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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その悪名伝~  作者: 星見だいふく
第一部02 消えない亡霊の影
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侯爵 (4)


ニコラス・フォレスター宰相の住居は、格式高いエンジェリク侯爵の住まいとは思えぬほどこじんまりとしたものだった。

最愛の妻との思い出から逃れるために構えた別邸だから、必要最低限のものさえあればいい――そんな考えで購入した住居。実用面では十分だが、いささか寂しい感じもした……。


「お休みのところを失礼いたします。お加減はいかがですか、ニコラス様」


寛衣のままベッドにゆったりと腰掛ける宰相は、ふん、と鼻先で笑い飛ばす。


「大したことはない。少し熱が出ただけなのを、ジェラルドが休めとうるさいから仕方なく休みを取っただけだ」


宰相とドレイク卿――揉めることもあるが、やはり仲の良い父子だ。揉める原因となっているマリアが言えた話ではないが。


「アーネストの娘が、マクファーレン判事の長男と婚約したと聞いた」


はい、とマリアは頷く。


「アーネスト・ハモンド様のご令嬢アンジェリカ様と、マクファーレン伯のご長男ジョージ様が婚約し、ついでに、マクファーレン伯爵にハモンド家の後見役をお願いしてきたところです。アーネスト様のご長男は、最近司法官となって城仕えを始めたばかりでして」

「十年も前であれば、私が後見役を引き受けたのだがな。後見役を引き受けるには私も年を取り過ぎた……」


本当に、フォレスター宰相はずいぶん年を取ったように感じる。たぶん、ハモンド法務長官が亡くなったことで彼も内心ひどく動揺しているのだろう。法務長官はたしかに高齢ではあったが、それでも宰相よりはずっと年下だ……。


「私が、アーネストを見送る立場になろうとはな」


かける言葉も思いつかず、マリアは宰相の手にそっと自分の手を重ねた。重ねられたマリアの手を、宰相も黙したまま握った。


「身近な者を見送る――もう数えることも忘れるほどに経験してきたが、こればかりは慣れんものだ」

「心中お察しいたします。慣れる必要もないことですわ」


マリアも、親しい人を見送るという経験はすでに何度かしていた。それに伴う苦しい思いも――年若いマリアですらそうなのだから、フォレスター宰相はきっと、マリア以上に抱え込んだものがあるに違いない。


「そろそろアイリーンの迎えが恋しくはなるが……孫をこの手に抱くまでは死ねん。ようやくジェラルドがその気になったと言うのだからな」


そう言いながら握ったマリアの手を引っ張り、宰相は自分のほうへ抱き寄せる――マリアは目を瞬かせ、呆れたように言った。


「ジェラルド様の子を生むために、私、男断ちしている最中なのですが」

「問題はあるまい。最後の妊娠は先延ばしになったほうが、ジェラルドも喜ぶ。貴女をセイランに送り出すのも、オーシャン王子との結婚も、ついでに先延ばしになるのだからな」

「……もう。迎えに来たアイリーン様に、こっぴどく叱られますよ」


冗談半分、牽制半分でマリアが言えば、宰相はわずかに笑う。

案外、息子と愛人を取り合った話を、宰相の妻は笑って聞きたがるかもしれない……。




クロフト侯爵に会うために、マリアは異様な空気に包まれた建物を訪ねていた。

一見すると、それはどこにでもある美しいサロン――だがその建物を見張る人間は、やはり独特の雰囲気をまとっている。

見張り役は、ジェラルド・ドレイク警視総監の姿を見てあからさまなほどに敵意を向けた。ドレイク警視総監は、それに動じることなく懐から紙を一枚取り出し、見張りの男に手渡す。


「……今宵はれっきとした客だ」


紹介状を受け取った見張り役は、紙とドレイク卿に忙しなく視線をやった。ほんの少しの不審も見逃すまいと――この客を追い払う口実を、ほんのささいなことでも見落とすまいと。


「お客様に失礼はいけませんよ」


店内から、物音もなくスッと現れたのが、ナサニエル・クロフト侯爵――たぶん。陰気で暗い影を常に背負っているような男で……やっぱり、あまり印象に残りにくい男だ。ブ男というわけではないが、色男というわけでもなく。しかし、陰気な雰囲気のせいで外見については良い印象を得られないかもしれない。平均以上の顔立ちだとは思うのだが……。


「ようこそ、ドレイク様。お客様としてお越しいただいた以上は、客としての礼儀とルールを弁えて入店していただきいのですが――店側にも、断る権利はあることをお忘れなく」

「分かっている」


クロフト侯爵が念押ししたくなるのも無理はない。動かない表情――しかしその顔には、この店にいる人間全員逮捕してやりたい、という内心がありありと描かれている。

逮捕してやりたいというドレイク卿の気持ちも分かるだけに、マリアは苦笑してしまった。


クロフト侯爵に案内されて店の中を横切る間、マリアも甚だ不愉快な気分であった。これでもまだ、警視総監に見つかってもなんとか誤魔化せる程度の遊びだというのだから、こんな店を愛用する人間のおぞましさに反吐が出る。

金と権力を持て余してこんな享楽に耽るぐらいなら、いっそ死ねばいいのに。そのほうが世のためだ。


「この部屋なら、外の煩わしい音も聞こえませんし、こちらの話が漏れることもありません」


侯爵が案内してくれたのは、どこにでもあるような清潔感のある応接室だった。気味の悪い部屋ばかりだと思ったが、こんなまともな部屋もあったとは。


「ひとつ。誤解のないよう申し上げておきますと、この建物は私の趣味ではありません。あれらと一緒にされるのは、さすがの私もいささか不愉快というものでして」

「それは失礼。あくまでも需要を利用しているだけであって、あなた個人の趣味ではないと」


だから何かの釈明になるわけでもないが。

皮肉な思いでマリアが言えば、侯爵は愛想笑いを浮かべることもなく、真面目な顔で頷く。


「おっしゃる通り。先のレミントン侯爵も、余計なことを思いつくものです」

「この館を建てたのはレミントンか」


警視総監の尋問……もとい問いかけに、はい、と侯爵は再び頷いた。


「もちろん、リチャード様ではなくその父親……当時はまだレミントン伯爵……いえ、子爵でしたかな。金と権力を持て余す人間ほど、刺激的で過激な遊びを求めたがるもの。彼らの需要を実に的確に利用したものです」


レミントン家は、本来なら城に出入りすることもできないような格の低い家柄であった。人脈を繋ぎ、それを利用してのし上がり、悪運にも近い偶然に恵まれて王子を擁する王妃の外戚になった。

その人脈には、こういったおぞましいものもあったというわけか……。


「クロフト候は、リチャード様たちと親しかったのですか?」

「いいえ。お声をかけていただくことはありましたが、親しかったなど、そのような畏れ多い……私が一方的に、憧れていただけです」


リチャード・レミントンは、娼婦を母親に持つレミントン当主の庶子であった。庶子が家を継ぐなどということは、本来なら有り得ないこと。彼の口から語られたことはないが、並大抵の苦労と努力ではなかったはず。

ナサニエル・クロフトも、立場は同じ――そういった共通点から、ナサニエルのほうがリチャードに憧れを抱いていたのは不思議ではない。同じ境遇の彼に憧れて、それを支えに横暴な父親に耐えて……。


「先のレミントン侯爵は、我が子も利用したのでしょうか。その、この店で行われているようなことに」

「私は先代のレミントン当主について直接は知りません。しかしその可能性は低かったかと。彼はこういった遊びには興味がなかったはずです。こういった遊びは、金と権力を持て余した連中がやりたがるもの。格下の家で生まれ、野心のままにのし上がっていく男には無縁の遊びでしょう」

「ある種では、彼の欲望は真っ当な方に向いていたというわけですか。なんとも滑稽な話ですわね」

「おかしなもので。権力を得ることに執着することは、場合によっては非常に健全な感情と言えるでしょう。庶子であったリチャード様にはあるいは、と思うことはありますが、少なくとも嫡子であったポーリーン嬢、パトリシア嬢にはこのような遊びをさせなかったでしょう。せっかくの娘です。使い捨ての道具にするよりは、もっと確実で、恩恵の大きいやり方を選ぶはず」


たしかに。

過激な遊び相手として差し出せば、一時の寵愛を得ることはできるかもしれない。けれどその代償として、差し出した生贄は命を落とす。客は次の獲物を求め、すぐに寵愛を移してしまう。

それよりは、娘を有力な家に嫁がせて、その家から永続的な恩恵を受けるほうが確実だし、得るものも多い。実際、レミントン当主は娘パトリシアを名家に嫁がせて、自分の家の格を上げたわけだし。

名家に嫁がせるのなら、キズモノになることは避けるはず……。


「私の都合の良い解釈でしょうけれど、侯爵とお話できていくらか心が軽くなりましたわ。気分がよくなったところで、私としては次のお話に移りたいのですが」


笑顔でマリアが言えば、侯爵はゆったりと長椅子に腰かけた。

何を考えているのか分からない陰気な空気が一変し、マリアを真っ直ぐに見据えてくる。


……なるほど。

フォレスター宰相が、彼の目をよく覚えているはずだ。抜け目のない鋭い眼差し――凡庸な父親の陰に隠れていたが、彼の野心の強さもなかなかのもの……。


「私、来年中にはエンジェリクを離れ、セイランへ赴く予定です。でもその前に、私はオーシャンの王子と結婚しなければなりません。オーシャンの王子……正確にはその母親には、悪魔崇拝の疑いがかかっております。偶然にも、あなたのお友達にも同様の趣味をお持ちの方がいらっしゃるようで」


手を組み、クロフト侯爵はマリアを見つめたまま口を閉ざしている。マリアは構わず話し続けた。


「私がいない間、侯爵様がお相手していてくださいな。彼らの好む遊びは、ナサニエル様ならよくご存知のはずですもの」


どうせオーシャン王国から縁談がゴリ押しされているのも、クロフト侯爵のお友達がその忌々しい趣味繋がりでねじこんできたから。マリアがいない間ぐらい、大人しくしていてもらいたいものだ。


「……私は、チャールズ殿下にお仕えしたかった」


クロフト侯爵が、静かに切り出した。


「リチャード様がご自身の生涯をかけて愛した御方。彼を王に戴き、敬愛する王のために私もまた生涯をかけるつもりだった。そんな望みを、あなたが壊した」


向けられる敵意。初めて見せたクロフト侯爵の感情に、マリアは怯むことなく微笑み返す。


「私には、なんとしてもヒューバート王子を王にする必要がありました。そしていま、陛下の治世を守るためにも、レミントンの遺産は完全に消し去るつもりです。セイランから戻ったら、あなたのこともお相手してさしあげますわ」

「……クロフト侯爵、私からもひとつ、誤解のないよう話しておきたいことがある」


マリアの護衛として付き添ってくれていたドレイク警視総監が、口を挟んだ。


「何も、大人しくしていてくれと懇願しているわけではない。オルディス公爵と決着をつけたいのであれば、公爵がセイランに戻るまではこちらへの敵愾心は表さないほうがいいと警告しているに過ぎない。公爵が貴公の相手ができるようになるまで待てぬと言うのなら好きにするがいい。公爵に辿り着く前に、私が貴公の相手をするまでだ」


部屋に沈黙が落ちる。

ドレイク卿はクロフト侯爵への敵意を隠さず、侯爵もまた動じることなくその敵意を受ける。溜息をつき、先に口を開いたのはクロフト侯爵のほうだった。


「……私は、チャールズ様を私の王として戴きたかった。だがそれは、リチャード様が望まれたことだったのか……」

「リチャード様は、たぶん、チャールズ王子を王にすることは望んでおりませんでした。私の贔屓目抜きに判断しても、チャールズ王子は王には不向きでしたわ」

「それには私も同意です。王になるには、あまりにも人間らし過ぎる御方だった」


チャールズ王子は幼稚で、傲慢で。そして、とても人間らしい心を持っていた。

自分の行いを正当化するつもりはないが、マリアが王位への道を潰したこと――それがチャールズ王子にとって本当に不幸なことだったかどうかは別だと思う。


「……私は、リチャード様が望まれたことの結末を知りたい。そのためにはやはり、あなたと決着を付けるしかないのでしょう。いまさら、焦る必要もない」


それは、つまり――。

マリアはクロフト侯爵を見つめた。


「いいでしょう。あなたがセイランに行き、帰って来るまでの間、オーシャン国から来たお客様は私がもてなしておきましょう。あなたは私の敵だが、だからと言って外国人がエンジェリクでのさばるのは不愉快だ。愛国心ぐらいは私にもある」




クロフト侯爵と話すことができたのは大きな収穫だが、やはり不愉快な感情は拭いされない。出てきた建物を振り返り、マリアは大きな溜息を吐く。


「セイランから戻ったら、この悪趣味な店も消し去ってやりますわ。レミントンの遺産であることに代わりはありませんもの」

「言わずもがな――しかし、ここを潰したところで、そういった人間がいなくなるわけではない。もっと陰湿で狡猾に。我々の目の届かぬところに場所を変えて続くだけ……」


マリアと共に帰りの馬車に乗り込みながら、ドレイク卿が言った。


「不毛ないたちごっこであるのは分かっております。けれど知った以上は放置できません」


マリアの言葉に、ドレイク卿がわずかに口角を上げる。


「マリア、私は必ず宰相になる。そして、気に入らぬ人間はその力を持ってすべて葬り去ってやる」


そう話すドレイク卿は、マリアをじっと見つめていた。


「……私の子は、恐ろしいほどの業を背負って生まれてくることになる。貴女はそれでも――」

「ジェラルド様」


隣に座るドレイク卿の手に自分の手を重ね、マリアは彼の言葉を遮った。


「そんなこと、いまさらです」


初めて会った時からずっと、マリアは彼の共犯だった。そしてこれからもずっと。

恐らく、ナサニエル・クロフトとの対決はまっとうなものではないだろう。血生臭く陰湿で、互いの力を強行して潰し合う――きっとマリアが犯す罪は、また増えていく。


地獄の門番も、いい加減にしろと説教したいことだろう。

マリアは苦笑した。


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