月影を見つめる (3)
リリアンの着替えが終わった頃、屋敷に馬車が到着した。ようやく帰ってきた人に、セレンとヴィクトリアが大喜びでマリアたちに知らせに来た。
「お母様!お姉様!クリスティアンお兄様が帰って来たわ!アイリーンお姉様も一緒よ!」
嬉しそうに跳ね回る二人をなだめ、マリアも急いで長男たちを出迎える。クリスティアンは、すでに弟たちに囲まれていた。
「母上、ただいま戻りました」
母に向かって挨拶するクリスティアンの前に立ち塞がり、アイリーンはどこか腹を立てた様子で口を開く。
「お母様、聞いてください。お兄様ったら、すっかりイサベル様に夢中になって、オルディスになかなか帰ろうとしないんだから。無理やり馬車に乗せてやりました」
「いや……イサベル様やおじ上に挨拶していたのはそうなんだが……どちらかというと、カルロス王子が放してくれなくて」
母に言いつける妹に対し、クリスティアンは言い訳がましく言った。マリアはくすくす笑い、久しぶりに会うクリスティアンを抱きしめる。
「お帰りなさい。帰って来てくれないんじゃないかって、心配してたのよ。イヴァンカは遠いし……陛下たちより、あなたのほうがずっと心配だったわ」
クリスティアンはクラベル商会の一部の人間を連れ、北の大国イヴァンカへ行っていた。
海一つ隔てた国ではあるが、国土の広さと険しさはキシリアの比ではない。キシリア、フランシーヌ、ベナトリア――南方にある国がそれぞれ戦で揉めている間に、イヴァンカが南下政策を押し進めないよう妨害に赴いていたそうだが……。
「イヴァンカ遠征の結果報告はあとにしましょう。いまは、リリアンを祝ってあげるほうが優先です」
クリスティアンとアイリーンが到着し、ようやく兄弟が全員揃って、式が挙げられた。
参加するのは、母マリアとリリアンの兄妹たちだけ――後日、マクファーレン家で結婚祝いのパーティーを行い、メルヴィンも両親や兄に祝ってもらうことになっている。
メルヴィンはオルディス家に婿入りしてしまうので、マクファーレンの家族だけで過ごす最後の時間として。
……という名目になっているが、本当は。
父親のアルフレッド・マクファーレン伯爵が、この屋敷を訪ねることができないからだろう。
マクファーレン伯の弟メレディスは、この屋敷で最期を迎えた。いまもまだ、彼はその思い出と向き合えないでいるのだ……。
「おめでとうございます、リリアンお姉様。今日のお姉様はとても美しくて……。幸せそうなお姉様を見てると、私も羨ましくなっちゃう」
「ありがとう。いまをときめくプリマドンナにそう言われるなんて、光栄だわ」
妹アイリーンの褒め言葉にリリアンは照れていた。
今日のリリアンは姉妹の中でも一番美しいというのは、事実だろう。父親の美貌を受け継いだアイリーンはオルディス姉妹の中でも特に華やかな容姿だが、やはり幸せな花嫁には敵わない。
「我が家に婿入りするのも、なかなか気合のいることよね。メルヴィンなら大丈夫だとは思うけど」
スカーレットは、自分のいとこに視線をやる。メルヴィンはリリアンの兄弟たちに祝福され、冷やかされていた。
男同士で楽しそうにしているのを、マリアが混ざるわけにもいかない。
女のマリアは、娘たちのにぎやかなお喋りを聞いていた。
「でも、アイリーンお姉様もすごいの。歌手になって、あっという間にプリマドンナだなんて!」
四女のセレンが、目を輝かせて姉を見つめる。末娘のヴィクトリアはマリアの膝に座り、姉たちの会話をニコニコしながら聞いていた。お喋りの内容が、ヴィクトリアにはまだちょっとよく分からないのかも。
「おばあ様譲りの実力よ……と言いたいところだけれど。やっぱり、両親の影響はあるでしょうね」
アイリーンは、あっけらかんとした様子で話す。
十三歳でドレイク家を出て歌手への道を歩み始めたアイリーンは、十五歳になり、プリマドンナ――主役を務めるまでにすでに登り詰めていた。
彼女の祖母も才能あふれる歌手だったそうだし、アイリーンにもその才能は受け継がれているとは感じていた。半分ぐらいは親馬鹿な欲目だけど。
ただ……アイリーン本人も話す通り、ドレイク侯爵家、フォレスター侯爵家、さらにオルディス公爵家の人脈を持つ少女だ。最初から強力なパトロンがついた歌手なのだから、劇団側から推されるのも当然で――本人は利用しているつもりはないけれど、完全に無縁でいることはできない。
「両親のおかげで、人よりずっとチャンスに恵まれていたのは本当だわ。こればっかりは……やっかみを受ける羽目になっても、否定できないわね」
「与えられたチャンスを確実にものにできたのは、あなたの実力と才能が本物だったからよ」
スカーレットがフォローする。もちろん、とアイリーンも同意した。
「卑屈になるつもりはありません。私はプリマドンナになりたかった――夢を叶えるため、努力を惜しまなかっただけ。恵まれた境遇も、最大限に利用するわ。歌えればそれでいいと言えるほど、私は志の高い人間ではないもの」
女が寄れば、お喋りは盛り上がり、どこまでも続いていく。
もっと姉たちのお喋りに参加したいとごねるセレンとヴィクトリアを寝かしつけると、クリスティアンがマリアを呼び止めた。
クリスティアンについていくと、部屋には息子たちが。
「メルヴィンはもうリリアンと一緒に部屋に戻りました。とっくに夫婦になっていたとはいえ、やっぱり式を挙げると特別な気持ちになるみたいです」
クリスティアンが笑いながら説明する。
マリアも笑い、改めて、北の大国イヴァンカの様子を訪ねた。
「イヴァンカはここ数年、不作続きで、民の生活もかなり苦しくなっています。特に農民たちは……。いまの女帝となってから農民による反乱はたびたび起きていますが、ドミトリーという男が現れ、彼が農民たちのリーダーとなって大規模な反乱を企てている最中です。僕は、彼に接触して資金と武器の提供を」
「反乱をおおいに後押ししているというわけね」
苦笑まじりにマリアが呟く。
エンジェリクがフランシーヌ、キシリアと戦争をしている間、北の大国が南下してくると非常に都合が悪い。イヴァンカが南下してくれば、戦友のベナトリア王も対応に追われることになるし。
それに、海ひとつ隔てただけのエンジェリクに接近してこないとも限らない。
エンジェリクは王を始め、主戦力が大陸へ渡ってしまっている状況。本国が狙われると、厄介なんて言葉では済まなくなる。
クリスティアンは、エンジェリク軍が心置きなく戦えるよう、影ながらサポートを行ってくれているわけだが……。
「すべてはエンジェリクのためにイヴァンカの内乱を誘発させていると知られたら、イヴァンカの農民たちは大激怒するでしょうね。本当に気をつけてね、クリスティアン。あなたの真意に気付かれたら……」
「十二分に気をつけます――僕が下手をうてば、今度はイヴァンカとの戦争になってしまう。絶対に失敗は許されません」
「そうね……。でも、長引けば必ず気付かれる。やっぱり、来年の内には決着をつけてもらわないと。軍事費が膨れ上がってきて、城でも不満の声がよく聞こえてくるようになってきたわ」
マリアが言えば、セシリオ、ローレンスが互いに顔を見合わせる。パーシーも、何か言いたげな表情だ。
「城のほうでも不満が出るようになってきているんですか。実は、軍のほうでも不満が――主に、オルディス家に対して」
セシリオが言った。
「軍の中には、ヒューバート王がオルディスの人間にだけ褒章を与えていると考える者もいるです。もちろん、おじ上はそのようなことはしていません。俺たちの実力を評価しているからこそ、身内による贔屓だと思われないよう褒章は偏ることなく兵たちに与えています。でも――王が身内を贔屓していると思い込んでいる連中には、おじ上のそんな姿は見えず……俺たちが称えられる場面しか記憶しないのです」
「海軍提督代行の権限を俺から返上させて、正式に提督を選べって声も出てる」
ローレンスは呆れたようにため息を吐く。パーシーも頷いた。
「僕が参戦するようになったことで、さらにその不満を煽ることになってしまいました。父もその空気を心配していましたし……おじ上も、気付いていないわけではないはず」
そう、とマリアも相槌を打ち、沈黙してしまう。重苦しい空気にリチャードはおろおろしながら、でも、と口を挟んだ。
「戦況は悪くないんでしょ?来年には決着するだろうって、ジンランが言ってたよ。ジンランたち、フレデリクに行くんだって」
「ヴァイセンブルグがフランシーヌから手を引き始めたからな。ヴァイセンブルグの支援がなければ、フランシーヌは戦争なんてやっていられない」
クリスティアンが同意する。
ヴァイセンブルグ帝国は、主にベナトリアが戦っている。
もとは、ベナトリア封じ込めのためにフランシーヌに手を回していたのだが、結局、本国がベナトリアの猛攻で危うくなってきたから、フランシーヌなんかに手間や人員を割いている場合ではなくなってきたのだ。
ヴァイセンブルグ帝国の後ろ盾がなければ、いまだまともな指導者がおらず、国としてまとまっていないフランシーヌは降参するしかない。
「フランシーヌという協力者がいなくなれば、キシリアも孤立する。フランシーヌは、そう遠くない内にオレゴンからも手を引くだろう。あっちもヴァイセンブルグあっての干渉だったから、当然の流れだ。カルロス王子は、オレゴンの王冠を戴く覚悟――エンジェリクはオレゴンと正式に手を組み、キシリアの封じ込めに入れる」
「だよね!ジンランもそんなふうに言ってた!対キシリアも睨んで、フレデリクを奪還するんだって。春が来る前に、先遣隊で行っちゃうって……」
言いながら、リチャードがしゅんとうなだれる。
「僕、十四歳になるから……来年は、ジンランたちと一緒に僕も行きたいと思ってた……。でも、オルディス家を贔屓してるっておじ上が責められてるなら、僕まで参加するのはまずいかな……」
「チャールズ様を支えたいあなたの気持ちは尊重してあげたいけれど……見送ったほうがいいかも。外国と戦争している最中に、内部の悩み事を増やすのは危険だわ」
母個人としては、息子を戦場に送り出したくはない。そして今回ばかりは、母親としての愛情以外にも反対する理由がある。ヒューバート王の敵を、増やすべきではない。
――結局、そういうことだ。
一国の王を滅ぼすのは、敵対国の王ではなく、国内部の反逆者。キシリアは、二代続けてそれで王を喪ってきた。
ヒューバート王も、フランシーヌとの戦いで命を落とす心配より、王に不満を持つ者たちの早まった行動を危惧するほうが優先だ。




