王女と海
「あの……船を出してはいただけませんか?」
聞こえてきた声に、ローレンスはきょろきょろと辺りを見回した。
キシリアの港。港につけた小舟に乗って、船を出す準備をしていたところだった。声の主は、港にいるようだ。
ローレンスのそばには、女性の集団が。身にまとう装いからして、かなり上等な身分の集団であることが分かった。集団の中心となっているのは二人の少女。
その顔には、どこか見覚えがあった。
「船って、あれのことか?」
ローレンスは、沖に停泊するエンジェリク海軍船を指して言った。
父オーウェンが所有者であり、旧くなり、もう海軍船として働くことができなくなった船。だからと言って、個人の所有物になることは本来なら有り得ないのだが……エンジェリクでも最上の地位にある海軍提督が希望すれば、色々と忖度されるもので。
ちょっと人には話しにくい経緯で父のものとなった船――声をかけてきた少女が、はっきりと頷いた。
「船を出すんは無理や。あんだけでっかい船やで?俺一人ではとても動かされへん」
父親譲りのキシリア語は、訛りがかなり強かった。母は、父の訛りも愛していたし、父も自分の生まれを象徴する訛りを直すつもりはなかったので、ローレンスもいつの間にやらそれがうつってしまった。
田舎者丸出しの喋り方に、少女の後ろにいる女性たちは眉をひそめたが、少女は動じなかった。ただ、ローレンスの返事にがっかりしている。
「どっか行きたいとこがあったんか?」
「いいえ、そういうわけでは」
二人の少女の内、年上のほうが首を振る。たぶん、二人の少女たちは姉妹だろう。ローレンスに先に声をかけてきたのは、妹のほうだ。
「ただ……海ははるかかなた、遠くまで続いていると聞いて。水平線を見てみたかったんです。船に乗ってみれば、見えるかなと思って」
がっかりしながらも、諦めて帰ろうとする少女たちを、ローレンスが引き止めた。
大きな海軍船の見張り台を、姉ブランカを背負って登る。彼女の妹と、お供たちがハラハラと下で見守り。ローレンスの背中で、ブランカが恐怖に息を震わせているのを感じた。
「下は見んなよ」
「は、はい……」
ローレンスの指示に素直に頷き、ぎゅっとさらに抱きついて来る。
自分とブランカの身体をロープで結びつけ、ローレンスは彼女をおぶって高い見張り台を目指す。
ロープをもって説明した時、お供の女性たちは非難めいた声を上げたが、ブランカ本人が進み出て、お願いします、と強く訴えてきた。
そうして見張り台につき、はるかかなたに見える水平線に、ブランカは感嘆の声を漏らす。
「なんて美しい光景でしょう……」
見惚れる少女に、せやろ、と胸を張りたくなったが、ローレンスは黙って笑っていた。そんな無粋なことはしないぐらいの節度はある。
食い入るように見つめるブランカは、ぽつぽつと語り始めた。
「きっと、ローレンス様はもうお気づきなのでしょうね。私は、ロランド王の娘ブランカ――下で待っているのは、妹のダフネと、私たちの侍女です。私は間もなく、オレゴンに嫁ぐことになります。父が、オレゴンとすぐ戦争をしたがるので、色々と理由をつけては婚姻を先延ばしにしていて」
娘を嫁にやりたくない父親の複雑な心境を思い、くすくすとブランカ王女は笑う。
「そうしている内に、母と弟が亡くなって……喪に服すこととなり、また婚姻は延期に。でも、さすがにもう限界でしょう。いつまでも婚姻を先延ばしにしていては、オレゴンも怒ってしまいますから。結婚が嫌なわけではないんです。でも……時々、どうしようもない不安に襲われて」
国のために嫁ぐのが、王女の務め。彼女だってそれは分かっている。だが王女も、一人の少女だ。
家族と別れ、国を離れ、たった一人で嫁いでいかなくてはならない――それも、祖国とずっと対立してきた敵国に。その恐怖と重荷は、ローレンスには想像することもできない。
「だから、怖くなったら海を眺めて自分を励まそうと考えたんです。どんなに遠く離れていても、この海はキシリアに繋がっているのだと、そう思えれば大丈夫だって……」
海を見つめる王女の瞳に光るものがあったような気がしたが、ローレンスは気付かなかったふりで、彼女のそばに付き添った。ブランカ王女がキシリアの海をしっかりとその目に焼き付けるまで、ずっと。
見張り台からの光景に満足したブランカ王女は、大人しく小舟に乗って港に戻り、ローレンスに深々と頭を下げた。
じゃあな、と笑顔で王女たちに手を振ったが――ブランカ王女は小舟に乗ってどこかへ向かおうとするローレンスを呼び止めた。
「あの……ローレンス様は、どこかへ行こうとなさっているのでしょうか?」
「ああ。妹たちへの土産探しに、あっちの海岸まで――陸歩いてくと迂回になるからな。船で行ったほうが早いんや」
父親は部下を連れて飲みに行っており、酒場についていくわけにもいかないローレンスは、空いた時間にエンジェリクで待つ家族への土産を探しに行くつもりであった。
美しい砂浜が続くだけで、建物もろくになさそうな海岸を見て、ブランカ王女は不思議そうに首を傾げる。
「俺は土産物選びのセンスがないからな。せめて、自分の得意分野でなんとかしようと思って。ついて来るか?」
ブランカ王女が頷き、姉の横で話を聞いていた妹王女ダフネも夢中で頷いた。まだ帰らないんですか、と侍女たちは不満の声を挙げたので、彼女たちは置いて、王女二人を乗せローレンスはさっさと小舟を出した。
陸路で走って追いかけてくればいい――王女を連れて行かれて大慌てする侍女たちに向かって、ローレンスは笑って言った。
「星の砂言うてな。実はあんまロマンチックなもんでもないんやが……変なもん買うてくるよりは、こういうもんのほうがええかと思ったんや。前に贈った時、母さんが結構喜んでくれて」
説明しながら、ローレンスは持参したガラス瓶に砂を詰め、小さな貝殻や、綺麗なガラス石で飾っていく。
我ながら単純だと思うが、キシリアの一部が詰まったその土産品を、母マリアはとても喜んでくれたのだ。すぐ下の妹スカーレットも、ローレンスらしい土産で良いと笑ってくれて、以来、ローレンスが持ち帰るキシリア土産はこれになった。
「かわいい」
ローレンスが試しに作ったガラス瓶を、ダフネ王女は目を輝かせて見つめる。とても素敵です、とブランカ王女も賛同した。
「お姉様、私たちも作ろう!お父様や、イサベルお姉様に持って帰るの!」
「そうね。とてもいい提案だわ」
「なら、一個ぐらい俺にも分けてくれへんか?俺が作るより、あんたらが作ったほうが良いもんできそうやし、キシリア王女が作ってくれた土産やったら、母さんももっと喜ぶ」
ローレンスの申し出に王女たちも快く頷き、三人で星の砂を集め始めた。
太陽がオレンジ色になって海に沈み始めた頃、ようやく追いついてきた侍女たちが王女に駆け寄ってきて、三人の土産作りは終わった。
今度こそ帰りますよ、とローレンスを睨みながら侍女は言い、ローレンスは素知らぬ顔をする。王女たちはくすくすと笑い合って、改めてローレンスに礼を言い、別れを告げた。
「ブランカ」
ローレンスが名前を呼べば、ブランカ王女が振り返る。殿下をつけなさい、と言わんばかりに侍女がまた睨んできたが、ローレンスは構わずブランカ王女に近づき、星の砂を詰めた小瓶を渡す――武骨な自分が作ったものだから、王女たちが作ったものに比べると、ずいぶんさえない出来栄えだ。
「俺は月並みなことしか言われへんが――がんばれよ。どうして我慢ならんかったら、エンジェリクに手紙寄越したらええ。船出して、またあんたを連れ出してやる」
ブランカ王女は微笑み、ローレンスが差し出した小瓶を大切そうに受け取る。手を振るダフネ王女と共に去っていくブランカ王女を見送り、やがてローレンスも小舟に乗って、元の場所へと帰っていった。




