長い旅路 (3)
皇后シャンタンから渡された手形のおかげで、しばらくの間は、旅も平穏なものだった。
だが国境へ近づくほどに、取り巻く環境は不穏なものになっていく。セイランの衰退……崩壊の兆しは、地方へ行けば行くほど露わになっていくのだから当然だ。
ベナトリアへの国境は、北方の遊牧民族と争う前線にも近い。国境越えの前に改めて準備を整えようと立ち寄った村で、チャールズたちは不穏な話を耳にすることになった。
「あんたらもベナトリアへ向かってるのかい?なら、なるべく急いだほうがいいぞ。このあたりは、軍隊が人集めをしているんだ……若い男なんぞ、すぐに連れて行かれてしまうぞ……」
ほとんど人のいない寂れた村。小さな村だが、その過疎化が一気に進んだような気配があった。
空き家ばかりだが、数週間前までは誰かが住んでいたような痕跡が。
「軍隊に連れて行かれたのもいるが、大半は自分からこの村を出て行ったんだよ……。もうこの国は終わりだ……他に頼りがあるようなやつは、とっくにそっちへ行っちまった……。わしは他に行く当てもないし……もうこの年だ……ばあさんが眠ってるこの村で寿命を待つことにするよ……」
そう言って、老人はよろよろと自分の家へと帰っていく。
食糧を分けてもらえないかと考えていたのだが……そろそろ、腹を据えて動き出すべきかもしれない。
「リーシュが食べていいよ。赤ちゃんがいるんでしょ?僕は強い子だから平気だよ!」
リチャードは強がって、妊娠中のリーシュに自ら残り少ない食糧を譲ろうとする。半分こにしましょうか、とリーシュも微笑んで答えた。
……二人とも、限界が近い。
華煉で人並み外れた訓練を受けてきたマオはもちろん、それなりに荒っぽい経験をしてきたチャールズには、これぐらいの旅はどうということはない。好んでやりたいとは思わないが。
幼いリチャードと、妊娠中のリーシュは危険だ。
セイラン軍と、ハオ軍――遊牧民族による侵攻軍を避けて旅を続けてきたが、多少のリスクは諦め、ベナトリアへの国境に急いだほうがいいかもしれない。
マオに相談してみたところ、彼も同意見で。こうして慎重さよりも迅速さを選択して、旅の道を切り替えた……途端、出くわしてしまった。
「待て!貴様……セイラン人ではないな!?」
ハオ軍でなかったことは、不幸中の幸いだった。ハオ軍だったら、話をする間もなく攻撃されていただろうから。
……だからと言って、セイラン軍も会いたくはなかったが。
チャールズもリチャードも髪を黒く染めてはいるが、生粋のセイラン人の黒さに比べればやはり異質だった。髪は染められても、瞳の色は誤魔化せないし、リチャードの顔立ちは明らかにセイラン人のそれではない。
セイラン軍には、シオン太師の信望者も多い。それだけに、シオン太師を軍隊から離れさせたマリアの評判は特に悪くて……。
「その子ども……シオン将軍の息子か!?あの女狐が生んだ……!」
やはり、リチャードのことを知っていた。
一人が声を上げれば、他のセイラン人たちも気が付いたようで。不穏な空気に包まれ、セイラン人たちはそれとなくリチャードたちを取り囲む。
理由は分からないだろうが、リチャードも自分に向けられる敵意を感じ、怯えてチャールズにしがみつく。マオも不安そうにしているリーシュをかばいながら、さりげなく武器を手に取っていた。
……斬り崩して、逃げ道を作るしかないか。
チャールズも覚悟を決め、武器を構えようとしたとき。よく通る声が、場の空気を一掃した。
「何をしている」
高位の階級を表す鎧を身に纏った男。まだ若いのに、その姿には貫禄があって……在りし日のシオン太師が思い起こされる。
彼のことは、チャールズも知っていた。時々宮廷に来るのを、遠くからちらりと見ただけだが。
華煉を憎む彼には近づくなと、生前シオン太師から注意されていた。
セイラン皇族最後の生き残り――将軍ダリス。
グーラン皇帝のいとこで、フーディエ夫人の息子。チャールズがシオン太師のもとで世話になる頃には、彼は地方へ行ってしまって、直接顔を合わせる機会はなかった。
だが彼のほうは、きっとチャールズたちのことをよく知っているはず。
「ダリス様!こいつらは、シオン様の……!」
「知っている。叔父上のことは、おまえたちに言われずとも……そいつらが誰なのか問いかけたわけではない。セイランを守る任務を放棄してまでこいつらに詰め寄って、なにをしているのかと、おまえたちに聞いているのだ」
ダリス将軍は厳しく言い、兵士たちを見回す。
そして、チャールズも気づいた――ダリス将軍の右腕。袖が不自然な形になっていて、右手が見えない。彼の右腕は……。
「異人のことなど放っておけ。俺たちには、セイランを守る使命がある。異人のそいつらには、所詮無関係――セイランのために戦うのは、セイラン人だけでいい」
冷たく言い捨て、ダリス将軍はチャールズたちに背を向ける。一部の兵士は少し不満そうな顔をしていたが、ダリス将軍を追いかけて行き、チャールズたちだけがその場に取り残された。
……助けられたのだろうか?
国境へと続く道は、二つある。
少し遠回りになるが、険しい山道。それよりも進みやすく、距離も短い林道。
当然、たいていの人間は林道を行く。
だからこそ、チャールズたちは山道を越えていきたい――林道は、恐らくハオ軍も見張っているはずだ。女子供を連れたチャールズたちは、監視するのも面倒な山道を選ぶべきだろう。
しかし……リーシュは妊娠中で、早くベナトリアについて休ませてやらないと……食糧も残り少なく、悠長に旅を続けている余裕はない。
こうして林道を通ることとなり、リーシュはマオの馬に、リチャードはチャールズの馬に乗せ、なるべく急いで通過しようとしていた。
ここさえ越えてしまえば……。
「リーシュ、辛いだろうが、馬を飛ばす。リチャード、しっかりしがみついておけ」
不思議そうにしながら、二人はチャールズの指示に従う。
マオが気配に気づき、それを受けて、チャールズも愛馬に合図を送った。頼りになる相棒は騎手の合図を読み取り、勢いよく走り出す。
――途端、チャールズとマオの馬を追い、後ろから騎馬隊が飛び出してきた。
「マオ……手銃だ!馬に気をつけろ!」
騎馬隊がこちらに投げつけてきたものを見て、チャールズが叫ぶ。
手銃――ハンドキャノンとも呼ばれるその武器は、ハオ軍の騎馬隊が愛用している。
この武器は火薬を用いられている。威力は大したことはない。殺傷能力はほとんどない。だが、派手に火薬が破裂する音は、馬を激しく動揺させる。
チャールズの危惧した通り、手銃の破裂音にマオの馬は驚き、大きな声でいななく。振り落とされないようリーシュは必死に馬の首にしがみつき、マオも手綱を引っ張って体勢を立て直そうと必死だ。
「リチャード、レイの首にぴったり貼り付いてろ!絶対に頭は上げるな!」
猛スピードのまま愛馬を急反転させ、チャールズは騎馬隊に向かって突進していった。
投げつけられる手銃を軽々と避け、破裂音に動揺することなく、チャールズの愛馬レイは駆けて行く。
いまさら、レイがそんなもので動揺するはずがない。うっそうとした林の中、視界も足場も最悪だが、レイはためらいなく走り抜けた。
馬にすべてを委ね、チャールズも手綱を手放して弓を引く。木が邪魔で、狙いは定まりにくい――が、その悪条件は向こうも同じ。
手銃が従来よりもその効果が弱いのは、生い茂る木が邪魔でなかなか使用できないから。
……弓の腕なら、チャールズにも自信がある。
甲冑の隙間を正確に狙って撃つ。三人ほど馬から落としたところで、レイをもう一度急反転させ、動揺する騎馬隊を置き去りにして走り抜けていった。
三人落馬させた程度では、騎馬隊には大した被害にはならない。ただ、チャールズたちを諦めさせる牽制になれば……。
馬に任せて走り続け……前方に、マオとリーシュを乗せた馬を見つけた。後ろをちらりと振り返ってみたが、ハオ軍の見張りも、チャールズたちを追うのは断念したようだ。
無事に合流したあと、チャールズたちは一気に林を駆け抜けていった……。
そうしてようやく到着したベナトリアの国境。
最後の難関がここだ。
「俺たちはエンジェリクに行きたい。この子は、エンジェリクのオルディス公爵の息子だ」
たどたどしいベナトリア語を駆使して、関所の見張りに懸命に訴える。
セイラン人の脱出は留まるところを知らず、隣接するベナトリアは入国者を厳しく審査していた。ベナトリアへの入国を許されず追い払われる者も少なくはない。
チャールズたちも勾留され、他の入国希望者たちとひとまとめに牢に放り込まれるところであった。
本来は罪人ではないのだが、あまりにもベナトリアへ逃げ込もうとするセイラン人が多すぎて、いまはそういう措置を取っているらしい。
入国希望者のグループは、男女で別の牢に入れられてしまう。リーシュと引き離されてしまう前に、ベナトリア人の騎士に訴えておく必要があった。
「それに、彼女は妊娠してる。俺たちは牢で構わない。だが、この子と彼女だけは……」
ベナトリア人の騎士はうさんくさそうにしていたが、他の騎士と何やら話し合い、女と子供はこっちへ来い、と別途指示を出してきた。
「リチャード、おまえはリーシュと一緒に行け。俺たちのことは心配するな。おまえは、リーシュをしっかり守ってやるんだ」
離れることにリチャードは怯えていたが、チャールズはなだめるようにそう言った。
リチャードを迎えに来た騎士は、明らかに階級が高い。オルディス公爵の名前が出てきたから、うさんくさくとも、万一を考えた対応に切り替わったのだ。
ベナトリアの王は、エンジェリクのマリア・オルディス公爵にご執心らしい――そんな噂をチャールズも聞いて、利用できないかと苦し紛れに訴えたが……どうやら、マリアの名前は思った以上に効果があったようだ。
いったい、どれだけ男を誑かしてるんだか、あの女は。
……自分が言えたことではないが。




