戦火に包まれたキシリア (4)
真っ暗な海は、不気味なほど静かだった。今夜は月が明るく輝いているが、月の光だけではすべてを照らすことは不可能で。
甲板を見て回っていたクリスティアンは、イサベル王女の姿を見つけてどきっとした。
暗くなったら船室から出ないよう言いつけてあったのに。万一にでも海に落ちたら……クリスティアンは、急いで王女に声をかける。
「イサベル様。もう部屋にお戻りくださらないと。クレアも心配しますよ」
「クリスティアン……」
振り返ったイサベル王女をを見て、声をかけるべきではなかったかもしれない、とちょっとだけ後悔した。
どうしても一人になりたくて、イサベル王女は部屋を出たのだろう。一人でしか、泣いてはいけないから。
父王が崩御し、王太子だった弟もいなくなり、イサベル王女は次のキシリア王となることが確定した。いや、すでにキシリアの王なのだ、彼女は。
王が、涙を見せるわけにはいかない。イサベル王女は、もう甘えることも許されない人間になのだから。
「シルビオに、ブレイクリー提督……。彼らだけじゃないわ。私やダフネを守るために、多くの人の命が失われて……いまだって、クリスティアンたちが命がけで守ってくれてる。なのに、私は何もできなくて」
そう話すイサベル王女の声は震えていた。暗がりで、彼女がどんな表情をしているのかは見えない。
……何も見えないふりをした。
「悔しいの……。私が男だったら……自分で剣を取って、フェルナンドと直接戦ったわ。お父様の仇をこの手で討ったのに……!女だから、逃げ回るしかできない……守られるばかりで、何もできなくて……」
「イサベル様」
そっと彼女の肩を抱き、優しく呼び掛ける。自分を見上げるイサベル王女に、クリスティアンは微笑みかけた。
昔は目線の高さもほとんど同じだったのに、気が付けばクリスティアンのほうが上になっている。
「僕は、あなたが女性として生まれてきてくれて、とても嬉しい。あなたをお守りできることが、何より幸せです」
ぼんやりとした月の光の下、イサベル王女の頬を伝う涙が光った。でも、涙を流しながらも彼女も微笑んでいて。
自分の胸に顔を埋め、静かに泣き続けるイサベル王女を、クリスティアンは抱きしめた。弱々しくてもろくて、誇り高い王女を、しっかりと。
幸いにも海は穏やかで、エンジェリクまでの航海は順調だった。
港には、キシリアから到着する船を出迎えようと大勢の人が集まっている。その群衆の先頭にいるのは、エンジェリク王ヒューバートと、クリスティアンたちの母マリア……。
キシリアから到着した船を出迎えたマリアは、降りてきた二人の少女たちに近づく。
その姿を直接見るのは初めて――イサベル王女ですら、最後に会った時には赤ん坊だった。
二人とも、王妃アルフォンソの美しさを譲り受け、ロランド王にも劣らぬ気高さを持っている。王女たちを通して、敬愛していた二人の姿が見える。
懐かしさと切なさに胸を締め付けられながら、マリアは王女たちに頭を下げ、敬意を表した。
「イサベル様、ダフネ様。よくぞご無事で。さぞや大変な旅だったことでしょう。お二人のことは、私が全力でお守りいたします。キシリアの王冠は必ずや、正統なる後継者のもとに取り返しましょう」
「ありがとう。あなたの……セレーナのキシリア王家への忠誠心には、感謝の想いしかありません。私たちだけではなく、父や祖父も……あなたたちはずっと、私たちのために戦い続けてくれて……」
イサベル王女はホッとした表情で微笑む。ダフネ王女も、姉の後ろに少し隠れながら、マリアに熱い視線を送る。王女たちは、マリアのことを信頼に足る人物だと思ってくれたらしい。
「イサベル王女、ダフネ王女。よくぞ無事に、エンジェリクにたどり着いてくれた。キシリアの王ロランド殿は、僕にとっても良き友であった。友が遺した宝を、僕も全力で守ろう。さあ、二人とも城へ。王妃も、君たちの到着を首を長くして待っている」
ヒューバート王に案内され、王女たちは王が用意した馬車に乗り込む。
二人の王女を見送った後、マリアは改めて船から降りてくる人々を見やる。
次男のセシリオは父親と共にキシリアに渡り、新王フェルナンドの陰謀に巻き込まれている。それを、兄クリスティアンが迎えに行って……二人とも、王女たちと一緒に帰ってきているはずなのだが。
「母上」
呼びかけられ、振り返った先には息子の姿が。二人とも、大きな怪我もなく無事に帰ってきたようで、マリアはホッと溜め息をついた。
そしてセシリオからシルビオに渡したはずの指輪を返され、すべてを悟った。
受け取った指輪を両手でぎゅっと握り締め、セシリオを見つめる。
「大変だったわね。生きてイサベル様たちを無事に送り届けたあなたのことを、誇りに思うわ。私も、シルビオも」
マリアが言えば、セシリオは唇を噛み締め、泣くのを堪えた。頷く息子を、マリアは抱きしめる。
そんなマリアたちのもとに、少年が駆け込んできた。
一緒に来ていたのだが、遠慮してマリアたちから少し距離を取っていたら、その他大勢の野次馬と間違われ、いままで足止めを食らっていたようだ。
三男のローレンスも、兄たちが無事に帰って来てくれたのを、満面の笑顔で出迎えた。
「兄貴、セシリオ!二人とも、無事やったんやな!」
ローレンスを見て、セシリオが顔をこわばらせる。クリスティアンも、弟の顔を直視できないでいた。
息子たちの動揺の理由を、マリアはすぐに理解した。
船が一隻しか帰ってこなかったときから、嫌な予感はしていた。息子たちが動揺する姿を見て、予感は確信に変わった……。
「父さんの船が帰って来てないが、どっか寄り道してんのか?相変わらずだな――海に出ると、すぐ目的を忘れるんだよなぁ」
「ローレンス様」
陽気に話すローレンスに、ブレイクリー提督の副官でもあるベンが声をかける。
いつも双子のジョンと一緒なのに、いまは一人だけ。それに、ローレンスのことを呼ぶときはずっと、坊ちゃんと呼びかけていたのに。
「キシリアを脱出する際、キシリア海軍船に追われ……我々を逃がすために、ブレイクリー提督はキシリア海軍船に特攻を仕掛けました。船に火を点けて、体当たりで。エンジェリク最強と言われた海軍提督の名にふさわしい、見事な最期でした」
衝撃に目を見開き、ローレンスは呆然として言葉を失っていた。しばらく、何を言われたのか理解できないでいたのかもしれない。
やがて力なく膝をつき、うなだれて。マリアがそっと手を伸ばしてローレンスの肩に触れると、ローレンスは母の手を振り払い、立ち上がって走って行った。
「ローレンス!」
クリスティアンが呼び掛けたが、ローレンスは振り返ることなく行ってしまい。
私が行くから、と言って、マリアはローレンスのあとを追いかけた。
ローレンスはもうマリアの身長を抜いているし、体格もずっと良い。本気で走られると、とても追いつくことはできないが……大柄なローレンスを目で追うことは可能だった。
いまは船を見るために野次馬も大勢詰めかけているから、人混みの中を強引に突き進んでいくローレンスはよく目立つ。
人のいないほうへと走っていくローレンスを見失わないよう追いかけ、やがて、人のいない港の片隅でひとり佇む息子に追いついた。
海に向かって立ち尽くすその後ろ姿は、肩が震えている。
「ローレンス」
マリアが呼び掛けてもローレンスは振り返らず、自分の腕で乱暴に目元を拭っていた。
ローレンスに近づくことなく、少し距離を取ったまま、マリアは彼が落ち着くのを待った。
「父さんは」
背を向けたまま、ローレンスが呟く。
「父さんは、立派な海軍提督やったんや。だから……俺は、めそめそ泣いたりせえへん!最強の海軍提督の名前継ぐんや……これぐらいのことで泣いとったら、父さんを追い越されへんからな……!」
「そうね」
そっとローレンスに近づき、手を伸ばして、堪えきれず震えてしまう肩に触れる。顔は見ないよう、後ろから息子を抱きしめた。昔は腕の中にすっぽりおさまったけれど、いまは広い背中を、もたれかかるように抱きしめることしかできない。
「オーウェン様は、本当にお強くて、優しくて……最強の名にふさわしい、立派な人だったわ。だから、今日だけは思いきり泣いて……明日からは、あの人の選んだ道を誇ってあげましょう」
マリアの言葉にローレンスはすぐに返事をしなかった。しばらく黙り込んだあと、背を向けたまま頷いて。
海に向かって吠えるように泣きじゃくるローレンスを、マリアはしっかり抱きしめていた。
「女に生まれると、損をすることだらけだと思わない?」
「お母様ったら」
不貞腐れたように話す母に、スカーレットはくすくすと笑う。
王女たちを城に送り届け、マリアたちも、王都にあるオルディスの屋敷に帰ってきた。
クリスティアンとセシリオは、長旅の疲れからだろう、屋敷に戻るとすぐに自室に向かって、そのまま泥のように眠っている。港町から王都に帰る間もこまめに休憩は取って来たが、懐かしい我が家に帰ってきたからか、緊張の糸がぷつんと切れたらしい。
ローレンスも、一度泣いてすぐに立ち直っていたが、屋敷に帰って来ると、またちょっと落ち込んでいるみたいで。俺ももう寝るわ、と言うと、さっさと部屋へ行ってしまった。
だから、キシリアであったことを、マリアが家の者たちに説明することになった。話しづらいことだし、家長の自分から説明するのは構わないのだが……。
母の肖像画を描く娘に、つい愚痴をこぼしてしまう。
「だって。男の人って、あとは任せた、なんて都合のいいこと言って、本当にあとのことは私に任せきり。不満を言うわけにもいかないし、結局私はそれを笑顔で見送って。残された子どもたちを、いつも私がフォローしなくてはいけないのよ。それはいいわ――母親だもの。子どもを労わるのも私の役目だわ。でもね、悲しみに沈む子どもたちを励まして、支えて……今度はあの子たちを笑顔で戦場に送り出さなくてはいけないのよ。理不尽じゃない」
唇を尖らせる母に、やっぱり戦場に行っちゃうのかしら、とスカーレットも表情を曇らせた。
「セシリオも、ローレンスも……。小さい頃から、二人ともお父様の跡を継ぐって決めてたし、きっとそうなるだろうとは思ってたけれど」
「きっとそうなるわ。止めるのは無理でしょうね。父親の敵討ちでもあるのだから、周囲が放っておくはずないもの。軍の士気を上げるためにも、二人は担ぎ出されることになるわ」
そしてセシリオもローレンスも、自らの意思で戦場へ行ってしまうだろう。
覚悟はしていたが、いよいよそれが現実となる日が目前にまで迫ってきて。それはもう、愚痴のひとつやふたつどころか、百や二百こぼしても足りないぐらいだ。
「キシリアは、戦場になってしまうのですね。美しい国で、お父様もあの国が大好きだと話してくださっていたのに……。それも、敵はフェルナンドだなんて」
「……そうね」
目を閉じれば、幼いあの子の姿が思い浮かぶ。母に見捨てられ、父には距離を取られ、小さな身体で、ただ孤独にじっと耐えていただけの男の子。
やはり、自分は手を出してはいけなかったのかもしれない。でも、どうしても抱きしめずにはいられなかったのだ。
もはや敵でしかないこと分かっている。どちらもが助かる道はない。
キシリアに、王は二人戴けないのだから。新王フェルナンドか、女王イサベルか――どちらかが滅びるしかない。
両親に冷遇され、兄とはそりが合わず、妻に嫌われ、我が子によって命を落とすという、客観的事実だけ並べれば、シルビオという男は悲劇的な人生を送ったキャラクターですが
当人の視点で見れば、生涯をかけて尽くす主君を見つけ、愛する女との間に息子を儲けて自分のやりたいように生きてそれなりに幸せだった男でした
最初の設定では、マリアの愛人たちの中で一番最初に命を落とすキャラだったのですが、メレディスの順番が大幅に変わったことで、悪友同士、若くして亡くなったコンビとなりました
ブレイクリー提督は、シルビオと並んでキャラ設定した時点で結末も決まっていた男で、副官のジョンとベンも、最後の結末ありきで生まれたキャラでした
書き手の好み丸出しのゴリマッチョ男で、明朗快活な性格で書きやすいということもあって非常にお気に入りなキャラでもありました
ちなみに書き手は、思春期のアイドルがアーノルド・シュワルツェネッガーという筋金入りのゴリマッチョラブな人間です




