譲れないもの (2)
「オフェリア」
自分を見つめて優しく微笑みかけるヒューバート王に、オフェリアは駆け寄って抱きついた。
王の腕の中で小さな泣き声を上げるオフェリアを、ヒューバート王はしっかり抱きしめる。すぐにオフェリアを迎えに来た王を見て、ベルダも満足そうだ。そして、王のすぐ後ろに立つ従者に冷たい視線を送っていた。
「……ベルダ、僕が悪かった」
やおら、ベルダに向かってマルセルが頭を下げた。
「あら。殊勝な心がけね。言い訳せずいきなり謝罪だなんて」
そう言いつつも、ベルダもこの展開に戸惑っているようだった。マルセルが、こんなにあっさり非を認め、頭を下げてくるなんて。
「ベルダ、どうかマルセルを許してやってくれないか。僕からきつく叱っておいたから。僕のために汚れ役を引き受けようなんて、そんなことしなくていいと……僕への忠誠心のために、愛する妻を失ってしまうような真似はしないでくれと、しっかり言い聞かせてある」
ヒューバート王にまで取りなされては、ベルダもこれ以上怒ることはできない。
ベルダには、王のためならどんな憎まれ役も引き受けようとするマルセルの気持ちが分かるのだから……相手は違えど、主人を想う気持ちは同じ。
マルセルに近寄り、悪かったわ、とベルダも謝罪する。
「黙っていきなり飛び出して。でも……勢いでお城出ちゃったけど、しばらく屋敷にいさせて。私がいないと荒れ放題だもん。せめてナタリア様が元気になるまでは……このままだと、ナタリア様、落ち着いて休むこともできないし。それに、もうちょっとフェリクスと一緒にいたい……」
ベルダとマルセルの息子フェリクスは、この屋敷に残っていた。王と王妃に仕えている人間が、子育てをしている暇などあるはずがない。だから屋敷に残って、マリアやナタリアの子どもたちと一緒に――両親からは離れて……。
マルセルは笑って頷き、ベルダを抱きしめた。
「わかった。お前はもう少し、実家帰りしてるといい」
「うん、ありがとう。ごめんなさい、陛下、オフェリア様。お二人にも迷惑かけちゃって」
ううん、とオフェリアは首を振る。
ナタリアが妊娠してすぐ、オフェリアはベルダと一緒に屋敷に帰ってきていた。働けないナタリアの代わりに、ベルダが屋敷の家事をするため。子どもが生まれて、また帰ってくることに……オフェリアを放って来ることはできないから、ベルダが屋敷に留まるのなら、当然オフェリアも一緒に滞在することになる。
「しばらく、マリアのところで暮らしておいで。エステルも一緒に。城はごちゃごちゃとうるさい――君にも、エステルにも、良くない影響を与えそうで。僕も、マリアのそばにいてくれたほうが安心だ」
優しく諭すヒューバート王を、オフェリアは不安そうな顔で見上げる。
「ねえ、ユベル。私が妃で本当にいいの?無理してるなら言って。私、ユベルのためなら離婚してもいいよ。愛妾でも……どんなかたちでも、ユベルのそばにいられるなら、それで――」
「オフェリア」
オフェリアの言葉を遮り、王が言った。
「二度とそんなことは言わないでくれ。僕は君と結ばれたくて王になった。王であるために君と別れろというのなら、僕は玉座を捨てる。だって、本末転倒じゃないか」
王は、オフェリアを抱きしめる。
「愛してるよ。僕の妃は、生涯オフェリア一人だけだ」
「うん……私も愛してるわ……。ユベルと一緒にいたい。どんなに大変でも、ユベルの妃でいたいの……」
マリアは密かに苦笑いし、静かに部屋を後にした。これ以上、自分が残るのは野暮というもの。まったく、すぐ二人だけの世界に入るんだから……。
空は暗くなり、屋敷は静かになった。子どもたちが眠るこの時間だけは、この屋敷も静寂に包まれる。
――そろそろ、オフェリアも眠った頃だろうか。
そんなことを考えながら窓の外を眺めていたマリアは、ノック音に振り返った。
「お待ちしておりましたわ、陛下。それでは釈明を聞かせていただきましょうか」
マリアがにっこり笑って言えば、ヒューバート王は困ったように笑う。
長椅子に腰かけ、自分の縁談話について説明し始めた。
「どうやら、オーシャンの王女との縁談話が持ち上がっているらしい。宰相と外務大臣が強く反対してくれているが、クロフト侯爵の取り巻き連中がゴリ押ししているようだ」
「クロフト侯爵……?あの、虚栄心ばかりでいくぶんか頭の足りなさそうな男が?」
クロフト侯爵とは、かつて王妃派と呼ばれる集団にいた貴族の一人。侯爵位にはあるが、当主は愚鈍で粗雑な男で。浅はかな当主の振る舞いにより、彼の代で家は潰れるのではないかと思っていた。
「クロフト侯爵は、君が知っている男じゃなくなった。ナサニエルという庶子がいたことは覚えているかい?」
「ええっと……派手で頭も中身も軽そうな……あっちは嫡子のほうでしたね。たしかもう一人、陰気な男を連れていたような……」
クロフト侯爵……もとい、先代の侯爵には息子が二人いた。嫡子の方は、ヒューバート王が王子の時代に赴いた海賊討伐に同行し、命を落としている。だから余計に、あの家は終わりだと……。
「やはり妊娠と出産で城を離れる期間が長くなったのは辛いね。不気味な男だよ。何を考えているのかよく分からない……彼を見ていると、リチャード・レミントン侯爵を思い出す」
王が口にした名前に、マリアは思わず黙り込んでしまった。最近、やたらと彼らの名を聞くようになった。やはり、まだ終わっていないのだろうか……。
「マリア、もしセイランで彼と会うようなことがあれば……」
ヒューバート王が、真っ直ぐマリアを見据える。たぶん、王もずっと考えていたのだろう。
もし、再び彼と向き合う日がやってきたら――。
「今度は見逃すわけにいかない。何があっても、彼にとどめを刺すしかないだろう。オフェリアは王子を生めなかった。この状況で、僕以外にエンジェリク王家の血を引く男が現れるのはまずい」
「分かっております。オフェリアの立場をはっきり脅かす男となった以上、チャールズには永久に消えて頂くしかありません」
浅はかで、傲慢で……愛情に飢えた男だった。無関心な母、冷徹な父……彼らを振り向かせたくて、幼稚な振る舞いしかできなかった王子。そして、マリアのかつての婚約者。
ヒューバート王が王子だった時代、玉座をめぐって対立したのがチャールズ王子だった。オフェリアを愛し、彼女と結ばれたかったヒューバート王子は、王になる必要があった。そんなヒューバート王子の最大の障害……確実に仕留めるべきだったのに、マリアたちは彼を見逃してしまった。
セイランへ逃げて行ったチャールズ――いまになって、あの男の影がマリアたちの前に現れた。今度こそ終わらせろと、運命が告げているように感じてならない。
「だがどちらにしろ、まずは君に男児を生んでもらわないと。チャールズが死んだところで、僕の後継ぎ問題が解決するわけじゃない」
「そうですね。王配を確実にしなくてはなりませんし、新しいクロフト侯爵とやらを黙らせる方法を考えないと……」
いや、とヒューバート王が首を振る。
「むしろ逆だ。クロフト侯爵に、取り巻きを黙らせてもらう方法を考える必要がある。言っただろう、彼はリチャード・レミントンに似ていると。何かと僕に逆らってうるさい連中をまとめてくれているのが彼なんだ。味方にするのは無理だろうが、敵と見定めるのは少し違うと思う」
王の説明に、マリアも考え込む。どうやら、新しいクロフト侯爵について調べたほうがよさそうだ。
城のことはこまめに見張っていたつもりだが、王の言うとおり、妊娠と出産を繰り返しているマリアは、どうしても城を離れる期間が長くなる。知らないこともできてしまう……。
「それにしても、オーシャンですか。あの国も複雑でなかなか面倒な……えーっと、教皇猊下とは別の王を戴いているのですよね」
大昔、オーシャン王国には世界で最も優れた大帝国が存在した。
その国の文化は、いまだ世界のどの国も超えられぬほど優れていたと言われるほどで。夢のような国……しかし、盛者必衰の理に逆らうことはできず、衰退していった。大きなものだったらこそ、衰退後の混乱も大きく。
オーシャン王国も近年まで、分裂したり、王がいなかったり、そもそも国としてかたちを成していなかったりと、安泰に程遠い歴史を歩んできた。
オーシャンは教皇庁に近いこともあり、教皇を事実上の王に戴いていた時期もある。
いまは……一応、王国独自の王を戴き、国として成立しているはず。
「いまのオーシャン国王も名君だった……そうだ」
「だった、ですか」
代替わりしたとは聞いていない。けれど、話すヒューバート王はすでに過去形だ。
「外務大臣によると、王妃が亡くなった後、善良だった王が暴走を始めたとか。それであの国も後継者や権力争いで揉めているそうだ。僕の縁談相手の王女は、後妻の娘だったはず」
「なるほど。オーシャンには、すでに王太子がいましたね。前王妃の生んだ王子が」
オーシャンの王は、二人の妃がいる。一人目が賢妃と名高い女性で、彼女との間に息子が二人。二人目が、先の妃が亡くなった後に迎えられた女性。こちらは息子と娘がそれぞれ一人ずつ……なんだかどこかで聞いたことがあるような親子関係だ。
いずこの国も、後継者問題とは厄介なもの。巻き込まれる方はたまったものではない。
「そう。オーシャン王は暗愚と化したが、王太子の地位は不動だ。王がそれだけは譲ろうとしないし、宰相を含む重鎮たちも王太子を強く支持している。当然、現王妃の一族はそれが面白くない」
「それで現王妃の娘をヒューバート陛下に嫁がせて、自分たちの地位と権力の強化をはかりたいわけですね。陛下も巻き込まれてお気の毒に……と、他人事のような顔をできないのが辛いですわ」
オフェリアが巻き添えを食らうのだから、マリアも知らん顔はできない。王がオフェリアと離婚することも、心変りすることも有り得ないと信じている――が、オフェリアが苦しい思いをさせられるのは避けられない。
「……連中も、僕が頷くはずがないことは分かっているだろう。なら、別の方向からこの縁談をまとめようとするんじゃないか――それが気がかりで」
「オフェリアへの攻撃は私が許しません――」
「そうだね。僕もオフェリアが攻撃の矢面に立たされるのは嫌だ。だから……別の人間を身代わりにしようかと……」
王は語尾を弱め、顔色をうかがうような、媚びるような目つきでマリアを見る。
マリアは目を瞬かせ、それからハッと気付いた。
「……現王妃には、娘が一人……息子が一人」
「そうだ。何があっても僕はオフェリアと離婚しない。王女との再婚は有り得ない。けれど、オーシャン王妃の力を強めたい連中は諦めてくれない。なら……」
ぞわわ……と、全身に鳥肌が立つのをマリアは感じた。いまのオーシャン王妃の子が、力を得れば良いのだ……彼女には息子もいる。娘でなくてはならない……ことはないはず。
……だから、王子でも。
「私に、結婚しろと……?グレゴリー陛下――あなたのお父様からの求婚すら退けた、この私に……!?」
――絶対いや!
叫び出したい衝動を堪え、マリアは真っ青な顔でよろめいた。
愛しい人と結ばれることを諦めた。その代わり、誰とも結婚しないことを誓った。なのに、ここに来て……。
絶対に譲りたくなかったこと。でも、ついに自分が譲歩する時が来てしまった。マリアに誓いを破らせ、プライドを捨てさせ……。
マリアの結婚が上手くいくはずがないこと――すでにこの時から決定していた。まだ顔を見たこともない王子に、マリアは激しい嫌悪感を抱いていたのだから。




