王女の選択
夕陽に照らされ、海がオレンジ色に染まる頃。長い航海を終えた船はエンジェリクの港へと到着した。
イヴァンカから帰ったクリスティアンを、イサベル王女が出迎える。
いつもはクリスティアンに飛びつく王女が、今日はやけに大人しい。笑顔で出迎えてはいるが――クリスティアンは何も気づかなかったふりで、自分を待っていてくれた王女に笑いかけ、頭を下げた。
「お帰りなさい、クリスティアン。無事に帰って来てくれてよかった」
「恐れ入ります。イサベル様のお顔を見れて、私もホッとしているところ……カルロス王子も、エンジェリクにもう戻って来ていたんですね」
イサベル王女と一緒に自分を出迎えてくれたのは、妹のダフネ王女、それからオレゴンの王子カルロスだった。
カルロス王子はいったんオレゴンに帰国していたのだが、またエンジェリクに戻って来ていたらしい。よ、ときさくな態度でクリスティアンに挨拶する。
「先のフランシーヌとの戦が片付いたことで、オレゴンも落ち着いてな。それで……ちょっとイサベルに相談を」
王子の祖国オレゴンと、イサベル王女の祖国キシリアは隣接しており、様々な因縁がある。それこそ、歴史の教科書に載っていそうなレベルの長さで。
戦が終わって、互いに国に帰ったらそれで終わり……という関係ではない。
「秋になれば、カルロス王子はキシリアへ行くんですよね。フェルナンド王と戦うため」
「まあな。でも、俺の場合は単なる実績作りだから――フェルナンド王を非難して、イサベル女王を擁護したっていう建前を得るための。俺個人としてはイサベルに王になって欲しいからできる限り協力したいけど……オレゴンでも、キシリア内戦に参加することを全員が賛同してるわけじゃないから」
王子の言葉を、イサベル王女は神妙な面持ちで黙って聞いていた。
キシリアでの戦争が終われば……いよいよ、イサベル王女は正式に女王となる。戦が終わればそれで終わりというわけではない。
彼女の戦いは、そこから始まるのだ。
その日の夜は、町の宿に泊まることになった。
クリスティアンと共にイヴァンカへ渡っていた商会の従業員は、早々にそれぞれの部屋へ帰って休んでいる。朝になったら町を出発し、王都へ帰る――愛しい人たちとの再会を、みな心待ちにしていることだろう。
ようやく帰ってきた故郷……安心感に包まれ、もうぐっすりと……。
普段は寝ずの番をしてまで自分のそばに控えようとする従者のフェリクスも、今夜ばかりはすでに休息を取っていた。王都に帰ったら休暇を申し出てくるだろう……母の墓に行かなければならないのだから。
「……どうぞ」
部屋の扉に向かって、クリスティアンは声をかけた。
ノックは聞こえなかったが、扉の外に気配を感じて。
誰が来たのか、確かめなくても分かった。彼女が何をしに来たのかも、なぜか分かるような気がした。
声をかけても入ってくる様子はないので、クリスティアンは座っていた椅子から立ち上がり、扉を開けて彼女を出迎える。扉が開くと、イサベル王女はそろそろと部屋の中に入ってきた。
いつもなら、ノックもろくにせず部屋に飛び込んでくるのに。顔をうつむけたまま、自分を招き入れるクリスティアンから少し距離を取って。
「イサベル様」
そっと彼女の手を取って名前を呼べば、弾かれたように王女がクリスティアンに抱きついて来る。自分の身体にすがりつく王女を抱きしめ返しながら、クリスティアンは密かに息を吐き出した。
――覚悟を決めるように。
「……カルロスに結婚を申し込まれたわ」
声を震わせ、王女が言った。
クリスティアンは返事をせず、しばらくの間、沈黙が二人を包む。
イサベル王女が、自分の腕の中で涙を流していることには気付いていた。それでも、クリスティアンは言わなかった――彼女が期待する言葉を。
「……止めて……くれないのね?」
嗚咽を押し殺そうとする王女をそっと押し、身体を離す。離れてしまうぬくもりが恋しくても、もうこれに手を伸ばすことは許されない。
越えられない壁が立ちふさがっている――ついにその時が来た。
決して結ばれることのない身分の差があることは最初から分かっていた。分からないふりをして無邪気に愛を囁き合うのも、もうこれで終わりだ。
改めて王女の手を取り、彼女の前に跪く。クリスティアンは、真っ直ぐイサベル王女を見上げた。
「私が生涯心を捧げる相手は、あなた様お一人だけ――お慕いしております、我が君」
クリスティアンを見下ろすイサベル王女の頬に、一筋の涙が伝う。瞳を伏せ、自分の手を取ったクリスティアンの手を、ぎゅっと握り締めた。
「ねえ、クリスティアン……。もし……もし、あなたのお父様が……」
「私の父の名はヴィクトール――孤児として生まれた、何も持たぬただの男」
王女の言葉を遮るように、クリスティアンが言った。
もし……もしクリスティアンの父親が、エンジェリク王グレゴリーであるのならば。
自分たちの関係に、未来があったかもしれない。でも、王女のためにそれを認めることはできないのだ――どうしようもないバカだけど、そんな男だとイサベル王女だって分かっているはず。
「……そう。そうね……そうなのよね。分かってたのに……そんな人だから好きになったのに……私ったらバカね」
王女は微笑み、頬にもう一筋涙が伝う。けれど、クリスティアンを見下ろす彼女の眼差しにも、もう迷いはなかった。
「ありがとう、クリスティアン。私は……あなたの忠誠に感謝するわ」
そう言って、イサベル王女は踵を返して部屋を出て行く。
自分の手の中から、するりと去って行ってしまう――引き止めようと、思わず力の入りそうになった手を引っ込め、クリスティアンは彼女が出て行った扉に背を向けた。
「――この色男め。人の女を泣かせるんじゃない」
開けっ放しになった扉から姿を現し、からかうようにカルロス王子が言った。
一瞬だけ目を閉じ、クリスティアンは笑って彼に振り返る。我ながら、下手くそな愛想笑いだ。
そんなクリスティアンを見て、カルロス王子も神妙な表情で睨んでくる。
「言っておくが……これで俺が勝ったと思うと思うなら、大間違いだからな!」
「……なんですか、それ」
訳の分からない宣言に、クリスティアンも苦笑いしてしまう。だが、王子はフンと胸を張って続けた。
「見てろよ――いつか彼女に、俺と結婚して幸せだったって言わせてみせるからな」
「期待しております」
クリスティアンがにっこり笑って言えば、カルロス王子は拗ねたように唇を尖らせる。
そんな王子を見ていたら、自然と笑顔になった。
……彼だから、譲ってもいいと思えたのだ。
イサベル王女とカルロス王子の結婚は、国のため――政治的に必要なもの。
一介の男でしかないクリスティアンでは、反対できるはずもない。イサベル自身、女王になるためには避けられないと理解していただろう。
それでも……もしかしたら、止めてくれるのではないかと期待した。何もかもを捨てて、自分のために女として生きろとクリスティアンが言ってくれるのではないかと……。
――互いに、相手がそれを望まないと分かりきってるのに。
「……イサベルに会うのは許すが、イサベルに会うなら、俺にもそれと同じぐらい会いに来いよ!いつかお前も、オレゴンにクラベル商会の本店を置きたいと言わせてやる!」
「えーっと……それは絶対無理だと思いますが、とりあえず口先だけ応援しておきます」
「絶対無理とか言うな!」
キシリアのイサベル、オレゴンのカルロス……そして、エンジェリクのクリスティアン。
三人の奇妙な縁は、これからも続く。




