長い旅路 (2)
牢屋に、誰か人が入ってきた。
マオほどではないが、チャールズも気配を察する術は身に着けている。だから、誰かが自分に近づいてきていることもすぐに分かった。
……なんて、そんな恰好をつけるほどのことでもないか。
これぐらいだったら、特別警戒していなくても気づきそうだ。相手は、無防備に近づいてきている……。
「シャンタン……?それにリーシュと、ヤンズ?」
周囲をうかがうように、リーシュとヤンズを連れ、皇后シャンタンがチャールズのいる牢屋に近づいて来る。
ヤンズが当然のように持っていた鍵で牢屋を開け、チャールズは再びそこから出た。チャールズが出てくると、リーシュがさっと荷物を渡してくる。
反射的にそれを受け取ってしまった――中身は、旅用の荷物。
「これを。どうぞ、お持ちください」
皇后シャンタンが差し出したものは、手形。関所などを通過するために見せる、身分証明書のようなもので……これがあれば、セイラン国内の移動は格段に楽になる。
華煉にいた頃は、偽造の手形を所持して移動したものだ。手形にもランクがあり、このレベルのものは、華煉でも偽造できたかどうか……。
「これは……セイラン皇室の手形」
この国で最も効力の強い手形。もちろん、シオン太師も持っていた。太師の遣いをするときに借りることがあったから、チャールズも見覚えがあった。
でも、どうしていま、自分に……?
「……グーランが死にました」
皇后シャンタンは、消え入りそうな声でそう言った。チャールズも思わず息を呑み、リーシュやヤンズも苦しげに顔を歪める。
「彼が亡くなったのは、いまから一週間前……。ごめんなさい。フーディエ夫人からの助言もあって、ずっと隠していました。今日、少しずつ周囲にも打ち明け始めたところで……」
それで、自分とリチャードのもとに、あんな奴らが来たわけか。
以前から目障りだと思われていたのは知っていたが、どうして急に、という疑問はあった。皇帝の死……次の後継者の問題が具体的に迫って来るようになって、リチャードを放置するわけにいかなくなった。
セイラン皇室には、後継者がいない。
子を遺さぬまま皇帝が死に、寡婦となった皇后、年老いたフーディエ夫人、再婚することなく前線で戦い続けるダリス将軍……。
シオン太師はリチャードが養子で、皇位継承権など有り得ないと明言していた。
それでも、太師はセイラン国内で絶大な人気と実績があり、息子リチャードも民草からは可愛らしい太師の子として受け入れられていた。皇帝たちもリチャードを可愛がっていて……何かのはずみに、リチャードが皇帝となってしまうのではないかと恐れる声も消えなかった。
皇帝が崩御したいま、リチャードのことは、すぐにでも片付けてしまいたいと思う人間が現れても、不思議ではない。
「……ジンラン様。どうかお逃げください。リチャードと一緒に。セイランは……もう終わりです。異国のあなた方が、この国と命運を共する必要はありません」
話すシャンタンの声は、震えている。けれど、決然とした口調だ。
チャールズも、悲痛な思いで、自分を真っ直ぐに見つめる皇后を見つめ返した。
「私は逃げません。グーランが愛した国だから……。未熟で、何一つ成し遂げることのできない愚かな帝と……後の世の人たちはきっとそう評価するでしょうけれど、私は、彼のそばで、ずっと見てきたから……帝の后として、私も自分の務めを果たします」
グーラン皇帝は、たしかに……有能な君主ではなかった。だが、本人の資質以上の問題が大き過ぎた。
グーランはもともと市井の男として生きるはずで、帝王教育など受けていなかった。それなのに、すでにボロボロになった国の帝となってしまって。彼を支えるには、周囲ももろ過ぎて。
あまりにも、状況が悪すぎた。それを乗り越えるには、グーランは平凡な男だったのだ……。
「一つだけ、私からお願いが――ジンラン様、リーシュも連れて行ってあげてください」
皇后に言われ、今度はリーシュに視線をやる。リーシュはちょっと目を丸くしていた。皇后の要求は、リーシュにとっても予想外のことだったらしい。
皇后シャンタンはリーシュに振り返り、彼女の手を握る。
「リーシュ、あなたも逃げるの。あなたは生き延びなくてはいけないわ。マオと一緒に……」
リーシュは黙り込み、皇后の手を握り返した。自然と、二人の視線が下がって……リーシュのお腹に。
鈍感なチャールズでも、それが何を意味するかは察した。
シオン太師及びリチャードの従者として、チャールズとマオはシオン太師の館で暮らしている。彼らの世話をするために、リーシュも侍女として働いており――ひとつ屋根の下、共に過ごしている内に、リーシュとマオがそういう関係になっていたのは知っていた。
……意外と、有能なようで、マオは世間の価値観や常識からズレたところがあり、世話焼きなリーシュは弟を世話するようにマオの面倒も見て……でも、本当の意味で姉弟ではないから、互いに意識するようになったのだと思う。
こっそり聞いてみたら、マオのほうが積極的にアプローチしたらしい。
「姉上、行ってください。この国には、私が残ります」
ヤンズが言った。
弟の言葉に、リーシュは青ざめる。すがるような視線を自分に向ける姉に、ヤンズは明るく笑った。
「言っておきますけど、私は死ぬ気はゼロですよ。だって、誰かが生き残っていなくちゃ――この国で生きた人たちのこと……彼らがどんな想いを抱いていたのか、それを語れる人間がいなくなっていまいますから。すべてを見届けて、後世にまで語り継いでいく……それが私の使命です。だから、絶対に死んだりしません」
はっきりと言い切った弟に、リーシュは反論しなかった。涙を堪えるように、少しだけうなだれて……弟を抱きしめ、やがて彼から離れた。
「……シャンタン。俺からも、一つ頼みが」
チャールズは、皇后を見た。
「あなたの簪をひとつ、俺に譲ってほしい」
「簪……?」
自分の髪を飾る簪に手を伸ばし、皇后シャンタンは首を傾げる。チャールズは頷いた。
「それをエンジェリクに――マリアに届ける。必ず」
マリアの名に、皇后シャンタンが息を呑み……静かに、思い出に浸るように吐息を漏らした。
マリアがいた頃。
シオン太師に守られたこの国で、愛する人と一緒に、国の未来のために生きようと誓い合い、支え合った――二度と帰らない日々。
皇后シャンタンは、自分の髪から簪を引き抜き、チャールズにそれを差し出す。
「必ず届けてくださいね。マリア様に……生きて、リチャードと一緒に……」
今度こそ牢を出て、都を出て、用意された馬に乗り、リーシュと共にチャールズは国境へ向かった。
リチャードを連れたマオが先に国境へ向かっているはずだが……なかなか、二人に追いつけない。
マオのほうがチャールズより実力は数段上で、旅にも慣れている。チャールズが追いかけてくることはないものと思って、幼い子を連れてはいるが、ためらいなく先へ進んでいるのだろう。
できれば、国境に着く前に合流しておきたい。自分一人ならまだしも、小さな命を宿したリーシュが一緒では……チャールズだけで、守り切れるかどうか。
「申し訳ありません……私のせいで……」
都を出てから、リーシュは何度も謝罪の言葉を口にしていた。そのたびに、気にするな、とチャールズは励ましていた。
守る者があることは、チャールズにとっても励みになる――それは、嘘ではなかった。自分のためだけに生きるのは、なかなか難しいことだ。
自棄になることなく根気よく耐えられたのは、やはり自分がリーシュを守らなくては、という思いがあったから。
そうして諦めることなく先に行ってしまったマオたちを追いかけて十日ほど。
チャールズは、ようやく彼らに追いついたことを悟った。
小さな町に入って、リーシュを休ませるため宿を探し始めたチャールズの耳に、聞き覚えのある鳴き声が。
馬のいななき――チャールズに会えたことを喜ぶように。チャールズもその声に反応して、声の主を探す。
「レイ!」
それは、チャールズの愛馬だった。父親は、チャールズと共にエンジェリクを逃げ出した長年の相棒。
リチャードを連れて逃げ出すマオは、チャールズの愛馬を連れて行ったのだ。チャールズがそう命じてあった。
有事の際には、リチャードをエンジェリクに連れて逃げる。レイと共に。彼にも、チャールズと父親の故郷を見せてあげたくて……。
「お前がいるってことは、マオとリチャードもここだな?」
チャールズがそう話しかければ、馬は同意するように長い鼻を摺り寄せてくる。
そこは、宿屋が管理する馬小屋。マオとリチャードは、ここに泊まっている。馬は預けて。
すぐにその宿に入り、店の者に客のことを尋ねた――店の人間が何か答えるよりも先に、客室のある階上から小さな男の子が飛び出してきて、泣きながらチャールズに抱きついてきた。
「ジンラン!」
チャールズにしがみつき、わんわんと泣きじゃくる。リチャードをしっかりと抱きしめ返すチャールズのもとへ、マオも急いでやって来た。
チャールズと、リーシュを見て……彼もまた激しく動揺している。
「マオ、リチャードを守ってくれてありがとう」
最初に口を開いたのは、チャールズだった。
「お前が、俺やリチャードを守ろうとしてくれる気持ちは本当に嬉しい。それに何度も助けられた――でも、俺たちのために、自分の大切なものを置き去りにするのは止めてくれ。リーシュのこと……これから、お前が一番に守るべき相手は彼女だ」
マオはぎゅっと唇を結び、やがて、リーシュを抱きしめた。リーシュも彼の腕の中で、静かに泣いていた。
二人のことを、リチャードはちょっと不思議そうに見つめている。いまは二人きりにしてやろう、とチャールズが優しく言い聞かせ、チャールズはリチャードと、マオはリーシュと同じ部屋で休むことになった。
マオは、リーシュの妊娠を知らなかったらしい。
きっと今頃、その事実を打ち明けられて、仰天していることだろう――そんなマオを見られないのは残念だ。
でも……いまは二人きりで話をしたいはず。チャールズだって、そこまで野暮にはなれなかった。




