長い旅路 (1)
日も少し傾き始め、チャールズは遊びに出かけているリチャードを迎えに行った。
今日、リチャードは町の子どもたちのところへ遊びに行っている――チャールズが迎えに行ったとき、子どもたちもそれぞれの母親が迎えに来ていたところで。
母親に呼ばれて行ってしまう友達……みんな、手を繋いで一緒に家に帰っていく。それを、リチャードはじっと見つめていた。
チャールズが声をかけると、ようやく自分にも迎えが来ていたことに気付き、パッと駆けて来る。
チャールズの手をぎゅっと握って、一緒に家に帰りながら……友達が帰って行った方向を、時々振り返っていた。
「僕のお母さんは、優しくて、美人で、僕のことが大好きなんだよね」
母親の話題を振られ、ああ、とチャールズは頷く。
「お母さんは、僕のことが大好きだったけど、エンジェリクに帰らなくちゃいけなくなったから、僕をお父さんのところに残していったんだよね」
「ああ。本当は、お前も一緒に連れて帰りたかったはずだ。大きくなった姿を、きっと見たがっているだろうな……」
マリアがリチャードを置いていった理由は、シオン太師がそう設定して説明していた。
チャールズも、彼の意向に逆らうつもりはなかった。
リチャードは母親に愛されていて……事情があって、セイランに残ることになっただけ。シオン太師が、愛する女性との別れを悲しんで、せめてリチャードだけは自分のもとに置いていってほしいと懇願したから、マリアは泣く泣く我が子と別れた。
リチャードはそう信じている。
「僕の目は、お母さんにそっくりだって、お父さんが言ってた」
「そうだな。お前の目は、間違いなく母親譲りだよ」
シオン太師が生きている頃は、こんな風に母親のことを気にする様子はなかった。
まったく気にならなかったわけではないだろうが、シオン太師が元気だった頃は、めいっぱい自分を愛してくれる父親に満たされていたから……。
太師が亡くなり、死というものが理解できるようになって、リチャードはしきりに自分の母親のことを気にするようになった。
幼いリチャードは最初、死というものが理解できないでいた。
だが時間が過ぎ、日が経って、愛する父親に二度と抱きしめてもらえないことなのだということをだんだん理解し始めて……母親を、求めるようになった。
……セイランを出て、エンジェリクへ行くべきかもしれない。
最近のチャールズは、真剣にそのことを考えていた。
リチャードの……というか、リチャードの母親のマリアの評判は、このセイランでは芳しくない。
皇后や、マリアと直接関わっていた人々からは好かれているが、高潔なシオン太師を堕落させた女として、その悪名が広がっている。事実も含まれてはいるが、噂話に尾ひれがついて、もはや稀代の悪女だ。
毒婦マリアに誑かされたシオン太師は、前線を離れ、彼女のために宮中を執り仕切るようになった。雄々しい戦士を戦場から遠ざけた、恐るべき魔女――太師が命を惜しんだのは本当だ。
愛しい我が子リチャードのそばを離れたくなくて、自ら戦場に赴くことを避けるようになった。あれほどまでに戦いに明け暮れた人が。
それは……良いことだけではなかった。
シオン太師はその生涯の大半を戦場で過ごし、戦いに身を投じ……そういう生き方しかできない人だった。平穏な世では、生きていけない男だったのだ。
健康で丈夫な男だったのに、平穏に過ごすようになった途端、ちょっとした病であっさりと亡くなってしまって。
魔女に寿命を吸い取られた――そう囁く者もいた。
マリアは、太師の死の遠因ではあったと思う。戦の緊張感を失ってしまったことで、太師の寿命が一気に来てしまったような気はする。それは、チャールズもちょっとだけそう感じた。
生前の太師は笑い飛ばしていたが……内心では、彼もひそかに同意してたような気がする。
そしてシオン太師を喪って、リチャードは最大の庇護者を失ってしまった。
北方の遊牧民族による侵攻も一気に進み、セイランは風前の灯火だ。国を脱出するセイラン人は少なくない。その流れに乗じて、リチャードも……。
チャールズは、自分と手を繋いで歩くリチャードに視線をやった。
セイランでは珍しい、金色の髪。十中八九、この髪は父親から譲り受けたものだ。リチャードの父親が誰なのか、チャールズは当然知っていた。なにせ、マリアの妊娠を知らせに来た時、他ならぬシオン太師が、父親について言及していた。
「マリアは妊娠しておる。そろそろ、三ヶ月になるそうだ」
マオと共に裁きの日を待って牢で過ごしていたチャールズは、自分を訪ねてきたシオン太師からそう言われ、目を丸くした。
三ヶ月前……悩む必要もない。その時期にマリアに触れた男は、一人しかいない。刑部の追撃をかわしながら、共に山の中を探索して……他に、そんなことをしている機会もなかったはず。
「エンジェリク王に堕胎を迫られ、ひどく悩んでおった。どのような事情があるのかは分からんが、本当は生みたいのだろう……。わしが、子の父親になるつもりだ。だが……恐らく、その子はセイランで辛い思いをする。守ってやりたいが、わしも年だ。ずっと守り続けてやることはできぬ」
「ならば、俺が……!」
チャールズは、堪らずすがりついた。
牢にしがみつき、その子どもを自分にも守らせて欲しいとシオン太師に懇願した。
マリアが……あんなにも強情な女が、チャールズの子を生みたいと思ってくれている。ならチャールズも、諦めることは止めて、生き残るために必死にあがくことにした。
華煉のことも一通り区切りがついて……シオン太師に、華煉が持っていた玉璽も渡すことができた――彼ならば信じられると、マリアたちが教えてくれたから。
それで……自分の役目も終わりかな、と思っていたのに。悪くない終わり方だと、受け入れるつもりだった。
それが、何よりも守りたいものを得て、チャールズは生き延びることになった……。
小さな手を、しっかり握りしめる。
エンジェリク王家の血を引く男――それが、ヒューバート王やマリアを悩ませるもの。
だからチャールズに止めを刺そうとした。リチャードをエンジェリクへ連れて帰れなかった。
しかし、王妃オフェリアが王子を生んだことをチャールズは知り……いまなら、リチャードを連れて帰っても大丈夫なのではないか、そう考えるようになった。
王は男児後継者を得た。ならば、チャールズはともかく、リチャードの命までは奪おうとしないのでは。
そこまで冷酷を貫き通すなら、生まれてくる前に子どものことを始末しただろう。それはできなかった。
……きっと、いまなら。
「マオ、ただいま」
リチャードと一緒に館に帰ると、マオが出迎えた。
いま、館にいるのはマオだけ。リーシュは後宮だ。
もともと人は少なかったが、いまはいっそう人が減って、皇后シャンタンの侍女としてリーシュは働きに出ている。
ほとんど人のいない館に……今日は、ずいぶんと大勢の客が来たものだ。
「ジンラン殿、リチャード殿。大人しく、我々についてきて頂きましょうか」
宮廷からやって来た役人は、口調こそ丁寧だが、慇懃無礼な態度でそう言った。
拒否するという選択肢がないのは分かっていた。マオにさりげなく目配せをして、抵抗することなく役人たちについていく。不安そうにしているリチャードの手を、絶対に離さなかった。
連れてこられたのは、予想通り牢屋。前に入った牢よりは質素で、ちょっと居心地が悪い。
不気味で薄暗く、どこか寒々とした牢屋にリチャードは怯え、チャールズに抱きついていた。
「大丈夫だ。すぐにマオが来てくれる」
怯えるリチャードを抱きしめ、優しく声をかけて落ち着かせる。
チャールズの話した通り、すぐにマオが二人のいる牢屋の前に現れ、手際よく扉を開けた――鍵開けのやり方は、チャールズもマオから習っておこうとしたのだが……どうしても、自分には向かない作業だった。マオに、諦めて自分の救出を待っておけ、みたいな顔をされてしまったし。
「マオ!」
助けに来てくれたマオに、リチャードが抱きつく。マオはリチャードにマントを着せ、旅支度をさせる。
金色の髪が目立たないよう、しっかりフードを被らせて……。
「マオ、リチャードを頼む」
チャールズの指示を受け、マオが頷く。リチャードの手を引いて牢を出ようとするのを、他ならぬリチャードが止めた。
「待って!ジンランは?ジンランも一緒に行くよね?」
牢から出ようとしないチャールズに、リチャードが慌てる。チャールズは笑い、リチャードの頭を撫でた。
「一緒に逃げ出すと目立つだろう?俺一人なら、簡単に逃げ出せるさ――お前は、先に行くんだ」
「……ちゃんとあとから来る?」
「ああ。大丈夫だから……マオの言うことを聞くんだぞ」
チャールズに言い聞かされ、リチャードは何度も振り返りながら、マオと一緒に牢屋を出て行った。
二人の背中を見送って、チャールズは改めて、連れてこられた場所に戻る。
……年の割に聡い子だ。そういうところは、やっぱり母親に似たのだろうか。
リチャードが漠然と感じ取っていた不安――チャールズは、逃げるつもりはなかった。
リチャードとチャールズ。どうしても、目立ってしまう。どちらかは残って、囮になっておかないと。当然、残るのはチャールズだ。
簡素な囚人用のベッドに腰かけ、チャールズはため息をついた。でも、恐怖や悲しみは感じなかった。
――伯父上も、こんな気持ちだったのだろうか。
このまま残っていれば、自分を待ち受けるのは死……ただそれだけ。なのに、不思議な感覚だ。まるで、勝者のような気分で。
実際、自分は勝者だ。だって、リチャードは生き残る。例え自分は命を落としても、あの子が無事なら……それは、間違いなくチャールズの勝利だ。
あの時の伯父上も、きっと同じ。
待ち受ける死の運命から逃れられないのに……伯父は心の底から笑い、チャールズを逃がしてくれた。チャールズが生き延びることが、伯父が何よりも望んだこと。
今度は自分が、若い命を守るため――。




