旅立ちの時 (3)
取り寄せたドレスを、娘スカーレットに着せる――美しい淑女に育ったと感じていたけれど、改めて着飾らせると、そのことをよりいっそう実感する。
……きっと、メレディスもこの姿を一目見たかったことだろう。
「メレディスが生きていたら……ベナトリア行きを大反対しただろうな。いや、自分もベナトリアへ行くと言ってさっさと荷物をまとめていただろうか?」
アルフレッド・マクファーレン――メレディスの兄は、姪の姿を見て呟く。マクファーレン伯は弟を可愛がっていた。姪がベナトリアへ行くことを、内心では反対している――他に選択肢がないことは分かっているけれど。
「とても綺麗よ、スカーレット」
「若い頃のお母様に、少しぐらいは勝てるかしら?」
悪戯っぽく笑う娘を、マリアは抱きしめた。若い頃の自分より、いまのスカーレットのほうがよっぽど……。
「エンジェリクとベナトリアは友好国同士なんだから、ベナトリア王はスカーレットにひどいことしたりしないよね?」
「当たり前だ。いくらなんでも……そこまで愚かな真似は」
マクファーレン伯の二人の息子たちは、互いに励ますように言い合う。いとこのスカーレットのことを心配してくれているのだ。
「私なら大丈夫。あのお父様とお母様の娘なのよ?」
「説得力があるな」
マクファーレン伯が苦笑いする。
「私からすれば、エンジェリクに残していく妹たちのほうが心配だわ――メルヴィン、リリアンとオルディス領をお願いね」
「もちろん。しっかり守っていくよ。リリアンも、オルディスも……お腹の子も」
アルフレッド・マクファーレン伯の下の息子メルヴィンはリリアンの夫。オルディス家に婿入りして妻とオルディス領を支えており、普段はオルディスで暮らしている。
今日はスカーレットとの別れを惜しんで王都に戻ってきていて、兄ジョージと一緒に会いに来たのだ。
「アンジェリカ様。妹と、ジョージのこと、よろしくお願いします。ジョージは真面目過ぎるところがあるから、アンジェリカ様がそばで支えて、時々は尻を引っぱたいてやってください」
ジョージの妻アンジェリカが、くすくす笑いながら頷く。
部屋に、マクファーレン伯の妻ジーナがやって来て客の訪問を告げる。マクファーレン伯が対応しようとしたが、ジーナは、客の目的がスカーレットであることを説明した。
自分たちじゃなくてスカーレットに――部屋の人たちが困惑していると、華やかな女性が部屋に入ってきた。
「お母様!?」
訪ねてきた客を知って、アンジェリカが仰天する。アンジェリカの母ダーリーン。オフェリアの、王子妃時代からの友人だ。
親子ほど年の離れた男の妻となり、未亡人となって長い。若い頃から華やかで美しい女性だったが、年老いてもその輝きに陰りはなかった。
「ご家族水入らずのところをお邪魔しちゃってごめんなさい。アンジェリカから、今日はスカーレットさんがこちらを訪ねると聞いていたから――あら、オルディス公爵もいらっしゃったんですね。ちょうど良かったわ」
にこにこと、可愛らしい笑顔でダーリーンが言った。
「スカーレットさんとオルディス公爵にお願いがあって。ここへ押しかけちゃってごめんなさい。お城に行くのは苦手で……オフェリア様がいなくなってしまって、公爵様に私がなれなれしくしてもいいのか、悩んでしまったんです」
オフェリアの友人ではあったが、マリアとの交流はさほどだ。マリアとしては気楽に話しかけてもらって構わないと思っているのだが、社交界が苦手で夫任せにしていたダーリーンでは、どうしても気後れしまうのだろう。
だから、娘のアンジェリカが仲介してくれる場を選んだ。娘のアンジェリカは、聡明だった父親の素質をしっかり受け継いだ立派な淑女だ。
「スカーレットさん。ベナトリアへは、私を侍女として連れて行ってもらえないかしら」
誰もが驚いたが、ダーリーンはスカーレットを真っすぐ見つめている。彼女は本気だ。アンジェリカも驚いているところを見ると、家族にも相談していなかったらしい。
「ダーリーン様。娘と一緒にベナトリアへ行くということは、あなたももうエンジェリクに……」
「分かってます。スカーレットさんはもう、エンジェリクに帰ってくることはない――その侍女として付き添うのなら、私も帰ってこれない。でも……私は、もう心残りもほとんどない身ですし」
ダーリーンは穏やかに微笑む。
「夫にも先立たれ、実家とは疎遠。子どもたちはみな巣立ち、ハモンド家はとっくに長男が継いでいます。うるさい姑がいないほうが、あの子たちものびのびやっていけるでしょう――ベナトリア王がエステル様を要求していると聞いた時から考えていたんです。夫もオフェリア様もいなくなったのに、私みたいな能無しがいまも生き延びて……その理由が、これだったのかなって」
「ダーリーン様……ありがとうございます。あなたが娘に一緒に行ってくれるなら、とても心強いです」
スカーレットを支える侍女役としては、ダーリーンはいささか頼りにならない人ではある。
もともと、貴族社会の中で器用に生きていけるタイプの女性ではない。でも、スカーレットを絶対に裏切ることのない味方にはなれる。そんな人がそばにいてくれれば、それだけでも心強い。
いまのベナトリア王がマリアの記憶にある人かどうかは定かではないが、裏表のないダーリーンなら、変に警戒されることもないし……。
「私からもお礼を。姪を、よろしくお願いします」
アルフレッド・マクファーレン伯も、深々と頭を下げる。
スカーレットがエンジェリクを去る日は、確実に近づいてきていた。
その日はよく晴れていて、海は穏やかだった。季節は秋が近づき、心地良い風が吹き抜ける。
風になびく娘の髪を、マリアは優しく整えた。マリアよりも少し暗めのブルネット……髪質は、母親よりも父親に似たのかもしれない。
この子が生まれた日が、昨日のことのよう。マリアの腕の中にすっぽり収まっていた小さな女の子は、もう両手で抱きしめても腕の中に収まらないほど成長してしまった。
「行ってきます、お母様。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないけれど……でも私はお父様とお母様の子だから。どこにいても、私らしく生きていくわ」
「ええ……そうね。私とメレディスの娘だものね。どこにいたって……何があったって、自分らしい生き方しかできないわ」
マリアの腕の中で、スカーレットが笑い声をあげた。明るい声の中に涙を隠していること――マリアは、気付かないふりで娘を抱きしめる。
「お元気で。お転婆はほどほどにね」
「その台詞、逆じゃないの?」
娘にまでたしなめられて、マリアは不貞腐れたように答えた。もう一度だけスカーレットを抱きしめ……手を離した。
「そんなら、こいつを送って来る――ベナトリア人がろくでもなさそうな連中だったら、すぐにスカーレット連れて戻って来たるわ!」
スカーレットと共に船に乗り込む直前、ローレンスは豪快に笑って言った。
ベナトリアとエンジェリクの友好のための船だ。エンジェリク海軍提督がスカーレットを護送するのは当然だった。
他の兄弟たちも船が見えなくなるまでスカーレットを見送り、やがて海の向こうへ消えてしまっても、一点を見つめたまま、しばらく誰も動かなかった。
果たしてスカーレットがベナトリアでどのような待遇を受けることになったのかは分からなかった。娘の身を常に案じてはいたが、日々は慌ただしく過ぎていく。
夏の終わりにはチャールズが率いるエンジェリク軍もキシリアへ向けて出港し、スカーレットを見送った港でリチャードやセシリオを見送って。
それが終われば、マリアも自身の旅立ちの準備に取り掛かっていた。
「いや!そんなの……絶対許さないわ!絶対にいや!」
ある日、娘セレンが怒り狂う声を聞き付け、マリアは驚いてそちらへ向かった。声のでどころは娘の部屋――ノックしてみるが返事はなく、中の様子がどうしても気になったので、無作法ではあるがマリアは部屋に入った。
部屋にいたのは、セレンとララ……。
「お母様!お母様も反対して!ララがチャコに帰るって言うの!そんなの絶対ダメよ――そうよね?」
どうやら、ララは帝国へ帰ることをセレンに打ち明けたらしい。
マリアがキシリアへ帰ることは、スカーレットがベナトリアへ行く直前に伝えた。
子どもたちも大半が自分の道を歩み始めており、自分がエンジェリクで為すべき役割も終わった――だから、故郷へ帰ろうと思っている。
みんな寂しがったし、ちょっと反対する子もいたけれど、話し合って、最後には納得してくれた。
その時に、ララの今後については話さなかった。こちらはマリアの比ではないほど反対されるだろうし、マリアもまた、説得する可能性を完全に捨てたわけではなかったから――ほとんど無理なことは分かっていたけれど。
「ごめんな、セレン。アレクを、どうしても故郷へ連れて帰ってやりたいんだ」
母にしがみつき、泣いて訴えるセレンを、ララは穏やかな口調で説得する。セレンはぎゅっと唇を噛み、いやいやと首を振った。
「謝っても許さない!だって……だって、チャコに帰ったら、ララは殺されちゃうんでしょう!?それなのに……」
「ごめん。でも、もう決めたんだ――セレンに許してもらえなくても、俺はチャコに帰るつもりだ」
「いや!ララのバカ!大っ嫌いよ!」
堪え切れなくなり、セレンは自分をなだめようと手を伸ばすララを乱暴に振り払って泣き叫ぶ。マリアは自分にしがみつくセレンを抱きしめ、ララを見た。
ララも苦しそうな表情でセレンを見つめていたが……その表情は、セレンの反対でも彼の考えを変えられないことを伝えていた。
別れがつらくても、時間は過ぎ、やがてその時がやって来る。
夏が終わって秋が来て――マリアも、エンジェリクに別れを告げる時が来た。
十四歳でエンジェリクにやって来たキシリアの魔女。
彼女がキシリアへ帰ったのは三十九歳の時。実に、二十五年ぶりの帰国である。
キシリアを共に出た妹の姿はなく。
侍女のナタリア、従者のノアとララ、そして息子クリスティアンを連れて、マリアはキシリアへ帰ってきた。




