旅立ちの時 (1)
いまから二十五年ほど前。マリアは父と別れ、妹と共に故郷から逃げ出した。
その後何度か帰って来る機会もあったが、妹がエンジェリク王家に嫁いだことで、マリアもキシリアへ帰ることはなくなった。
その故郷に、ついに帰ってきた。
「帰って来たわ……キシリアに」
船を降り、キシリアの地に立って……マリアは、思わずそう呟く。
帰ってきたのだ、故郷へ。
記憶にあるキシリアは、はるか遠い日の頃のものなのに、何も変わっていないように思えてならなくて。この港も、マリアの思い出にある姿と変わっていない。
「ああ。懐かしいな。キシリア特有のこの暑さも、風の匂いも」
ララも、キシリアの青い空を見上げながら頷く。
ララは、マリアがキシリアで暮らしていた頃の婚約者。彼も、幼い頃、何度もキシリアに遊びに来た。彼にとっても、ここは懐かしい場所だ。
「母上、宿が取れました。見て回りたい場所はたくさんあるでしょうが、今日はひとまずそこへ。セシリオたちを待ちましょう」
「そうね。早く懐かしい思い出を辿って行きたいけれど、まずはあの子たちに会うのが先だわ……エンジェリク軍は勝っているそうだから、大丈夫よね?」
セシリオ、ローレンス、リチャードは、女王派キシリア軍に加勢するため、先にキシリアへ来ている。キシリアで、三人の息子たちと再会する予定となっていた。
……他の子どもたちは、エンジェリクで別れを告げてきた。
クリスティアンが用意してくれた宿に腰を押し付け、マリアは窓を開けて外を眺めていた。
燃えるように真っ赤な夕陽が、オレンジ色の海へと沈んでいく。エンジェリクでも見れた光景ではあるが、自分はいま、キシリアから見ている――この太陽を、エンジェリクにいる子どもたちも見ているのだろうか。
「母上、セシリオが来ましたよ」
部屋に、弟を連れたクリスティアンが入ってくる。息子の無事な姿を見てマリアもホッと笑い、ローレンスとリチャードは、と尋ねた。
「ローレンスは船で移動していますので、俺より少し遅れてここへ到着するはずです。リチャードはレミントン公爵と一緒に。でも、レミントン公の隊も絶好調ですし、最後に会った時、リチャードも元気そうにしてましたよ」
セシリオが言った。
「戦況は我が軍に有利です。フランシーヌの情勢が悪くなったことでキシリア軍も動揺し、フェルナンド派から離反者が続出しています。フェルナンドを旗印に掲げて自己の目的のために正統な王を排除したような連中でしたから、当然なんですが」
フェルナンド・デ・ベラルダ――シルビオの息子。
シルビオの父親はロランド王の伯父。母親が王の愛妾であったため玉座に就くことはできず、王妃を母に持つ異母弟に奪われたことをずっと恨んでいた。
兄弟同士で争い、異母弟の死をきっかけにキシリアに戻ってきて、甥のロランドに敗北した。最後は、シルビオの手で処刑され……。
彼の死で長きに渡る因縁も終わったと思ったのに、孫のフェルナンドが再びキシリアを戦場に変えた。
とは言え、当時の彼は十三歳になったばかりの少年。彼一人で王位簒奪を企てられるわけがない。
幼いフェルナンドを傀儡の王にしたかった大人たちの思惑に乗せられ、利用された――どこまでが彼の意思なのかは分からない。マリアの中のフェルナンドは、小さくて……大人の都合に振り回され、与えられない愛情を求めることすらせず……。
「……そう言えば、ロランド様の死の真相って、結局何だったの?」
フェルナンドのことを想っていたマリアは、ふと、偉大な王の最期が分からないことだらけだった事実を思い出した。
最近になって、戦死ではなく病死だったと知らされた。
侵入してきたフランシーヌ人の流れ者集団を討伐するために小規模の軍隊を引き連れてキシリア北部へ向かい、それから、唐突に王の死が伝えられた。
当初は戦死と言われていたが、やがてそれがシルビオの仕組んだことだという話になり――大した戦闘にはならないだろうから、シルビオは王から離れ、王都に残ってオレゴンとの戦に向けての準備を進めていたのだ――シルビオが逮捕され、それをかばった王女たちと逃亡する羽目に。
情報が錯綜し、混乱する最中にフェルナンドがキシリア新王を宣言し、逃亡者たちは生き残るために新王軍と戦った。
混乱続きでロランド王の死の真実はうやむやになっていき、マリアですら、ロランド王を悼むこともできないままに今日まで過ごしてきた。彼の最期……いったい何が真実なのか、考える余裕もなかった。
「やはり病死だったそうです。ならず者たちを討伐に向かう途中、聖マヌエル修道院というところで一晩宿泊し、その夜更け、にわかに発熱。治療する間もなく命を落としたと」
セシリオが説明する。
「あの地域ではたびたび黒死病患者が現れるので、ロランド様たちも恐らく……。修道士たちの話によると、感染を恐れて遺体は焼き、石灰を撒いた土に埋葬されております」
「黒死病……それなら、ロランド様だけでなく共についていった軍隊まで全滅するのも納得だけど」
黒死病。子どもの頃に大流行し、マリアもその恐ろしさは思い知っている。いまもなお、黒い悪魔はたびたび地上に現れ、人々の命を奪っている――ロランド王の父王も、戦争の最中に黒死病にかかって命を落とした。息子も同じ道を辿ることになるとは……。
「なら、最初に向かうのは聖マヌエル修道院ね。ロランド様の遺体は、まだそこにあるんでしょう?」
「はい。内戦に……新王の下、諸侯たちが己の欲望を剥き出しにして好き放題に利権を奪い合っておりますので……誰も、ロランド様を弔おうともしない……」
「……そう。せめて、アルフォンソ様たちと同じ場所へお連れしてあげないと」
最愛の妃アルフォンソ。彼女との間に生まれた子どもたち……イサーク王子、ブランカ王女。いまは家族ばらばらに眠っている。仲の良い家族だったのに。
部屋の外がにぎやかになり、マリアはくすりと笑った。
あの子の到着は、知らされなくても分かる。
「ローレンス、あなたも元気そうで良かったわ」
ドカドカと派手な足音でマリアのいる部屋にやって来るのは、三男のローレンス。兄弟の中で一番背が高く、大柄な彼に、この宿は少し狭そうだ。
「母さん、ホンマにキシリアに来たんやな!ええとこやろ、キシリアは!」
明るい笑顔でキシリアの良さを語るローレンスに、マリアもくすくすと笑って頷いた。
ローレンスが喋るキシリア語は、すっかり父親譲りの訛りがついてしまった。
「色々話したいこともあるけど、まずはこれや――スカーレットから手紙やで!」
「スカーレットから」
娘の名前に、マリアは座っていた長椅子から立ち上がって、ローレンスが差し出す手紙をすぐに受け取りに行った。
手紙には、見慣れた娘の字が。
「スカーレット……元気にしていますか?ベナトリアでの暮らしは……。テッドからは、特に知らせはありませんが……」
手紙を急いで開封するマリアを、クリスティアンも心配そうに見つめる。セシリオ、ローレンスも、手紙の内容を聞こうと母親に注目していた。
マリアの娘スカーレットはいま、ベナトリアにいる。
その理由は……いまから一ヶ月ほど前。マリアがまだエンジェリクを出発する前のことであった……。
「エドガー陛下、ご即位おめでとうございます。お父君のことは大変残念でありましたが……我らがベナトリア王は、新しい王のもとエンジェリクがますます栄えることを期待しております。良き伴侶も迎えられたそうで――実に美しく、聡明な姫君にあらせられる」
ベナトリアからの使者はエドガー王と謁見し、礼儀正しく挨拶と祝いを述べた。だが頭を上げた彼の視線が真っ直ぐにエドガー王に向けられると……エドガー王は思わず委縮する。
懸命に虚勢を張ってはいるが、騎士らしい体格の良い男が険悪な空気をまとって睨んできたら、エドガー王が怯えてしまうのも無理はない。
エドガー王と並んで座るアイリーンが、肘掛けに置かれた王の手にそっと触れ、王を優しく見つめる。エドガー王もアイリーンの手をぎゅっと握り返し、改めて使者と向き合う。
「……それに、オルディス公爵も。ご結婚おめでとうございます。再三に渡る我が王の求婚を足蹴にしてまでも選ばれた相手は、幸せ者でございますな」
思わぬ話題に、王の臣下の一人として使者の謁見に立ち会わせていたマリアは、内心の気まずい思いは隠し、反応せぬよう努めた。
まさか、ベナトリア人の使者に対して、ベナトリア王をふったことについて笑顔で対応するわけにもいかないし。
「我が王も、長年のオルディス公爵への想いを断ち切り、去年、ついに王妃様をお迎えになられました――それほどまでに公爵を慕い続けた王を一顧だにせぬ冷たさは、さすがは魔女の異名を持つ御方だ」
お世辞ではなく嫌味……それも、当てこすりなんてものではなく、割とはっきりマリアのことを非難している。よくもうちのとこの王をむげに扱ってくれたな、と。
ヒューバート王であれば抗議しただろうが、幼いエドガー王には、年齢も実力もキャリアも上のベナトリア王相手に強気には出れない。だからこそ、使者もこのような態度を取っているのだろうが。
「オルディス公爵が我が国に来られなくなったのは非常に残念です。ベナトリアの王妃様はお身体が弱く、何人もの子に恵まれた公爵ならば、王妃様をお支えして頂けると期待していたのですが」
……ものすごく無礼な話だ。不快感を顔に出すわけにもいかないが、この場に居合わせた誰もがそう感じたことだろう。
要するに、病弱なベナトリア王妃では子を生むことが難しいから、代わりにマリアに生んでもらうつもりだった、と。
一介の使者がずけずけと口にしていい話題ではない。
「エステル内親王殿下。お若く美しい貴女がベナトリアにいらしてくだされば、王妃様はさぞお喜びになることでしょう。王も、貴女を歓迎する――ベナトリアは、新たなエンジェリクとも友情を築き、共に繁栄していくことを望んでおります」
エドガー王は、青ざめていた。
姉を差し出せと……脅されている。友好的な態度を装っているが、言葉の端々に、断るはずがないだろう、というベナトリア側の高圧的な考えは伝わってきた。向こうも、それを隠すつもりはない。
「とても有難いお言葉です。若輩者の私でそのような大それた役割が果たせるか、いささか不安はございますが」
言葉を失うエドガー王に代わり、エステル内親王はにっこりと微笑んで答える。王はすがるように姉を見たが、内親王は応えなかった。
彼女も理解しているのだ。自分が為すべき役割を。
父ヒューバートが王であった頃ならば、自分たちは偉大な父に守られ、安穏と暮らしていられた。その父を喪ったいま、不安定な立場にある新王を、姉の自分が支えなくてはならない――ベナトリア王との関係を、悪化させてはならない。
……無邪気な少女時代に、別れを告げる時が来たのだと。




