男の子は、ギルバートと名付けたと……。
「結婚は三回もしました。一度目は訳ありだったので省略しますが、二番目の夫に先立たれ……三人目とも結局死別してしまって。私と結婚してほどなく亡くなったので、エンジェリクではすっかり夫殺しの異名が付いてしまいましたわ。魔女伝説に、新たな逸話が加わったみたいで」
息子ニコラスからも手紙が届き、ジェラルドが永眠したと知らされた――ずいぶん前から、自分が代筆して、母に手紙を送っていたとも。
夫の異変は、マリアもとっくに気付いていた。
ニコラスは実にうまく父の筆跡を真似ていたが、マリアは二十五年彼の秘書を務め、彼が書いた書類を見てきたのだ。例えニコラスでも、マリアの目を欺けるわけがない。
律儀な彼がそれを隠して代筆させている――触れてほしくない事情があるのだろうと思って、気付かないふりをしてきた。別れが近いことも、なんとなく予期していた。
「何もかも完璧に……とは行きませんでした。こんなことになるなんて、と驚くような結果になってしまったこともしばしば。でも……私はちゃんと幸せでした」
――お姉様は、もう自分の幸せのために生きて……。
あの子はそう言ったけれど、マリアはいつだって、自分の幸せのために生きてきた。誰かのために自分の人生を犠牲にしてあげられるほど、聖人ではない……。
一瞬、閑散とした広い墓地に強い風が吹き抜けていった。
風にあおられ……マリアは、誰かの声を聞いたような気がした。
静かな礼拝堂で、ナタリアは祈りを捧げていた。去って行った人たちのことを想いながら。
ノアとクリスティアンは静かに彼女を見守っていたが、尼僧が礼拝堂に入って来た途端、開いた扉から強い風が吹き込んできて、一瞬、二人もそちらに気を取られた。
尼僧たちが、慌てて扉を閉じる。
ふと振り返れば、ナタリアは立ち上がり、はっと息を呑んだ様子だった。
「いま……オフェリア様の笑い声が聞こえたような……」
ぽつりと呟き、やがて彼女は慌てたように走り出す。バタバタと礼拝堂を出て行く彼女を諫めることも忘れ、ノアとクリスティアンも急いで彼女のあとを追った。
ナタリアが向かったのは墓地――マリアがいたはずなのに、姿がどこにもない。
「マリア様!」
「母上!」
マリアの名を呼び、三人で彼女を探す。
マリアの両親の墓の前へすぐに駆けて行って……ノアは、そこに彼女を見つけた。
墓の影……真っ白な雪の上に、マリアは倒れていた。ノアが抱き起こしても、彼女が目を覚ますことはなかった。
「マリア様……」
ぽたりと、彼女の顔に涙が落ちる。
とうに枯れ果てたと思っていた涙……動くはずのない表情が崩れているのを、ノアも感じた。一度流れ始めた涙はとめどなく流れ続け、視界が歪んで、眠るように安らかな顔をしたマリアの姿も、よく見えなくなっていく。
ノアはただ、冷たくなっていくマリアの身体を抱きしめて泣いた。その冷たさは、雪のせいだけではない。
キシリアで咲いた、美しい傾国の花。
数多の男に愛され、大国の王も翻弄した花は、最後のその時まで気高さを失うことなく、故郷に散っていった……。




