侯爵 (2)
生まれた子は、男の子だった。
立て続けに女の子だったので今回も女の子かな、という予想は外れだ。
マリアそっくりの娘にパパと呼んでもらう――そんなウォルトン団長の希望は打ち砕かれてしまったが……マリアはクスクスと笑い、生まれたばかりの我が子の、小さな手を握る。
こうやって母親の腕に収まっていてくれる時期も、あっという間に終わるのだ。三人の兄たちはすっかり大きくなって、マリアでは、そろそろ抱っこもできなくなってきた……。
「男児か。ならば、ジェラルドの子は女でも構わなくなったな」
宰相の執務室が一番近かったこともあり、マリアの出産にはフォレスター宰相まで付き添うことになってしまった。出産騒動を聞きつけてやってきたドレイク卿が、なぜ父上が、と脱力しながら呟いていて……ちょっと珍しいものを見れたと思い出して、マリアはまたクスクス笑いをする。
「ついに私も孫を拝む日が近付いて来たのだな。ジェラルド、首尾よく成し遂げるのだぞ」
「……は」
たしかにドレイク卿にとっても課せられた義務ではあるのだが。
父から意味深な激励をされ、ドレイク卿は複雑そうだ。
ドタドタと部屋の外が騒がしくなり、誰もが思った――ようやく知らせが伝わって、ウォルトン団長がやって来た。
「マリア、無事か!子どもは元気か!?」
「静かにしろ」
眉間に皺を寄せて言い捨てるドレイク卿に、ウォルトン団長が怒りの形相を向ける。
「僕の子だぞ!おまえが先に抱いたりしてないだろうな!」
「やかましい」
何だかんだ言っても、この二人も良いコンビだ。
マリアは微笑み、ララに支えてもらいながら起き上がる。生まれたばかりの我が子を腕に抱いて、ウォルトン団長に差し出した。
「私も息子も、ご覧のとおり元気ですわ……レオン様、どうかこの子を抱いてやってくださいませ」
マリアの腕にいる我が子の顔を覗き込み、ウォルトン団長がパッと顔を輝かせる。恐るおそる息子を受け取ると、嬉しそうに笑った。
いつも陽気で明るく笑顔の絶えない団長だが、いまその笑顔は愛しさにあふれた優しいもので。ドレイク卿ですら、つられてわずかに表情をゆるめていた。
「息子かぁ……おお、見事なものがしっかりと。そうか……ならいずれは、騎士になってくれたら……。いいか、セシリオとローレンスはおまえの最初のライバルだからな。負けるんじゃないぞ」
「名前は、何にいたしましょう」
「名前か。しまった。すっかり娘だと思って、エリザベスと名付けるつもりで……ランドルフはダメだな。あんな女たらしになったら困る」
自分を棚に上げて、と言いたげな目つきをするドレイク卿は視界にも入れず、ウォルトン団長は考え込んでいた。
「よし。ならばパーシヴァルだ。僕の剣の師でもあり……彼も高潔な騎士だ。お前も、その名に恥じぬ男になるんだぞ」
「良い名だと思いますわ」
マリアは微笑み、そんなマリアをウォルトン団長はじっと見つめる。自分を見つめる団長に、なにか?とマリアは首を傾げた。
「君には、どれほど感謝しても、し足りないなと思って。この子を僕に授けてくれてありがとう。君がいなければ……」
マリアが生んだから――団長の子どもを生むと強く決意したから、得ることができた我が子。
――本当は。
ずっと、憎み合うことのない家族が欲しかった。自分に愛情を向けてくれる、血を分けた相手が……。
オルディス公爵家には、男の子が四人、女の子が二人……さらに、侍女が生んだ子どもに、エステル王女……屋敷を歩けば、三歩と進まず子どもと出くわすほどの大所帯っぷり。朝から晩まで大人が振り回されっぱなしで。
……でもそんな光景を見られるのも、マリアが次の出産を終えるまでだ。
「ご機嫌よう、ジェラルド様。お忙しいのに、わざわざお見舞いにうかがってくださるなんて」
ドレイク卿の訪問を、マリアは笑顔で出迎える。ベッドから起き上がろうとしたのを、他ならぬドレイク卿に止められた。
度重なる出産に大勢の子どもの相手でさすがのマリアも疲れが溜まり、一週間ほど休養に専念していた。今日も朝から寝衣のまま、ゆっくりと休んでいたところで。
父親に代わって宰相の代理を務め、警視総監としての職務もこなしているドレイク卿は、本当はとても忙しいはずだ。それでも、マリアを気遣って――もしかしたら、自分の番が来たことで、ドレイク卿も気になって落ち着かないのだろうか。
「ジェラルド様の御子を生むのは、もうしばらくお待ちくださいな」
「焦る必要はない。十分に回復し、貴女の準備が終わるのをゆっくり待とう。本音を言えば、二、三年先でも構わない。そうすれば、貴女をセイランへ行かせる話もなくなるかもしれないからな」
彫像のように完璧な美で整えられたドレイク卿の顔は、これまた彫像のように動くことがなく。職務中は非常に厳格で、冷酷な男。でも私的な面では、面倒見もよく親切で、寛大な人だ。
「ライオネルは、頻繁に我が子に会いに来ているそうだな」
「はい。それはもう……。可愛がってくださるのは私としても嬉しいのですが、貢いでいくのは勘弁してほしいですわ。ホールデン伯爵が対抗心を燃やして、貢ぎ癖が酷くなってしまいましたの」
「画家のメレディスにも頻繁に依頼しているらしい。絵描きの仕事は構わないが、やたらと高額な報酬を寄越すので困ると、私に相談の手紙が届いた」
まだ画家として無名だった頃、メレディスはジェラルド・ドレイク卿からの支援を受けて画家活動を行っていた。いまやエンジェリクでその名を知らぬ者はいないほど有名な画家となったが、無名時代からの支援者であるドレイク卿へ恩義を、メレディスは忘れていなかった。
「パーシーの絵が欲しいと、しょっちゅう依頼を出しているそうです。ほんのささいな成長も、絵に描き留めておきたいと……。フォレスター宰相に倣い、自分も携帯サイズの肖像画を描かせて、肌身離さず身に着けるようにしていると自慢していらっしゃいましたわ」
「先日私の執務室に押し掛けて、件の絵を見せつけた挙句聞いてもいない親馬鹿自慢を延々と喋り続けていた」
きっとドレイク卿のことだから、丸っと無視して仕事を続けていたのだろう。ウォルトン団長の方も、ドレイク卿のつれない態度など丸っと無視してお喋りを続けて……そんな彼らのやり取りをハラハラとした思いで見ることになった周囲の人間の方が、大変だったに違いない。
「ライオネルの浮かれっぷりを見ると、やはり苦々しい思いが込み上げてくる。悔しさと、妬ましさ……実に癪に障る」
マリアは声を上げて笑う。ドレイク卿もわずかに表情を緩め、マリアの頬に手を伸ばした。
「……しかし、子を持つことに不安もある。果たして、私のような男が人の親としてやっていけるのか」
「あら。私、ジェラルド様は良いお父様になる姿しか想像できませんわ」
お世辞でも過大評価でもなく、マリアは本心からそう思っていた。愛情豊かな両親のもとに生まれ育ったドレイク卿は……性癖についてはちょっとあれだが……とっつきにくそうな印象に対し、情にも義理にも厚い人なのだから。
「私には、弟か妹がいるはずだった」
マリアの頬を撫でながら、ドレイク卿が言った。
「その子は、この世に生を受ける前に母の腹の中で――母は、それで子を生めぬ身体になった。そのようなそぶりを見せぬようにしているが、父は、それが母の寿命を縮めたひとつの原因ではないかと気に病んでいるところがある」
「アイリーン様が聞いたら、ぶっ飛ばされそうな悩みですね」
「そう思う。実際、母の死の間際、父はそのことをつい口にして、謝罪して……平手打ちを食らっていた。残念な結果にはなったが、あの子を得たことを後悔しているようなことは言うなと――母は、父と愛し合った日々に後悔は一切ないと……」
ドレイク卿は言葉を切った。そのまましばらく沈黙し……。頬に添えられた手に自分の手を重ね、マリアは急かすことなく静かにドレイク卿の言葉を待った。
やはり、気楽に話せることではない。大切な思い出――別れて長く時間が経とうと、情が深ければ深いほどに想いは残り、消えてなくなることはないのだから。
「……オフェリア王妃が、たかが男児後継者のために子を生む義務を課せられること。私は了承しかねる。王妃に万一の事があれば……恐らく、陛下は生きていけないだろう」
それは、マリアも同意だ。
ヒューバート王は、オフェリアのために王になった。オフェリアがいなくなったら、王であることも……生きていることすら、意味を失ってしまう。
ヒューバート王は、先王の血を引いていること以外、何も持たぬ男だった。
母親は滅んでしまった王家の王女で、彼の後ろ盾となって支えるものは何もない。そんな状況で育ち、弟王子とその一族が台頭し、ヒューバート王子はひたすら無害な人間を装って生きるしかなかった――まるで幽霊のように、城の片隅でひっそりと。誰からも存在を忘れられて。
何よりヒューバート王子本人が、それで構わないと思って生きていた。オフェリアと出会うまで。
オフェリアと出会い、恋に落ちて、ヒューバート王子は人間として生きたくなった。だから、弟王子をはねのけ、自ら王になった。王家の血を引くヒューバート王子は市井の男になることもできず、オフェリアと結ばれるため――オフェリアを守るためには、強い力を持った王になるしかなかったのだ。
――だから。
オフェリアは、彼のすべてでもある。
「陛下だけでなく……公爵、あなたも。貴女がエンジェリクに尽くしてくれるのは、オフェリア王妃のためだ。王妃がいなくなったら、貴女をエンジェリクに引き留めるものがなくなってしまう。国にとっても、私にとっても大きな喪失だ」
マリアは困ったように微笑むことしかできなかった。
オフェリアを失った時――考えたくもないことだが――果たして自分は、それでもエンジェリクに残って、エンジェリク公爵としての責務をまっとうするだろうか。故郷キシリアへ帰ってしまうのか……生きているのか……。
それは、マリアにも分からない。その時が来るまで、永久に。
「それに……個人的な意見を述べることが許されるのであれば、王妃は大切なオペラ仲間。いなくなるのはとても寂しい」
マリアは、今度は笑顔を引きつらせた。
もしかして、ドレイク卿なりのジョークだったのだろうか。反応に困って、ぎこちなく笑うことしかできない。
「生憎と、私の趣味に付き合ってくれる人間はオルディス公爵かオフェリア王妃しかいないのだ……誘っても断られる」
お父様は――と言いかけて、マリアは言葉を呑み込んだ。何も気づかなかったふりで微笑み、ドレイク卿に寄り添う。
幸せだった頃の思い出が詰まっていて辛いという理由で、妻と暮らしていた屋敷を出ている人なのだ。それでどうして、かつては彼女が立っていた舞台を、観に行くことができるだろう。




