偏屈者が愛した音楽
「……これで、必要な引き継ぎもだいたい終わったでしょうか」
持ってきた書類を膝の上で整え、アルフレッド・マクファーレンは椅子から立ち上がる。
ベッドに横たわったまま、ジェラルドは彼を見て頷いた。
「他に必要な書類があれば、ニコラスに声を。この屋敷は、すでに息子が継いでいる。そろそろ、あれも一人前扱いしてやらならいと……いつまでも甘ったれのままだ」
「またそのようなことを言って。可愛くてたまらないくせに」
からかうように笑うマクファーレン伯を、ジェラルドはじろりと睨む。
――それで怯むような男ではないことは承知していたが、つい、照れ隠しで。
「……ジョージ殿は、あの世で狂喜乱舞していることだろう。ついに、マクファーレンが宰相になったと」
「どうでしょう。存外、怒り狂ってるかもしれません。ニコラスのせがれに譲ってもらうなど何事だ、と」
アルフレッドが差し出した手を、ジェラルドも握る。
腕を上げる動作もぎこちなくて、自分はここまで弱ったか、とひそかに自嘲した。
弱気なことを考えていないでさっさと完治させ、城に戻るべきだと分かっているのだが……疲れた、という思いがどうしても拭い去れない。
泣き虫の甘ったれ王を支え、助けるべき役目が残っている――けれど……。
生涯をかけて仕えるはずだった主君は先に逝ってしまい、肩を並べる友もいない。
そして自分に寄り添ってくれた愛しい人も、いまは遠く。
……そろそろ、自分も幕引きを考えてもよいのではないか。
つい、そんなことが頭に浮かんでしまう。
アルフレッドが帰った後、ジェラルドはベッドの上で書類を眺めていた。どこか、ぼんやりと。
仕事ぐらい、どこででもできると思っていたが……どうも集中力に欠ける。ベッドの上で仕事をする習慣がないから、仕事人間と言われた自分でも、驚くほど進捗がなかった。
「父上。母上から手紙です」
女性好みの封筒を手に、ニコラスが部屋に入ってきた。
手紙を受け取り、じっと見つめる。それから、当たり前のように手紙をニコラスに返した。
父親から手紙を受け取ったニコラスは、丁寧に開封する。そして、改めて中の便せんを父に渡した。
「エンジェリク軍はフェルナンド王に勝利した――これで大勢が決まったな」
マリアの手紙を読みながら、ジェラルドが言った。
「エンジェリク軍は、これでキシリアから引き上げですね」
「そうなるだろう……マリアは、帰ってこないだろうが……」
思わず漏れてしまった本音にニコラスは一瞬黙り込み、かすかに笑う。
「二度とエンジェリクに帰ってこないと決意しているわけではないでしょう。セレンとヴィクトリアを迎えに来ると話してましたし、姉上が子を生んだら、孫に会うために帰ってくるはず。父上にも、また会いに来てくれますよ」
ジェラルドもかすかに笑った。だがそれは、どこか自嘲するような、諦めたような笑みにも見える気がした。
「返事を書きますか?」
父親のデスクから手紙を取り出しながら、ニコラスが尋ねる。ジェラルドはしばらく黙り込んで考え、いや、と首を振った。
「手紙を書く前に、少し情報を整理したい」
「分かりました。僕も書斎に用があるので――返事を書く気になったら呼んでください」
部屋を出て行くニコラスを見送ると、ジェラルドは改めてベッドに横たわり、目を閉じた。
マリアをキシリアへ送り出した、ほんの数日後のことであった。
城からの帰り道、ジェラルドの乗っていた馬車が襲撃され、ジェラルドは負傷した。
ジェラルドを襲ったのは、宰相によって粛清された貴族の遺族――復讐劇は特に面白い展開もなく、実行犯もろとも彼らに依頼した連中も全員あっさりと逮捕され、即日の内に処刑された。
命にかかわる傷ではなかった。その時は。
年を取ったジェラルドでは回復が遅く、ベッドで療養する期間がどんどん長引いていき……それに伴うように、自分の身体は日に日に弱っていっていた。
父もそうだった。年を取って、ちょっとした病で伏せる期間が長くなったら、あっという間に弱ってしまって。
寝たきりを続けたジェラルドの身体は、急速に終わりを迎える準備を始めてしまったらしい。
おかげで、いまは自力で書き物をすることもできず、手紙は息子ニコラスに代筆してもらっていた。
……マリアには知らせていない。
知らせてはどうかと、ニコラスたちには言われた。もしかしたら、ジェラルドを心配して戻って来てくれるのではないか、そう期待する自分もいた。
その一方で、こんなことで彼女を縛り付けたくないという思いもあって。
自分は、彼女と対等な関係でいたいのだ。共犯者――誰にも、その立場を奪うことはできなかった。
憐れみ、情けでそばにいてもらうような、そんな関係にはなりたくない……。
「……お父様」
聞こえてきた声に、ジェラルドは目を開けた。
弱ってきた自分は、気が付いたら眠っていることも多かった。ニコラスや……アイリーンがひそかに心配していることは分かっているのだが、強がりというのもなかなか難しい。
ポーカーフェイスだが、どこか気づかわしげに自分を見つめるアイリーンに、何をしに来た、とそっけなく答える。
「私を見舞う必要などないと、そう伝えてあるはずだ。私を心配している暇があったら、あの泣き虫王を押し倒して既成事実のひとつでも作ってこい」
「エドガーはまだ十四歳ですのよ」
「オフェリア嬢がヒューバート王子に嫁いだのは十四の時。立派に王子妃の務めを果たしていた――王族ならば、特に珍しい年齢でもない」
「もう。父親に閨のことを命令されたくありません。品のない発言は慎んでくださいませ」
アイリーンは不貞腐れた口調で反論するが、父娘のやり取り見ていたニコラスも意味ありげな目で姉を見ている。
そっくりな双子だと思っていたが、こうして並ぶと本当に瓜二つ……目元だけは異なっているが。
「ニコラス」
「はい。返事を書く気になりましたか?」
紙を取ろうと手を伸ばすニコラスに、いや、とまた首を振る。
「せっかくアイリーンが来たのだ。久しぶりに、おまえたちの演奏が聴きたい」
家人に手伝ってもらい、ジェラルドは音楽室へ移動した。
母が愛したチェンバロ。母に教わり、自分も幼い頃から演奏していた。大人になり、マリアたちに教える立場となって……いまは、子どもたちが自分に代わって演奏をするまでになった……。
アイリーンとニコラスは二人で並んで座り、チェンバロを奏でる。父が愛用していた椅子にゆったりと座って、ジェラルドはそれを眺めていた。
――かつてこの音楽室では。
歌手アイリーンと、そんな彼女の練習に付き合って、恋人のニコラスが二人並んで演奏していた。
ニコラスはアイリーンほどの腕前がなかったので、いささかぎこちない演奏だ。
やがてニコラスの膝に、銀髪の小さな男の子が座るようになった。
最初は大人しく両親の演奏を聴いていたが、自分も指が動くようになり、ぎこちない父を手伝って鍵盤を押し……いつの間にやら、アイリーンと並んで演奏をするのはジェラルドに。
父ニコラスはチェンバロのそばにちゃっかり椅子を置き、そちらに座るようになった。
しばらくの間、チェンバロの前からは人の姿がなくなった。
奏でられなくなったチェンバロはカバーをかけられたまま、その役目を果たすことなくなったが……ある日、ジェラルドが一人でチェンバロの前に座った。
そしてすぐ、彼の隣に少女が座るように。
ジェラルドが少女を見る眼差しは、彼の父ニコラスがアイリーンを見る眼差しそっくりであった。
次第に例の席にニコラスが戻ってきて……少女の妹も一緒に歌ったり、悪友を自称する男が聴衆に混ざったり……。
それから……ジェラルドとマリアの膝に、それぞれ小さな男の子と女の子が座るようになった。
両親の膝の上で、双子は両親の演奏を聴く。
その双子が成長し、いまやチェンバロの前に自分たちだけで座っていて……。
子どもたちをぼんやりと眺めるジェラルドの脳裏に、そんな光景が浮かんでは消え、思い出が流れていく。
子どもたちが奏でる音楽が、どこか遠く……観客席から劇場を眺めるように、身近なものに感じられなくて――やがて、幕が下りた。
ジェラルド・ドレイク、享年五十五歳。
冷血宰相という悪名を持ち、城の人間たちからも恐れられた男であったが……素顔の彼は、どこにでもいる普通の男とさほど変わりはなかったとか。
彼の息子は、そう語る……。




