侯爵 (1)
ニコラス・フォレスター宰相の執務室――そのデスクの上には、いつも小さな肖像画が飾られている。
宰相の美しい妻と、その妻との間に生まれた息子の絵。結局、フォレスター宰相の最愛の相手は彼女たちなのだ。
「待たせて済まぬ」
デスクの上の肖像画を眺めていたマリアは、部屋に入って来た宰相に振り返った。
「いいえ。久しぶりのお部屋でしたので、眺めているだけでも退屈しませんでしたわ」
デスクを挟んで宰相と対面し、マリアは彼を見て思った――やはり、年を取った。
フォレスター宰相は、ジェラルド・ドレイク警視総監の父親。初めて会った時から、何かとマリアを助けてくれていた。息子に劣らぬポーカーフェイスで、でも、意外と感情豊かな男性だ。
「ずいぶんとお腹も大きくなった。そろそろ生み月だろう。その身体でわざわざ城へ来て、私に会おうとは……クロフト侯爵のことか」
「さすがのご慧眼ぶり。閣下の目は誤魔化せませんわね」
「陛下から話を聞かされたら、すぐにでも突撃してくるだろうと思っていた」
わずかに苦笑いしながら、宰相は言った――宰相のことをよく知った人間でないと分からない程度の微笑だったが。
「オーシャン王女との縁談を、クロフト侯爵の取り巻きがごり押ししているそうですが……まず、クロフト侯爵というのはどういった方なのでしょう。最近、当主が変わって新しい方になったそうですが」
「ナサニエル・クロフト。先代当主の庶子だ。嫡子のほうは不慮の事故で亡くなってしまったからな。後を継ぐ者がいなくなったクロフト家を、なし崩しに庶子の彼が継ぐことになった。私も正直、彼のことはよく知らないのだ。なにせ、城へ来ても召使いも同然の扱いを受けているような男だったからな……」
父親のほうのクロフト侯爵は、マリアも面識がある。贅沢と享楽に耽る人間の、なれの果てのような姿をした男だった。嫡子も同様に、見た目が派手なばかりの中身のない男で……恐らく、ナサニエルはそんな彼らに連れられていた男……。
宰相の話すように、召使いのような扱いを受けていて、マリアも侯爵の実の息子であることを知らなかったぐらいだ。陰気で、物陰に紛れてしまうとそのまま見失ってしまうような男だった……。
「だが、あの男の目には強く惹きつけられるものがあった。横暴な父親によって押さえつけられていたが、いずれ無能な父を超えて自らの道を見つけ出すのではないかと……それだけは私も覚えている」
そう言えば、と宰相が言葉を続ける。
「リチャード・レミントン侯爵に、熱い視線を向けているのを見かけたことがあるな。横暴な父親のもとに生まれた庶子――似たような境遇にある彼に、憧れを抱いていたのかもしれん」
「リチャード様……ですか」
本当に、最近は彼らの名前をよく聞く。心の内で、マリアはくすりと笑った。
「オルディス公爵。あなたはこの手の話題を嫌うだろうからあえて口にすることは避けていたのだが、レミントン侯爵――リチャードではなくその父親、先代の当主には、悪魔崇拝の疑いがかかっている」
「あくま……」
思わず目が点になってしまうマリアに、宰相がポーカーフェイスをかすかに歪めてまた苦笑する。供でついて来たララも、こういう話嫌いだもんな、と口を挟んだ。
「悪魔崇拝といえばオカルトな分野に聞こえるが、実際は変態性癖の大義名分に利用しているだけに過ぎん。金と権力を持て余し、一通りの遊びに飽きた人間が辿り着くもの……より刺激を求め、その遊びはいっそう過激なものになっていく。美しく純血の娘の血肉を使えば不老長寿を得ることができる――単に自分が若い美女を惨たらしく痛めつけたいだけなのを、別の理由を作り出して意味を持たせているふりをしているだけだ。本心から悪魔を信じている人間など極一部」
「なるほど。そのように解説されれば、納得できる部分はありますね」
金と権力に物を言わせて散々に遊び呆けた者が、辿り着く先。より刺激的で、より過激で……いわゆる悪魔崇拝に繋がる行為。
マリアは聖職者――ルチル教や、その教えを説く修道士に反発していた。だから呪いとか、悪魔だとか、そういったオカルトの類も嫌いだ。結局、それらはベクトルが真逆なだけで、信仰心とは切り離せない問題だから。
「悪魔崇拝も、根っこの部分は狂信者と変わらん。つまり、宗教に近ければ近いほどその手の人間も増えるもの。エンジェリクよりは、教皇庁に近い他国のほうがこの手の問題は根深いものだ」
「教皇庁に近い国……例えば、オーシャン王国とか?」
「私はその可能性を考えている。オーシャン王国からの強引な縁談話は、過激な趣味仲間による繋がりを利用したものではないかと。オーシャンの現王妃は、若さと美貌を保つために怪しい噂もあってな。生娘の血の話も、適当に思いついて話題に挙げたわけではない」
マリアは溜息をついた。
マリアが忌み嫌っているようなオカルトっぽさはないかもしれないが、ろくでもない物であることに違いはない。
そんな怪しげな人種がエンジェリクの城へ来て、オフェリアに近付くかも――ヒューバート王が、王妃と王女を城に置いておきたくないと話すのももっともだ。
「リチャード王は問題も多かったが、宗教と距離を置きたがったという点では高く評価している。だがそれも、晩年には……あれほど豪胆な王であっても、年老いれば弱っていく」
宰相が、昔を懐かしむように言った。
「歳を取り、リチャード王は身体のあちこちに不調を抱えるようになった。朱の商人が持ち込んだ阿片に手を出したのも、それが理由だ。鎮痛剤として、陛下はあれを求めた。エステル・レミントンのこともそうだ。すでに薬の影響を受け始めていたリチャード王は、幻覚や禁断症状による苦痛に悩み、それらから逃れるために幼い少女を生贄にした。もっとも、リチャード王は結局、幼い少女そのものではなくエステル個人に執着したようだが」
処女の血は万病に効くという――こちらはオカルトというより、馬鹿馬鹿しい迷信の類だ。それを本気で信じてやらかしてしまう人間もいるのだから、まったく始末に負えない。
そんなもののために罪のない無垢な少女が犠牲となり、人生の全てを台無しにされた。
「……リチャード・レミントンの父親が悪魔崇拝に関わり、幼い孫娘すら生贄に差し出していたということは、もしやレミントン家の兄妹たちもみな、幼い頃に……?」
「それについては私は何も言えん。証言できる人間もいない……いや、パトリシア元王妃はまだ存命か。だが彼女も、ある種まともではない人間だからな……証言ができるかどうか」
パトリシアとは、先代エンジェリク国王グレゴリー陛下の三番目の王妃。リチャード・レミントン侯爵の妹でもあり、いまは王都から遠い場所に幽閉されている。
人間としての感性がどこかずれた女性で……エンジェリク王が隠しておきたかった秘密を知っていて……。もう世間からは忘れられてしまったかつての王妃。その存在は、ヒューバート王も公に出させることなく、ひっそりと隠匿し続けている。
「どちらにしろ……陛下のもとにオーシャン王女を嫁がせるのは断固阻止するしかないのですね」
「そうだな。今回ばかりは、貴女に生贄になってもらうしかなかろう。第三王子の妻……何とも、奇妙な巡り合わせだな」
ポーカーフェイスのまま、宰相は冗談めかして言った。
「オーシャン国側は、それで納得するでしょうか」
「王妃派は多少渋るかもしれん。外国の公爵家に婿入りさせるより、自国の王にしたい欲はあるはずだ。しかし王太子派は歓迎するだろう。エンジェリクと繋がり、後妻が生んだ王子を平和的に国から出すことができるのだからな。特に兄弟仲が悪いとは聞いておらぬが……王冠を戴くことができる頭はひとつ……揉めぬはずがない」
血の繋がった者同士が、ひとつの王冠を巡って血を流す――きっとオーシャン国の王冠にも、その輝きの裏に多くの血を吸って……。
「……ところで、本日閣下が飾られている絵はいつもと少し異なっておりますのね」
肖像画に描かれたジェラルド・ドレイクが、ずいぶん大きい。ここまで成長した姿を見るのは、マリアも初めてだった。
「この絵は飾りにくかった。元気だったころのアイリーンを描いた、最後のものだ」
宰相には、幼少の頃から家同士でが定められた婚約者がいた。
互いに相思相愛だったが、舞台女優を夢見たアイリーンは結婚を拒み、家を飛び出し……ニコラス・フォレスターとは結婚することのできない立場になった。
当然婚約は解消されたが、ニコラス青年は元婚約者を追い続け、熱烈に求愛を続け、彼女の夢を応援し続け……ついに、アイリーンは人気絶頂時に引退して、彼と結婚した。
ドラマチックな恋物語は、若くしてアイリーンが亡くなるという悲恋で終わる……。
「アイリーンは、突然血を吐いて倒れた。胸の病を患っていたらしく……気がついた時には手遅れで、あっという間に弱り……」
小さな肖像画を手に取り、宰相が語る。
「あの日、ジェラルドは母に歌をねだった。彼女の現役時代のパンフレットを見つけて、その時の舞台の歌を歌って欲しいと……。ジェラルドがチェンバロを弾き、隣に座ってアイリーンも歌っていた。そして、彼女は吐血した――真っ白な鍵盤が赤く染まったのを、いまでもよく覚えている。以来、あの子はチェンバロを演奏しなくなった。音楽や芸術を愛する心は変わらなかったが、自ら弾くことはやめていた」
「私……ジェラルド様に演奏をねだりました」
ドレイク卿の屋敷に招待された時、彼の家のチェンバロを見た。そして、演奏してほしいと気楽に頼んでしまって……。
「気にすることはない。嫌ならばはっきりと断っている。あれはそういう性格だ。母親に似てな――だから私は、彼女への求愛を止めなかったのだ。私に想いがなければ、最初からはっきりと拒絶するはず……それがない限りは、私にも望みがあると信じていた」
ララを連れ宰相の執務室を出ると、マリアは帰宅することにした。もう少し情報収集をしておきたかったが、このお腹では限界だ……。
「あ、オルディス公爵にララ殿だ。こんにちはー」
どこか能天気な声で挨拶するのは、王国騎士団副団長のカイル。ウォルトン団長の腹心の部下で、マリアとも顔見知り。王国騎士団に頻繁に出入りしているララも、彼とは親しい。
「いやー、お久しぶりですねー。ずいぶんお腹も大きくなって」
「今週中にも生まれるんじゃないかって、医者からは言われてるんだ。それなのに城に行くって聞かなくて」
ララが呆れたように首を振る。
触っていいですか、とカイルに聞かれ、マリアは了承した。
「うーん、このお腹に、あのウォルトン様の子どもが……。どんな顔なんでしょうねえ……公爵に似ればいいですけど、ウォルトン様似の女の子だったりしたら、目も当てられませんよ」
そう言って笑うカイルに、あ、とマリアは声を上げた。
「すみません、気を悪くさせちゃいました?」
硬直するマリアに、カイルは少し恐縮した様子で尋ねる。
「いえ、違うの。そうじゃなくて――破水したみたい」
一拍間を置いて、ララとカイルが驚愕して叫ぶ。
「は、破水って、そんな突然起きるものなんですか!?陣痛が来てからなんじゃ……」
「陣痛っぽいのは朝から来てたのよ」
マリアが言えば、早く言え!とララが怒鳴る。
「だって。陣痛が来てすぐに生まれるわけじゃないし。まだ先かなって」
男が二人揃って真っ青な顔で。カイルは医者を呼びにすっ飛んで行き、ララはマリアを抱えて空いている控え室に飛び込んだ。
汚れるわよ、自分で歩くのに、とマリアが遠慮すれば、大人しく人に頼れ!とララにまた怒鳴られてしまった。




