リーリエ
兄クリスティアンたちと共にキシリアへやって来たセシリオは、当然、父に会いに来ていた。
久しぶりの父との再会に喜び、母の愛馬でもあったリーリエにも挨拶する。
リーリエはずいぶん年を取り、若い頃は輝くばかりに美しかった毛並みも、やはり陰りをみせていた。
馬小屋に入った時、リーリエは物音に気付いて反応したが、セシリオのほうを見なかった。長い鼻にセシリオがそっと触れて、その手の匂いを嗅ぎ、それでようやくセシリオに気付き、嬉しそうに尻尾を振った。
「かなり目が悪くなっててな。もうほとんど見えてないんだ」
馬番のチェザーレが説明する。
チェザーレは、もともとはクラベル商会で働いていた男だったが、リーリエがキシリアへと帰っていく際、共にキシリアに渡った。気難しいリーリエの世話を引き受けてくれたのもあるが、馬を仕入れるならキシリアのほうが都合がいいから、キシリア支店に移ったのだ。
「ま、そいつがリーリエの目の代わりになってくれてるから、あんま困ることはねえんだけどよ」
リーリエに寄り添う黒馬を指して、チェザーレが言った。
この黒馬は、父シルビオのかつての愛馬。彼も年老いたから、いまは引退してゆったりと時を過ごしている。長年の相棒と別れ、ひとりキシリアへ帰ってきて寂しそうにしているリーリエにずっと寄り添い、つがいも同然だ。
「でも……そろそろ、リーリエも寿命かもな。色んな馬を見てきたから、そいつらの最期も、なんとなく俺には分かるようになってきた。リーリエには、独特の雰囲気がある」
「リーリエが……」
自分にすり寄るリーリエを撫でながら、セシリオはじっと白馬を見つめる。
「なら、次にキシリアに来る時には、母上にも同行をお願いしよう。母上だって、リーリエには会いたいはずだ。最後にもう一度だけ……」
白馬と黒馬の二頭を連れて、セシリオは父親について城に来た。兄クリスティアンも、城に来ているかと思ったのだが――リーリエを、クリスティアンにも会わせたかった。
でも、クリスティアンはイサベル王女に付き合って、町へ出ていた。
まったく。あの王女は昔からクリスティアン大好きで、キシリアへ来ると、いつも兄は彼女に振り回されてばかりだ。
「フェルナンド!」
兄はいなかったが、別の兄弟はいた。彼に会うのは何年ぶりになるだろう。
異母弟のフェルナンド――セシリオは、久しぶりに会う弟を呼び止めた。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
兄に振り返るフェルナンドには、幼い頃の面影があった。
――だけど、その表情は記憶にあるものと程遠い。冷たい目で……だがその冷たさの中に、激しい敵意の炎を燃やして、セシリオを一瞥し、すぐに視線を背けてしまった。
「フェルナンド……」
「庶子ごときが、フェルナンド様に気安く声をかけるでない」
もう一度呼びかけると、フェルナンドの従者らしき男に阻まれてしまう。男のセシリオに向ける視線の冷たさは、フェルナンド以上だ。冷たく、蔑むようにセシリオを見下ろす。
思わず後ずさりそうになったセシリオに対し、父は怯むことなく従者を一喝した。
「貴様。召使いの分際で、主人の息子を嘲る気か。身の程を弁えろ!」
フェルナンドの従者は父よりもずっと年上で、ずっと体格も良かったが、父の迫力に圧されていた。
立場の違いもあるだろうが、幼い頃から戦場を生き抜いてきたシルビオには、この男は勝てないのだ。
「申し訳ありませんでした――お元気そうで何よりです。兄上」
冷たい声で、儀礼的にフェルナンドが頭を下げる。セシリオはかける言葉も見つからず、兄への挨拶を済ませた弟が、何事もなかったかのように去っていくのを見送ることしかできなかった。
父が王の護衛として仕事をしている間、城の馬小屋にリーリエは預け、セシリオは黒馬を散歩させていた。リーリエは城に来ただけでもすっかり疲れてしまって、馬小屋で眠ってしまった。
黒馬は、老いてもまだまだ元気ならしく、セシリオを背に乗せてゆったりと散歩を楽しんでいた。
黒馬の手綱を握り、セシリオは異母弟のことを思った。
母は、フェルナンドのことをずっと気にしていた。フェルナンドはエンジェリクで生活していた時期もあり、マリアが母親代わりになってフェルナンドを世話したこともある。
愛人の自分が、正妻の子を育てるのはまずかったのではないか――それを気に病んでいたが……。
「ん……どうした?お、おい……!」
ゆったりと歩いていた黒馬が、急に立ち止まったかと思うと何かに気付いたように頭を上げ、いきなり駆け出した。セシリオが乗っていることすら忘れたように。
突然の行動にセシリオは慌て、馬の背中から落ちてしまわないよう手綱をしっかり握り直し、走る黒馬にしがみつく。
黒馬が向かったのは馬小屋――いまは休んでいるリーリエしかいないはずなのに、人の声や、物音が。セシリオも不穏な気配を感じ……黒馬に乗ったまま馬小屋に飛び込んで、その光景に息を呑んだ。
「リーリエ……!」
美しかった白い毛並みは、殴られてボロボロで、赤い血が滲んで。
無惨な姿となったリーリエのそばには、フェルナンドが。
「リーリエ……そんな!しっかりしろ……!」
黒馬から飛び降り、横たわるリーリエに駆け寄るが、もはや手遅れだった。眼を開いたまま、リーリエは絶命していた。
黒馬も長い鼻をすり寄せ、リーリエを起こそうと必死だ……。
「待ってくれ、フェルナンド!いったい何があったんだ――説明を――!」
呼び止める声もむなしく。フェルナンドは振り返ることなく、馬小屋を出て行った。




