道を辿る (2)
パトリシア元王妃が暮らす尼僧院。院長はにこやかにマリアたちを出迎え、彼女のいる部屋まで案内する。
院内の廊下を歩きながら、チャールズはしきりに不思議そうな顔をしていた。
……そんな反応をするだろうな、とマリアも予想していた。
俗世の賑やかさとは無縁の、静かな聖域――それが、一般的な尼僧院のイメージ。
ところがここは、聖職者たちの住まいとは思えないほど華やかで。通りすがりの尼僧も、若い男を見て楽し気にはしゃいでいる。
「本当に、ここに母上が……?」
院長に聞こえないよう声を落とし、チャールズが尋ねてくる。ええ、とマリアは苦笑いで頷く。
「ヒューバート陛下が選んだのです。彼がまだ殿下と呼ばれていた時代……先の王、グレゴリー陛下を説得して」
パトリシア王妃と離縁し、彼女を尼僧院に送る。城から遠く離れた場所へ……彼女の存在が、二度と自分を煩わせることのないよう。
そうグレゴリー王は決定し、パトリシア王妃を僻地の尼僧院に幽閉するつもりであった。
異を唱えたのが、グレゴリー王の息子ヒューバート王子だった。
「彼女は、聖ウェルス尼僧院にて預かってもらうべきだと思います」
「聖ウェルスだと?あの金持ちの道楽で営んでいるような尼僧院にか?」
聖ウェルス尼僧院は、大富豪の未亡人が建てた尼僧院である。
尼僧院にも色々あり、清貧を美徳とし、慎ましやかに厳かに尼僧たちが暮らす場所もあれば、聖ウェルスのように、清貧などどこ吹く風――要するに、尼僧院とは思えないほど俗っぽく、そこで暮らす尼僧たちも。貴族や裕福な娘たちが花嫁修業代わりにやってくるサロンのような場所なのだ、そこは。
そんな場所に、パトリシア王妃を。あの女を喜ばせるだけだ。
「あの女は、もっとその身に相応しい尼僧院に送り込んでやるべきだ。惨めに朽ち果て、誰からも忘れられてこの世から消え去るべきなのだ」
彼女を妃にしたこと……グレゴリー王にとって、耐えがたい屈辱であった。その恨みを晴らすかのように、グレゴリー王は忌々し気に吐き捨てる。
父の味わった屈辱を理解できないわけではないのだが、ヒューバート王子は同意しなかった。やんわりとした口調ではあるが、父の決定に反対した。
「王が離縁した妃を、僻地の尼僧院に追放した――そのようなことになれば、世間の関心はいやでも集まってしまいます。ですが、聖ウェルスなら」
若い愛妾に入れ込んだ王に愛想をつかし、妃は城を出て行った。すべてに嫌気がさして、尼僧院へ。
多少は面白い醜聞となるが、そこまで関心を引くほどのものではない。
下手に興味を引いて、パトリシアに近づく者が現れたら……そうやって近付いてきた者に、パトリシアがすべてを話してしまったら。
だからできるだけ、世間の関心を引かぬように努めるべき――ヒューバート王子の提案は堅実で、理に適っている。グレゴリー王も、王子の提案をはっきりと反対はしなかった。
……しなかったが。
なぜ……こうなってまで、あの女はさして不幸にならないのかと。不満を隠し切れないでいた。
「……父上」
ヒューバート王子が笑う。
「あの女のことは、僕が責任を持って見張ります。父上はもう……たくさんのことを背負い過ぎました。パトリシアのことなど忘れ、これからの時間は、ご自身のためにお使いになるべきです。愛しいマリアと、マリアがこれから生んでくれる子のことだけを想って」
王子の言葉に、険しい表情で拒んでいた王も、フッと顔を緩めた。
そばで王と王子のやり取りを聞いていたマリアに視線をやり、王もついに頷く。
「すまぬな、ヒューバート。王としても、男としても半端者の余は、そなたに苦難を強いてばかりだ」
そう言いながらも、王はマリアを抱き寄せ、それきりパトリシア王妃のことなど忘れてしまったようだった。
当時のマリアはクリスティアンを身ごもっていて、王は、マリアの子が生まれる日を心待ちにしていた。いつまでも、忌々しい女のことを考えるより、愛しい子を慈しんでいたかったのだろう。
こうしてパトリシア王妃は城より追放され、王都から離れた尼僧院が身柄を預かることとなった。
そして聖ウェルス尼僧院。マリアも、彼女と会うのは数十年ぶりだ。
パトリシアは、ヒューバート王が手配した人間によって世話をされ、監視されている。だから、彼女の近況は知っていたが……チャールズも、部屋に入り、豪奢なベッドで眠っている母を見て緊張していた。
「……パトリシア様。今日はパトリシア様にお客様です。特別なお客様ですから、自由にお喋りを楽しんでも構いませんよ」
優しい口調で、院長は幼子に言って聞かすように話しかける。パトリシアはぱちっと目を開け、視線だけを動かして部屋に入って来た人を見た。
「母上は、名前を……?」
「尼僧になったわけではありませんもの。彼女は、ここではあくまでお客様ですわ」
ひそひそと問いかけて来るチャールズに、マリアも小声で答えた。
パトリシアは尼僧になったわけではない。だから名前も、俗世で使っていた時のまま。客として、ここで丁重にもてなされている。
この部屋を飾る品々の一切を、パトリシアの死後、すべて聖ウェルス尼僧院に寄贈するという条件と引き替えに、なかなか裕福な暮らしをしている。
……ただし、自由はない。
パトリシアは、もう何年も寝たきりであった。
身体に不調を抱え、一日の大半をベッドで過ごしている。動かせないわけではないのだが、甲斐甲斐しく世話をしてくれる人間もいるので、無理に弱った身体を動かすことはしなかった。
必要最低限のことだけ……楽しいおしゃべりにだけ、応じていればいい。
相変わらず、パトリシアはどこかズレた女なのだ。自分の不調の原因を、考えたこともない。自分の世話をしている人間が、ひそかに薬を盛って不審にならない程度に少しずつ弱らせていっていることにも、気付こうともしない……。
「お久しぶりです、母上」
院長が出て行くと、チャールズは静かに声をかける。
パトリシアはぱちくりと目を瞬かせ、たっぷり悩んでから、ようやく目の前の男の正体を理解した。
「私が知ってる姿とは違うけれど……私のことをそう呼ぶってことは、チャールズなのよね?」
「はい。最後に会った時から、十四年が経ちました。俺もずいぶんと変わって……」
言いながら、思ったよりも母が変わっていないことに、チャールズが戸惑っているのをマリアは感じ取っていた。
さすがに年を取り、王妃として暮らしていた頃の美貌は色褪せていたが、どこか現実離れした雰囲気は変わることなく……チャールズを見ても、懐かしさや動揺をうかがわせることなく、十四年前とまったく変わらぬ反応だ。
もっと惨めで過酷な暮らしを強いられているのかと思いきや、城にいた頃よりはずっと狭い部屋ではあるが、相変わらず豪奢で派手な内装で。
「母上。今日は、母上にお尋ねしたいことがあって会いに来ました。俺の、父親のことです」
何もかもが予想と反した状況を無理やり流し、チャールズは本題に入った。
母親を前にすると、十四年前の幼稚な自分をいやでも思い出してしまうので、早めに離れたかったのかもしれない。
「俺の妹ジュリエットは、父上の娘ではありませんでした。なら、俺は……?俺は、まこと、父上の子なのでしょうか?」
決死の思いだった。
エンジェリク王の子。それが、王子チャールズの重要なアイデンティティでもあった。十四年前に、それが根底から覆るようなことが起きて。それからずっと、チャールズの中でくすぶっていた疑問。
答えを聞くのが恐ろしいが、目を逸らし続けるのも辛い。
そんなチャールズに対し、パトリシアは顔色ひとつ変えることなく、また目をぱちぱちと瞬かせるだけだった。
「あなたはグレゴリー様の息子じゃないわ。私の子ですらない」
グレゴリー王の子ではなかった。やはり。
だが、それを悲しむよりも先に、思いもかけず突き付けられた真実に、チャールズも目を瞬かせた。
「俺が……母上の子ですらない?」
「そうよ。私が生んだ子じゃないの。私が子どもを生んだのは一度きり。初めて子どもを生んだ時、うんざりしたわ。長い間、あれをするな、これもするなと制限されてばっかりなのに、ようやく子どもが生まれたと思ったら、身体はぼろぼろで……こんなこと、二度とやりたくないと思ったのよ。もしあなたを先に生んでいたら、次の子は生まなかったわ」
平然とした表情で、パトリシアは何気ない世間話と変わらぬ口調で言い捨てる。
何もかもに面を食らい、チャールズはぽかんと口を開けてパトリシアを見つめた。
「……ずっと、これは喋っちゃだめって言われて来たけれど、院長は、今日は自由にお喋りしていいって言ったわ。だからきっと、今日はいいのよね?あなたを生んだのはエステル……私の姪……私のお姉様が生んだ娘――そうそう。エステルも、私の生んだ子じゃないわ。あんな変な子を私が生んだなんて、そう思われるのは嫌だったわ。私もおかしいと思われるじゃない」
パトリシアは、思いついたことをそのまま口にしている。だから、チャールズは情報が整理しきれず混乱気味だ。
腹違いの姉も、パトリシアの娘じゃなかった。パトリシアの姪で……パトリシアには姉がいて、本当は彼女の娘。そして自分は……。
「チャールズ様の本当のお母様は、エステル・レミントン――パトリシア様の姉ポーリーン様が生んだ娘。その娘の子が、チャールズ様なのです。エステル様は、ジュリエット様のいとこだったのですよ」
マリアが、改めてチャールズに説明する。
まだペラペラと一人で勝手にお喋りをするパトリシアは、彼女の召使いに任せて、マリアたちは部屋を出た――あの召使いの女は、ヒューバート王がここに寄越した監視役。
人の好さそうな笑顔で、パトリシアに対して従順かつ献身的に仕えているが、彼女の言動を見張り、少しずつ彼女を弱らせていく役目も負っている。
「ポーリーン……義姉上に仕えていた侍女のポーラのことか?そうか……なぜ彼女がジュリエットの秘密を知っているのかずっと不思議に思っていたんだが……母上の実の姉だったのか……」
「ポーリーン様は先代のご当主様に疎まれ、色々と事情があって、ご自分の娘を妹の子と公称するしかありませんでした」
エステルの実父は、パトリシアの最初の夫だ。ポーリーンは妹の夫の愛人となり、子を身ごもった。
先代の当主――ポーリーン、パトリシアの父親は、その夫の財産を欲しがった。エステルには財産を継ぐ権利があったはず……遺言で、エステルの父親は娘を指名している。たぶん、正妻だった妹の子とすることで、レミントン家は彼の財産を手に入れたのだろう……。
「チャールズ様。あなた様の父親は、グレゴリー王ではなく……彼の父、リチャード王です」
チャールズは目を見開いた。衝撃で、しばらくは何かを話すどころか、何かを考えることもできないでいるようだった。
マリアでも、この事実を知った時、にわかには受け入れられなかったものだ。
……でも、マリアの言葉をまったく疑わない様子を見るに、チャールズも、リチャード王の晩年の乱心っぷりは知っていたのかも。
「セイランで……華煉にいた頃、少し聞いたんだ。祖父リチャード王が、彼らが作った特殊な阿片に溺れていたことを。レミントン家の手引きでエンジェリクで商いをするようになって……以来、エンジェリク王家からは睨まれていて、あのあたりではすごく仕事がしにくい……そんな愚痴を、ちらりと」
セイランの作った特殊な阿片――純精阿片。
年老いて、身体に痛みを抱えるようになったリチャード王は、薬を求めた。その薬が、我が身を破滅させる恐ろしい毒とも知らず。
偉大で強靭だった王を破滅させたものは、わずかな薬。強烈な薬物で廃人と化し……。
……そういう点では。
チャールズ本人にそのつもりはなかったのだろうが、彼は、自分の両親の敵を討ったとも言える。
リチャード王を堕落させ、エステルの人生をめちゃくちゃにした原因のひとつ。
敵討ちのつもりなどまったくなかったのに、他ならぬチャールズが、自分の手で決着をつけることになったとは……なんとも皮肉な巡り合わせだ。
「……宿に戻りましょう。今日はもう、ゆっくりお休みになられたほうがよさそうですわ」
ひたすら混乱するチャールズに向かって、マリアは言った。
チャールズは頷き――それきり口を開くこともなく、馬に乗って宿に戻り、ぼんやりと。思考の海に沈みきったまま、自分のベッドに入っていた。
マリアもいつもと変わらぬ態度で接し、何も気づかぬふりで自分のベッドに入り、横になったが。
もぞ、と背後で動く音がする。チャールズがまったく寝付けないでいることは分かっていた。
眠れるとは、とても思えなかった。
マリアは静かに起き上がり、チャールズのベッドに近づく。自分の出生にまつわる真実――そのことで頭がいっぱいなチャールズは、マリアが自分のベッドに入ってきたことにも気づかない。
マリアが手を伸ばして、チャールズの手に触れて……ようやく、チャールズはマリアに気付いた。
びくっと反応した手が、恐るおそるマリアの手を握り返す。
チャールズの背中にマリアはもたれかかっていたが、やがてチャールズの身体が大きく動き、マリアを抱きしめてきた。自分の胸元に顔を埋めてくるチャールズを、マリアは優しく撫でた。
マリアの胸元に、じんわりと何かが広がっていく。それは、あたたかい……チャールズの涙。
かすかに聞こえる嗚咽は聞かなかったふりで、幼子のように泣きじゃくるチャールズを、マリアは抱きしめていた。
十四年前の、あの頃のように。
前作では愚かな一面が強調されたリチャード王ですが
平民からは絶大な人気がありました
平民人気を利用して面倒な貴族諸侯相手に好き放題していたところはありますが、
自分を支えてくれる層ですから、平民を好ましく思っている王でもありました
城の中ではめちゃくちゃな王様でしたが、
城の中のことなんか自分たちには直接関係ないという平民たちにとっては
やっぱり素晴らしい王様だったわけで
グレゴリー王よりは君主としての才能がある人でした
グレゴリー王は、父親のめちゃくちゃっぷりに困らされた反面、
父王が原因で多くの貴族たちが城から離れていたのを逆に利用して、
自分に都合の良い人事を行えたという恩恵も受けていたりします
だから当人は平凡でも、それなりに有能な王としての評価も得られたわけです
父王のせいで、と、父王のおかげで、の両方があるからこそ、
父親への感情を拗らせてしまいました




