去る (3)
その夜。マリアは異変に気付き、目を覚ました。
夫婦の寝室――隣で眠る夫の様子がおかしい。
「旦那様」
忙しなく呼吸をしているのに、どこか弱々しい。
ナタリアたちを呼ぶためにベッドを降りようとしたら、腕をつかまれた。でもその力も、マリアが知っているものよりずっと弱い。
「呼ばなくていい。自分の身体だ……自分がよく分かっている。最後は静かに過ごしたい……君がそばにいてくれれば、それでいい」
マリアは自分の腕をつかむ夫を見つめ、しばらく悩んだ。
改めてベッドに戻り、夫の隣に横たわる。夫の身体を、マリアはぎゅっと抱きしめた。夫も、マリアの胸に顔を埋め、幼子が母を求めるようにマリアを抱き寄せる。
「旦那様……ヴィクトール様。あちらで再会しても、あまりメレディスをいじめてはいけませんよ。スカーレットは元気にしていると、伝えてあげてください」
「スカーレットのことはちゃんと伝えよう。だが、いじめるなというのは難しいな。彼は、私が愛した女性の心を射止めた憎い恋敵だからな」
笑いながら伯爵はそう言ったが、マリアは目を瞬かせた。
「私はきっと、地獄に落ちる。いまさらそれを恐れるつもりはないが……君に、最後に聞いてほしいことがある。私の懺悔を」
「ヴィクトール様の……?」
「君を見捨てたこと。私が見捨ててしまったらどうなるか分かっていたのに、自分の欲望を優先した」
伯爵が己の罪を告解するが、マリアは彼が何を言っているのか分からなくて、きょとんとしたままだった。マリアを見上げた伯爵は、自嘲するような笑みを浮かべていた。
「君が初めてエンジェリクに来た時のことだ。マリアと言う名前に戻り、君たちはガーランド商会から離れた。あの時……私は君を引き止めなかった」
「自分で決めたことです。ヴィクトール様に咎はありませんわ」
「だがあの時の君なら、私が本気で引き止めていたら、思い留まったはずだ。なのに私はそれをしなかった」
反論できず、マリアは黙り込んだ。
たしかに――あの時のマリアなら、伯爵に本気で説得されていたら、思い直したかもしれない。まだまだ精神的に幼くて、伯爵の庇護に甘えていたい未熟さがあった。
「ヴィクトリアを得て、自分の罪深さを思い知らされるようになった。もし、あの子が……私が亡くなったことで頼る相手を失い、女として生きることを強いられるようになったら……そう考えるだけでも、堪らなく辛い」
話す伯爵の声が震えている。
話すことすら、限界に近いのかもしれない。
「しかも君を見捨てた理由が……従業員には手を出さないという誓いを守るため。そんな下らないことのために君を見捨て……商会を離れればどうなるか、当然予想はできた。気にしないふりをしていたが、本当は後悔していたのだ。だから君が会いに来るのを待ちきれず、自分から会いに行った」
そう言えば、とマリアは昔を思い出す。
ガーランド商会に別れを告げ、マリアたちはオルディス領へ向かった。その後、色々あって、結局マリアたちは王都に行き、ガーランド商会の人たちやホールデン伯爵たちに会いに行ったのだが……伯爵は、オルディス領に行っていたとか。
マリアが訪ねてくるのを待てず、自分から会いに行ったと当時から話していたが……。
「そして君は、私が予想した通り、女として生きる道を選んだ。その道を選ぶことしかできなかった……」
伯爵が、大きくため息をついた。
「領主殿が善良な男でなければ……君は、もっと酷い目に遭っていただろう……。私は初めて会った時から君に魅かれていて、どうしても自分のものにしたかった。そのためなら、君が不幸になるのも見過ごして……」
「あのままガーランド商会にいたら、私はきっと、もっと違う生き方をしていたのでしょうね。それは事実だと思いますわ」
あのままクリスとして生きていたら。
ホールデン伯爵の庇護の下、別の生き方をしていただろう。女として生きる必要もなかったかもしれない。
でもそれができなかったのは、やっぱり自分が選んだから――そんな生き方を選べなかったから。
「そして、また違ったかたちで、私はヴィクトール様に魅かれていったことでしょう。けれど……最後には、ヴィクトール様一人に縛り付けられることを嫌がって、飛び出して行ったかも」
「……だろうな。私が与える籠の中で、君が満足できるはずがない。いつかは私の束縛がうっとうしくなり……憎まれていたかもしれないな」
「それも否めません」
自分の気性を考えると、心当たりしかなくて。マリアも苦笑した。
「君が私に向ける感情は……恋というより、父親を慕うものに近い。君は父を喪ったばかりで、その代わりとなる男を求めた。私は、君の幼さを利用した。父親を求める感情を、愛情だと刷り込ませた。きっとメレディスに向けるものこそが、本当の感情だったのだ」
「それで……ヴィクトール様は、メレディスに対しては露骨にライバル心を燃やしていたのですか……」
マリアの浮気を許していたわけではないのだが、メレディスに対しては特に敏感に反応していた。本人も気づかなかった恋心……気付いてしまったら、という不安もあったのかもしれない。
伯爵に向ける愛情が、勘違いだったのだと気付かれたら。本当に愛しているのはメレディスだと、マリアがそう考えるようになったら。
マリアは微笑み、夫をさらに強く抱きしめた。
「最初は……旦那様のおっしゃるとおり、あなたが刷り込ませた、勘違いの愛情だったのかもしれません。でも、あなたへの愛を信じて、共に過ごす内に、本物になっていったのです。勘違いで、子を生みたいとまで望んだりしません」
「マリア……」
「愛していますわ、ヴィクトール様。クリスティアンとヴィクトリアは、私たちの愛の絆――私の、あなたへの愛の証です」
マリアの胸元で顔を埋める伯爵が、激しく動揺する。痛いほどマリアを強く抱きしめ返してきて。マリアも、愛おしむように伯爵の髪に顔を埋めた。
こうして改めて見ると、すっかり白髪だらけ。初めて会った時から、ちらほらと白いものが混じってはいたけれど。あの時からたくさん増えて――それだけ、マリアは伯爵と共に時間を過ごしてきたということ。
「愛している、マリア」
マリアを抱きしめたまま、伯爵が囁く。
「君という妻を得られたことが、私の人生において最高の幸運だった。これは、いままで口にすることのできなかった本音だが……フェルナンドが余計な真似をしたおかげで、私は君に会うことができた――ちょっとだけ、奴に感謝していたりする」
マリアは笑った。
父を喪い、故郷を追われ、一族を滅ぼされた、あの悲劇。でも、あの悲劇があったから、もたらされた出会いもあった。不幸も、幸福も、考え方次第。あの時にマリアは多くのものを失ったが、多くのものを得ることもできた。
過去を思い返して、何かが違ったら、と想像することはあるけれど。でも結局、違う道を選びたかったかと問われれば、そんなこともなくて。
「……旦那様?眠ってしまったのですか……?」
問いかけても返事はない。マリアの腕の中から、静かな吐息が聞こえてくるだけ。
それがだんだんと小さくなっていくのを、マリアも静かに聞いていた。
マリア・オルディスの夫ヴィクトールの葬儀には、多くの弔問客が訪ねてきた。
王都の商人たちに、エンジェリク貴族、キシリアの王女たちに、オレゴンの王子――エンジェリク王も自らやって来て。その光景に、クリスティアンは控えめに笑った。
「こうやって見ていると、改めて、父上のすごさを思い知ります。何も持たない、ただの孤児だったのに。エンジェリクの王までもが、父の死を悲しんでくれる――自分の力ひとつで、ここまでのし上がったんですね、父上は」
そう言って、クリスティアンは腕に抱いているヴィクトリアの涙をぬぐう。ヴィクトリアは兄にぎゅっと抱きついた。
ヴィクトリアは五歳。幼いけれど、姉や兄たちが父親を亡くしているから、自分もまた、父を喪うことがどういうことなのか、なんとなく理解していた。
「六十歳のお誕生日は、特別なものにしましょうねって……去年の今頃は、そう話していたのに」
ぽつりと、ヴィクトリアが呟く。
ヴィクトール・ホールデン――享年五十九歳。マリアが彼と出会って、一緒に過ごした時間は……数えてみれば、二十年ちょっと。
マリアにとっては、人生の大半を共にした相手だった。でも、もう少しだけ、自分と一緒にいてくれても良かったのに。
マリアは、教会にまつられた聖ヴィクトール像を見上げる。
――自分から取り上げるには、まだ早すぎると思うのだが。だから、私はあなたたちのことが好きになれないのだ……。
「マリア」
声をかけられ、マリアはそちらに視線を移した。シンプルで飾り気のない、黒い衣装に身を包んだヒューバート王。
伯爵の棺に花を手向けた彼は、そろそろ城に戻る時間だ。
「お忙しいのに、来てくださってありがとうございました」
「いや。僕や……エンジェリクにとっても、伯爵は重要な人だった。これぐらい当然だ――オフェリアが来れなくてすまない」
「陛下が謝罪なさるようなことでは」
マリアは不謹慎にならない程度の笑顔で言った。
「それにしても驚きました。体調が優れないでいるとは思っておりましたが、あの子がまた妊娠していただなんて」
オフェリアは、三度目の妊娠がつい先日発覚したところだった。
たしかに、少し具合が悪そうな様子はあった。
マリアだけでなく、ヒューバート王やベルダも心配はしていた。親しくしていた人たちが立て続けに亡くなっているし、エンジェリクも本格的な戦を控えているから、そういった不安や動揺が体調に現れていただけなのかと周囲は考えていて。
前回はすぐに妊娠に気付いたベルダですら、今回はなかなか気づけなかった。
「陛下の優れぬお顔は、私の夫が亡くなったからだけではありませんね」
「……ああ。オフェリアのことが心配で。エドガーの時は問題なかったが、出産は大きな負担になるし……今度は、僕がそばについていてあげられない」
予定通りになれば、オフェリアの出産は、ヒューバート王がキシリアやフランシーヌと戦うため、エンジェリクを離れている頃になる。そばにいて、何ができるわけでもないが……不安でならない気持ちは、マリアもよく分かる。
「それに……エドガーの時までオフェリアを診てくれた侍医もいない。やはり、彼ほどの医者は……」
マリアも黙り込んだ。
エドガー王子を生んだ時、エンジェリクの城には、非常に優秀な医者が侍医として勤めていた。
医者としての腕、知識、経験だけでなく、患者を助けるための心構えも立派な人で。
新しい侍医はいるが、前任者と比べてしまうと……若い分だけ体力はあるが、頼りない部分もある。
「オフェリアも、母親としての心構えはもう十分に備わっております。王妃として、あの子もそろそろ一人前扱いしてあげてもよい頃かもしれませんわ」
「そうだね……。うん。そうかもしれない。オフェリアのことになると、どうしても過保護になってしまって」
「それは当然です。私も、だからと言って何でもかんでもあの子任せにするつもりはありませんもの」
マリアが控えめに笑いながら言えば、ヒューバート王もそれに応じるように笑顔を見せた。
――この時の選択ほど、マリアが後悔したことはなかった。
もし、やり直すことができたなら。
それは、やり直しなど考えたことのないマリアの、唯一の後悔であった。




