太陽が消えても
王妃オフェリアが亡くなった城は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
可憐で無邪気な王妃の死を悼んで……というのもあるが、誰もが、この後に起こることを予想して、恐怖していた。
「まさかオフェリアが、マリアや陛下より先に逝ってしまうとはな。それも……ホールデン伯爵がいなくなった後で。最悪のタイミングだ」
ウォルトン団長が、険しい表情で呟く。それを聞くドレイク宰相は、いつもと変わらぬポーカーフェイスであったが、まとう空気は険呑なものであった。
エンジェリク王国を支える二本柱。
ヒューバート王と、マリア・オルディス公爵。その二人には、最大の弱点にして共通点があった。
――王妃オフェリア。
オフェリアを失った時、エンジェリクは、二本の柱を同時に失うことになる。誰もが、それを知っていた。その時が来てしまうのを、何よりも恐れていた。
そしていま……その恐怖が、現実となってしまった。
「せめて伯爵がいてくれれば……」
団長がため息を吐く。ドレイク宰相もわずかに目を伏せ、無言で団長に同意した。
オフェリア以外で、唯一マリアを立ち直らせることができる人物。それが、ホールデン伯爵だった。
最愛の妃を失ったヒューバート王を立ち直らせるには、マリアの力が必要だ。だがそのマリアを立ち直らせることのできる人間が、もうこの世にいない。
ノアが宰相の執務室に入ると、ウォルトン団長とドレイク宰相が一斉に視線を向けた。
「……オルディス公の様子は」
ノアは静かに首を振り、そうか、とドレイク宰相も短く答える。饒舌なウォルトン団長も、いまは話す言葉を持たないようだった。
「ウォルトン団長……軍の編成を考え直してみた。これで、どうだろうか……」
ノックもなしに、執務室にチャールズが入って来る。礼儀を欠くチャールズを、誰も咎めなかった。
チャールズ自身、慌てすぎて、自分の無礼な振る舞いに気付く余裕がないのだろう。団長たちも、いまはそれを指摘している場合ではないと考えているに違いない。
エンジェリク軍は、キシリア、フランシーヌとの戦に向け、出立する直前であった。
オフェリアのことで王が急ぎ呼び戻され、そのまま王妃に付きっきりとなり……いまは、戦などとても……。
だが、いまさら戦を辞めるわけにもいかない。出立はいったん保留になったが、近い内に、改めてキシリアへ向かうことになる。いつ立ち直るのか分からない王を、悠長に待っていられない。
エンジェリクとキシリアの戦に合わせ、ベナトリアも動く――すでに、ベナトリア王がヴァイセンブルグ帝国との戦いに向けて動いているのだから。
チャールズが、ヒューバート王に代わって軍隊の指揮を執ることになるかもしれない。
覚悟は決めたものの、不安はあった。個人としての戦の腕前はヒューバート王にも劣らないが、軍隊の長としての実力は、さすがに段違いだ……。
できることなら、ヒューバート王に立ち直って欲しい。それを信じて、チャールズは王に代わって軍隊を取りまとめていた。
「いずれ、マリア様が陛下を立ち直らせることでしょう。あの方が、いつまでも泣き臥せったままでいるはずがありません」
ノアが口を挟む。
視線が一斉に集まるが、ノアは動じなかった。しかし、と団長は眉を寄せる。
「オフェリアだぞ。僕ですら、彼女の死は受け入れがたい――あまり考えたくないことだが、後を追う危険も……」
「あり得ません。マリア様が、子どもたちを放って自ら命を絶つわけがない」
きっぱりとした口調でノアは言った。
オフェリアはマリアにとって、自分そのものだった。彼女の良心の象徴でもあり、誰にも傷付けさせたくなかった、少女らしい幸せや純粋さを体現した存在でもあった。
オフェリアを失うことは、自らの心臓を抉り取られたも同然。でも、マリアだって母親だ。母性の強い彼女が、幼い我が子たちを見捨てられるはずがない。
「……それに、マリア様には、まだ果たすべき役目が残っております」
「キシリア王女か……」
ドレイク宰相が言い、ノアが頷く。
キシリア王女イサベル――敬愛するロランド王とアルフォンソ王妃の遺児。故郷を追われてしまった、キシリアの正統なる後継者。マリアにはまだ、彼女を支える役目がある。
彼女たちのためにも、マリアは必ず立ち直る――立ち直った……ふりをするはず。
……やはり、オフェリアを喪った傷が癒えるわけがない。傷を負い、ボロボロのまま……それでも、為すべき己の役目のため、無理やり立ち上がるだけ。
そして自分もまた――傷だらけのマリアを最後まで守り抜き、彼女の道の果てを見届けることが、ノアが果たすべき役目だ。
その夜は、しとしとと雨が降っていた。
暗い夜空にかすかに見える雨粒を眺め、ノアは過去に思いを馳せる。
――こんな天気の夜は、伯爵はマリアを訪ねたがった。
急な思い付きに振り回されることも多く、ため息をつきながら彼に付き従って。
ああ、そんな日はもう二度と来ないのだな……と今夜もまた、ひそかにため息をついた。
暗い夜道を慣れた足取りで歩き、屋敷の前で立ち止まる。
二十年以上通い続けた屋敷だ。目をつむっても、この屋敷に侵入することができる。
「……あなたを、部屋に入れる許可を出した覚えはないわよ」
部屋に入って、ベッドで泣き臥せる彼女に近づくと、冷たくそう拒絶された。もっとも、家主の許可も取らずに勝手に侵入して……言われて当然なのだが。
こうでもしないと彼女に会えないから――誰にも会いたくないという彼女の望み。ノアは、初めて彼女の希望に逆らった。
構わずマリアのそばに寄り、マリアもそれ以上の拒絶はせず、わずかに起き上がってノアを見た。
美しい緑色の瞳は、涙で痛ましく濡れていた。
「世界から、太陽が消えてしまったわ……真っ暗な闇夜で……何も見えないのに……それでも、私は生きていかなくちゃいけないのね……」
「……はい」
ノアは頷いた。
「伯爵の葬儀の日……あなたが私に言ってくださったことです」
ホールデン伯爵を喪ったあの日。ノアもまた、途方に暮れていた。
伯爵は、ノアにとって人生そのものであった。幼い頃に両親を失い、無為に生きていたあの頃……ヴィクトールと出会って、彼を道標に歩んできた。
彼は自分よりずっと年上で、やがて別れが来ることは自然の摂理……でも、なぜか彼だけは、いつまでも自分の道標として生きていてくれると思い込んでいて。
葬儀の日。伯爵の眠る棺に近づくことすらできず、一人教会の外で呆然と佇む自分に、マリアは寄り添ってくれた。
――世界から、太陽が消えてしまいました。
寄り添うマリアに背を向けたまま、ノアは呟いた。
――二度と夜の明けることのない世界の中で……私は、どうやって生きていけばいいのでしょう……。
泣き言を口にしたのは、あれが初めてだったと思う。伯爵にも言わなかった。
伯爵がいる間は、自分の在り方に迷うことなんてなかったのもある。
――それでも、前に向かって歩いていくしかないわ。私には、あなたが必要だもの。
当たり前のようにそう言ったマリアに、ノアは振り返る。優しく微笑む彼女に……堪らず抱きしめ、マリアの肩に顔を埋めた……。
「マリア様。私には、あなたが必要です」
マリアの手を取って口付ける。主人に対する忠誠の証――個人的な想いもまぜて。
自分の手に口付けるノアをじっと見つめ、マリアはまた涙を流し始めた。そっと手を引いて抱き寄せれば、マリアはノアの胸にすがりついた。
細く脆い身体を、しっかり抱きしめる。腕の中のぬくもりを失いたくなくて。
世界から太陽は消えてしまったけれど、優しい月の光が自分の道を照らしてくれるから。
ノアはまだ、立ち止まらなかった。




