避けられない喪失 (3)
マクファーレン伯にメレディスの真実を告げに行った日のことは、よく覚えている。
マクファーレン邸を訪ねて、マリアを応接室へ案内した後、自分は部屋を退出しようとしたマクファーレン伯の奥方を呼び止めた。
「ジーナ様も、どうかご同席を。お二人で、聞いて頂きたいのです」
マリアに呼び止められ、ジーナもアルフレッド・マクファーレン伯も不思議そうな表情で互いに顔を見合わせ、やがて彼女も夫の隣に並んで座った。
改めてマクファーレン伯と向き合い、マリアはぎゅっと唇を結ぶ。
酷く緊張しているマリアに、夫妻も不安そうに眉をひそめた。
「……メレディスのことなんです。彼が周囲に気付かれぬよう隠していたため発覚が遅れましたが……メレディスは、胸の病を患っております――もう、長くないだろうと……」
口にしてしまうのが嫌だったと話したメレディスの気持ちが、いま、痛いほどよく分かった。
マリアもまた、はっきりと口にすることはできなくて、思わず曖昧に濁してしまう。
マクファーレン伯には、それで十分に伝わったようだ。
驚愕に目を見開いて凍り付き、ぐらりと、身体が傾く。隣に座ってたジーナが慌てて夫を支え、マクファーレン伯は気絶してしまいそうなのを何とか踏みとどまっていた。
「そんな……笑えない冗談を……。あの子はまだ若い……私よりもずっと……。なのに、私よりも先に行ってしまうだなんて、そんなこと……」
マクファーレン伯は力なく、乾いた笑いを浮かべる。
そんな冗談を言うはずがないことを分かっているだろうに、なんとかマリアが、ジョークだと笑い飛ばしてくれないかと必死で。懇願するような視線に耐えきれず、マリアは目を逸らしてしまった。
……その行動は、マクファーレン伯に決定的な絶望感を与えた。
「そんな……そんな、嘘だ……嘘だ……ああああぁぁ……!」
頭を抱え、マクファーレン伯は人目をはばかることもなく悲痛な声を上げ、長椅子から崩れ落ちて床にうずくまってしまった。
ジーナも夫のそばに跪き、懸命に彼をなだめる。
予想はしていたが、とても冷静に見ていることができなくて……マリアも吐息を震わせ、ジーナに声をかけた。
「ジーナ様……私、今日はこれで失礼いたします。お聞きしたいことはたくさんあるでしょうが……いまは、アルフレッド様もまともに話を聞ける状態ではないでしょうし……落ち着いたらまた、改めて……」
ジーナが頷くのを確認して、マリアは立ち上がる。自分を見送ろうとするジーナを、マリアが再び止めた。
「ジーナ様は、どうかこのままアルフレッド様のそばに……。いまのアルフレッド様には、ジーナ様の支えが必要ですわ。私のことなどお気遣いなく……」
一瞬だけ迷ったようだが、ジーナは夫を支えることを優先したらしい。マリアに頭を下げ、自分の代わりに家人にマリアを見送らせ――マクファーレン邸を出る途中、夫妻の子どもたちと出くわした。
メレディスと一緒にこの屋敷を訪ねることもあったから、マクファーレン家の子どもたちはマリアに友好的だ。
「こんにちは、オルディス公爵。今日はもうお帰りですか?」
兄のジョージは礼儀正しく挨拶し、弟のメルヴィンは人懐っこい笑顔で声をかけてくる。
「今日はメレディス叔父さんと一緒じゃないんですね。叔父さん、スカーレットとばかりであんまり僕たちのところへ遊びに来てくれなくなったんです。今日は会えるかなって、期待したのに」
そう言って、メルヴィンは唇を尖らせる。わがまま言うなよ、と兄のジョージが苦笑いでフォローするが……無邪気な兄弟の会話に、胸が痛んでしまう。
胸の痛みは表に出すことなく、マリアも何気ない笑顔で応じた。
「メレディスったら、また絵を描くのに夢中になっているみたいなの。もしよかったら、あなたたちのほうから会いに来てあげて。リリアンも、メルヴィンのことが大好きだから、来てくれるととっても喜ぶわ」
賢妻の支えもあってマクファーレン伯は何とか立ち直ったようだった。息子を連れて、こまめにメレディスに会いに来て。
今日も、リリアンのエスコート役としてメルヴィンを連れてくることを口実に、マリアの結婚祝いのパーティーに参加していた。
部屋から画材道具を運んできて、黙々とマリアの絵を描き直す弟のそばに、マクファーレン伯はずっと付き添っている。
「マリア、結婚おめでとう!いやぁ、今日の君は格段と美しい……僕のためじゃないって言うのは妬けるが」
いつも以上に上機嫌で、ウォルトン団長がマリアに抱きついてくる。酒の臭いから察するに、かなり飲んでいるようだ。
「結婚祝いのパーティーで、新婦に抱きつくのはいかがなものかと思うが」
ドレイク宰相が、ウォルトン団長に冷たい視線を送る。ウォルトン団長は陽気に笑い飛ばした。
「もともと、既婚者は僕の守備範囲だぞ。前の結婚の時にはあまり感じなかったが、いまは人の妻といった雰囲気が出て、いっそう僕好みになった」
マリアの手を取り、意味ありげにウォルトン団長が口付けてくる。
調子に乗るな、とドレイク宰相が悪友を諫め、マリアも苦笑いする。
二人の向こうで、伯爵が何やらノアにお説教されている姿を見つけた。
「旦那様、どうなされましたの?ノア様に叱られているみたいですが」
ホールデン伯爵のそばには、困ったような顔をしているおじも。ノアはお説教モードで、マリアに告げ口した。
「マリア様からも伯爵に言ってやってください。性懲りもなく、ご領主殿に酒飲み勝負を挑もうとしているのです」
マリアに密告され、伯爵が気まずそうに視線を逸らす。もう、とマリアも呆れてため息をついた。
「エリオット様の底なしっぷりは、嫌というほど骨身に染みていらっしゃるでしょうに。もうお年なのですから、高を括っていると、あっという間にお酒でお腹がぽよんぽよんになってしまいますよ」
マリアにまでお説教され、伯爵は面白くなさそうに不貞腐れていた。おじはホッとした顔だ。
「もしかして、エリオット様って、お酒はあまり好きじゃないのですか?」
マリアが問いかければ、実は、とおじが頷く。
「酔わないだけに、酒を飲むことを特別楽しいとは思えないんだ。正直に言えば、こうやって絡まれるから苦手なぐらいで」
おじは底なしの酒豪だが、酒に強いからと言って、必ずしも酒好きとは限らないらしい。
マリアも酒好きというわけではないので、おじの気持ちには共感できた。
そんな他愛もない話をして、時間を過ごして――やがて、物珍しげにメレディスの描く絵を見ていたブレイクリー提督が、感嘆の声を上げた。
「いやぁ、初めて見してもろたけど……見事なもんやなぁ。ワシは武骨で、芸術なんてもんには程遠い男なんやが……そのワシでも、思わず見入ってもーたわ」
「よく分かる。俺も、芸術鑑賞なんてのはガラじゃないが、やはり魅せられるな」
ブレイクリー提督の言葉に、シルビオがしみじみと同意した。メレディスはちょっと誇らしげに笑う。
絵について褒められるのが、メレディスにとって一番嬉しいことだ。
「今回は特に、モデルがいいからね」
「それはあるかもしれんな」
皮肉も込めて、シルビオが言った。
アルフレッド・マクファーレン伯は、人に囲まれて称賛される弟を、じっと見つめている。泣き出してしまいそうな表情で……。
メレディスとの残り少ない時間。悲しみに暮れるのではなく、笑顔で弟と過ごそうと決意したようだが、それでも、ふとした時に堪え切れなくなっていた。
「お前の才能は、本当に素晴らしい。世に広く知られ、称賛を受けるべき人間だ――お前はもっと早く、その才能に相応しい評価を得られるはずだった……」
マクファーレン伯は、メレディスが描き上げた絵を見つめる。
婚礼衣装をまとった、今日のマリアの姿――絵の中の自分は、輝くばかりに美しい。幸せに満ちた表情で……実物のマリアのほうが、その美しさに見惚れてしまいそう。
……さすがに、これはかなり美化されていると思う。
「僕は十分すぎるほどの名声を得たよ。芸術家の中には、生きている間に一切の評価を受けられなかった人間もいる。その才能が、歴史の影に消えてしまった人たちも大勢……。僕はエンジェリクで最上の名誉を与えられて、外国にまでその名前が届くほどになった。心残りがあるとすれば――」
絵筆を置き、メレディスは微笑む。
「この世界には、素晴らしいものがたくさんあり過ぎて、それを描ききるには、僕の寿命があまりにも短すぎることかな。百年生きても、すべてを描き上げるのは難しそうだ」
ちょっとおどけたようにメレディスは言ったが、マクファーレン伯はぐしゃりと顔を歪めた。
泣かせてどうする、とシルビオがメレディスの頭を小突いていた。
「描き終わったのなら、一度休憩だ。無理やりにでも休ませないと、すぐ次を描きたがるからな、お前は」
そう言って、シルビオはメレディスの返事も待たずに車椅子を動かしてしまう。
メレディスは不服そうな声を上げたが、兄のマクファーレン伯までシルビオに同調するので、逆らうことはできなくて――部屋に戻るメレディスについて行くことも忘れ、スカーレットは父親の描いた絵をじっと見つめていた。
「お父様が描いたお母様の絵、とっても素敵だわ」
マリアに振り返り、スカーレットが言った。
「メレディスの才能は確かに素晴らしいけれど、これは惚れた欲目で美化しすぎだわ。実物は大したことないのに」
マリアが苦笑しながら否定すれば、そんなことないわ、とスカーレットは首を振る。
「お父様のお母様への愛情が、絵の魅力を高めているのは事実だけれど――お父様は、本当にお母様のことを愛していらっしゃるのね。私は……こんなふうに、誰かを愛することができるかしら」
娘の大人びた疑問に、マリアは目を丸くした。
それから、思わず微笑んで……娘を抱き寄せる。
いつかこの子も恋をして、自分の手元から飛び出して行く日がやってくる――当たり前のことなのに、いまさらその事実を思い出して、堪らなく娘が愛しくなった。
賑やかで、楽しいパーティーだった。
オルディス公爵の結婚をネタに、領民たちもちょっとしたお祭り騒ぎで……スカーレット以外の子どもたちは、ヒューバート王やオフェリアと一緒に町へ遊びに行っていた。
マリアも、町の人たちに姿を見せに行こうとおじに誘われ、婚礼衣装の飾りをいくつか脱いで、出かけようとした時だった。
メレディスの休憩を見張っていたはずのシルビオが、急いでマリアのもとへやって来た。
――その姿だけで、マリアの不安を掻き立てるには十分だった。
「メレディスの容態が悪くなった。俺はこのまま、医者を呼びに行ってくる」




