革命の果て 前編
何百人という人間を送り込んだ監獄。ランベール・デュナンは、一人でそこを歩いていた。
ここに入った人間は、すべての希望を失い、気力を失い、絶望してただ片隅で打ちひしがれているだけ。呻き声すら聞こえてこない場所を歩き、目的の牢屋の前で足を止めた。
「……君が、会いに来るとは思わなかったな」
エミール・ロラン――デュナンの、かつての友。革命を共に戦い抜いた同志。
彼は、ここに入ってもあまり変わりがなかった。むしろ、終わりが決まって安堵しているようでもあった。
ロランは明日、処刑される。罪状は……色々あり過ぎて、デュナンも覚えていなかった。おそらく、ロランも同様だろう。
いずれ、この日がやって来ると思っていた。二人とも。
「別れを惜しみにきてくれたのか?」
からかうようにロランが言ったが、デュナンは愛想笑いすら浮かべず、じっとロランの顔を見ていた。
「見物だ。いずれ、俺もそこに入ることになるだろうからな」
もしかしたら、自分はここに入ることすらなく――そんな考えに自嘲し、デュナンは踵を返した。
「ランベール。最後に一つだけ質問させてくれ」
背を向けるデュナンに、ロランが声をかける。
「マリア・オルディス公爵……どうして彼女を気に入ったのか、教えてくれないか?」
マリア・オルディス。エンジェリクの女公爵。
ベナトリアで会い、一時、デュナンは彼女を囲っていた。そのままフランシーヌへ連れて帰ろうとしたぐらいで。
ロランの記憶にある限り、デュナンが特定の女に入れ込む姿を見たことがなかった。だから、何がそんなにも強くデュナンを惹きつけたのか、ロランはずっと考えていたらしい。
「気まぐれだ」
そっけない答えにロランは目を瞬かせたが、事実だ、とデュナンが続ける。
「俺もただの人間で、生身の男だ。邪な感情を抱くことぐらいある」
別に、オルディス公爵が初めてだったわけではない。いままでも、女を前にして不埒な思いを抱くことはあった。普段なら、理性と自制心でやり過ごしていただけ。
あの時も、可憐な見た目に反してそこはかとない色気を持つオルディス公爵に、デュナンもつい邪な興味をそそられてしまって。
いつものように、そんな感情は抑えてしまうつもりだった。でも、あの女は生意気にもデュナンを挑発してきて――泣いて嫌がればいいものを……自分を軽蔑してくれれば、デュナンも興味を失っただろうに……あの女が煽ってくるものだから、それに乗ってしまった。
誘われるまま彼女に触れて。久しぶりの女の肌はあたたかく、柔らかくて、離れがたくなってしまった。そうなるのが分かっていたから、女は遠ざけていたのに。
「……そう、だったのか」
ちょっと意外そうにしながらも、ロランはまた笑った。
「彼女が、フランシーヌ人だったらよかったのにな。彼女がいてくれたら、きっと……君の運命も、大きく変わっていた」
「くだらん妄想だな」
ロランに背を向けたまま、デュナンは言った。かすかに、口角を上げて。
「彼女がそばにいてくれたら、君は人間らしく生きることができたはずだ――すまない、ランベール」
謝罪の言葉を口にする友に、デュナンは少しだけ振り返った。
「私は、もうこれで終わりたい。最後まで足掻いて、フランシーヌのために働き続けるべきなのだろうか……もう、疲れたんだ。終わりにさせてほしい……」
「俺たちは十分働いた。やるべきことはやった。あとは、いつ退場するか――それだけだ」
革命を起こし、末期にあった国の状況を無理やり動かし、国政を大きく変えて……。
自分たちの行いが正しかったか……どう評価されるのか。それは分からない。
やはりフランシーヌはボロボロで。次の世代が、次の時代を築いてくれると信じて、託すしかない。自分たちはその土台を作ったのだと……せめて、そう信じていたい。
それきり、デュナンは牢を離れた。それが、最後に見た友の姿であった。
フレデリク領の港町。到着する船に、チャールズは目に見えてそわそわしていた。
船からそれを眺め、マリアはくすくすと笑う。リチャードも、港が見えてきた頃からそわそわしていて。それがチャールズとそっくりなものだから、リーシュもこっそり笑っていた。
「ジンラン!」
港に降りると、リチャードは一目散にチャールズに向けて駆けて行く。自分に抱きつく少年を、チャールズは嬉しそうに抱き上げた。
「ちょっと見ない間に、大きくなった。そろそろ、俺でも抱っこがきついな」
リチャードを抱きしめた後、チャールズはマリアに近づき、挨拶のキスをする。
そばで、リーシュもチャールズの従者マオと久しぶりの再会を喜んでいた。
マリアの侍女としてフレデリク行きに同行したリーシュは、二人の息子であるシオンも連れている。幼いシオンは、久しぶりの父親をきょとんとした表情で見上げていた。マオも、幸せそうに息子を抱く。
「マオ殿。あなたはそのまま、久しぶりの家族とゆっくり過ごしてください」
いまはチャールズの部下となったラドフォード伯が、声をかけてくる。マオはこっくりと頷いた。
「……レミントン公は、そろそろ仕事に」
「ジンラン、お仕事なの?大変なの?」
ちょっと心配そうにリチャードが尋ねれば、チャールズは気まずそうに視線を泳がせた。
「そんなに残ってるんですか?」
マリアも聞けば、チャールズはしゅんとうなだれ、終わらなかった、と白状した。
「オルディス公爵やリチャード様と一緒に過ごしたくて、かなり頑張っていらっしゃったんですが……まだまだ。レミントン公では、終わらせきれなくて」
「あらあら」
マリアは苦笑いする。
チャールズがフレデリク領の領主となってから十ヶ月。
リチャードを連れ、船に乗ってマリアはフレデリク領へ来た。一週間程度の滞在。チャールズはきっと、リチャードとゆっくり過ごせるよう、一所懸命仕事を片付けようとしたのだろうが……。
「もしよければ、私がお手伝いしましょうか?フレデリクはいささか特殊な場所ですが……領主の仕事ならば、私も多少は知識がございますし、少しぐらいは力になれるかも」
「ぜひお願いします」
チャールズが答えるよりも先に、ラドフォード伯が即答した。
「マオ殿を休ませてしまうので、本当に、猫の手も借りたい状況です。レミントン公、素直にオルディス公爵の申し出を了承してください。私だって人の親です――リチャード様と過ごしたいお気持ちは尊重してあげたい。でもこのままでは」
「わ、分かってる。マリア、頼む……!」
ラドフォード伯の真剣かつ必死な様子に圧されつつ、チャールズもマリアに頭を下げる。
マオたちと一緒に待ってるね、とリチャードは聞き分けよくチャールズの仕事が終わるのを待っていた。
フレデリク領の屋敷に来ると、リチャードはシオンを連れたマオ、リーシュと一緒に遊びに出かけ、マリアはチャールズと共に執務室で書類に取り掛かった。
エンジェリクとフランシーヌの国境地帯。所有者争いを続けている土地。
フレデリクの領主は、他の土地の領主に比べても多忙で、仕事が多い。だから、新米領主でまだまだ勉強中のチャールズでは、手こずってしまうのも仕方がない。
チャールズは必死に書類に挑みつつ、夕刻頃、楽しそうにマオたちと一緒に帰ってきたリチャードの姿を窓から見て、羨ましそうにしてみたり。
そういった素直なところは、昔と変わらない。
「……今日はこれぐらいにしましょうか」
片付けた書類が、残っている書類よりも多くなってきた頃、ラドフォード伯が声をかけてきた。ラドフォード伯も、チャールズの書類整理はちゃんと手伝っている。
「もう、終わりでいいのか?」
もっと夜遅くまで働かされるものかと思っていたチャールズが、意外そうに言った。
「長く働けばいいというものではありません。かえって効率が悪くなってしまいます。レミントン公がどうしても働きたいと言うのでしたら止めませんが……夜ぐらいは、リチャード様やオルディス公爵と過ごしたいのでは?」
ラドフォード伯が言えば、チャールズが急いで頷く。そして、目にも止まらぬ速さで執務室を出て行ってしまった。
たぶん、リチャードに会いに行ったのだろう。
マリアはくすくす笑いながら、フレデリク領主のサインが終わった書類をまとめる。ラドフォード伯も、書類を丁寧に分類していた。
「チャールズ様、真面目に頑張っていらっしゃるようですね」
「ええ。昔のお姿からは、想像できないぐらいに」
穏やかにマリアの世間話に応じながらも、ラドフォード伯の表情が曇った。
「……とても頑張っていらっしゃるのに、素直に彼を認められない私は、心が狭いのでしょうね。いつまでも、昔のことにこだわって……」
「それは当たり前ですわ。だって、まだ一年も経っておりませんもの。それでチャールズ様を見極めた気になって、結論を出すのは早すぎますわ」
チャールズの成長と覚悟を認めるには、もっと時間がかかるもの。一生をかけて、ようやく……でもおかしくはない。
元に戻ってしまう可能性が消えたわけではないし、一度変わったように、また変わる可能性だってある。どんな人間であったか……それが決まるのは、命終わるその時。その時まで誰にも分からないのだ。
夜、ようやくリチャードとゆっくり過ごすことができたチャールズは、リチャードが眠った後はマリアの部屋に来て、マリアに労をねぎらってもらっていた。
マリアを抱き寄せ、甘えるように身をすり寄せてきて……ぽつりと呟いた。
「ヤンズが、エンジェリクに来てるんだよな?フレデリクで……俺の仕事を手伝ってもらうということは……?」
「それは難しいかもしれません」
しゅんとしているチャールズに苦笑しながら、マリアが言った。
「クラベル商会の事務長さんが、すっかり彼のことを気に入ってしまって。手離してはくれないかと」
エンジェリクに来たヤンズは、自分で生計を立てるため、仕事を探した。
遠い異国で仕事に就こうと思ったら、当然、マリアに頼るのが手っ取り早い。彼の能力はよく知っているから、クラベル商会なら問題ないだろうと思って紹介してみたら……予想通り、デイビッド・リースが気に入ってしまって。
「それに、ヤンズもシャンタンと離れたくないでしょう。シャンタンは、ここでは暮らせませんわ」
「……そうか。そうだよな……」
セイランの尊い血を引く赤子。託されたヤンズには、あの子を育てる使命がある。
とは言え、ヤンズ一人では育てられない。マリアたちが手伝いながら、ヤンズも子育て勉強中だ。
マリアたちが滞在して三日目。
ようやく仕事も終わりが見え、明日からはリチャードたちとゆっくり過ごしてもらって構わない、とチャールズもラドフォード伯から休みの許可をもらった。
喜んだのもつかの間。その日の夜、屋敷に一通の手紙が届いた。
「……フランシーヌから、使節団が来る」
手紙を読んだチャールズは、少し青ざめていた。
「新たなフレデリク領主と友好的な関係を築くため……と、あるが……明日にはこちらに着くそうだ」
「友好のために……事前に承諾を取ることもなく、押しかけてくるのですか」
ラドフォード伯は冷たく言い、ため息をつく。マリアもため息まじりに口を挟んだ。
「明日ですか。ずいぶん急ですね」
「できれば来てほしくない。リチャードに会わせたくないし、リーシュだって幼い子を連れてるんだ。追い返すことはできないだろうか……」
思わず本音を漏らしてしまったチャールズに、無理です、とラドフォード伯が答える。
「エンジェリク本国ならまだしも、このフレデリク領で彼らと揉めるのは……」
「……そうだよな。分かってる。もてなすしかない……弱気なことを言ってすまなかった」
いえ、とラドフォード伯は首を振った。ラドフォード伯も、心情的にはチャールズに甚だ同意だ。
「オルディス公爵にも、彼らの歓迎に加わってもらったほうがいいかもしれません――レミントン公、反対したいお気持ちは分かります。私も、恥知らずな提案をしている自覚はあります。ですが、なるべく早く、穏便に帰ってもらうためには……」
「構わないわ。色仕掛けでも何でも。それで連中をさっさと追い返せるなら」
長居されたり、揉めたりするぐらいなら。我が子のためなら。
娼婦役ぐらい買ってでもやってやる。
フランシーヌ人の使節団。過去に、そういう連中がエンジェリクに来たことがある。
あの時のことを思い出すと、いまでもはらわたが煮えくり返る。危うく、我が子も命を落としていたかもしれなくて……。
そんな経験があるだけに、マリアもまた、フランシーヌ人の訪問を歓迎する気にはなれなかった。




