避けられない喪失 (1)
痛みを堪え、マリアは歩いていた。
侍医の薬が切れてようやく意識がはっきりしたと思ったら、今度は痛みで頭がもうろうとする。でも、ここで立ち止まったらお腹の子は助からない。
痛みで震える足を懸命に動かし、建物の合間から表通りにようやく這い出た。
このあたりは建物が密集しており、あの店は表通りの建物の裏側にあった。
ついに外からも分かるほど火が大きくなり、あたりは大騒ぎになっている。火が他の建物に燃え移れば、このあたり一帯あっという間に火の海だろうから当然だが。
火を消そうと大勢の人たちが行きかい、王国騎士や役人たちが……。
「マリア!」
自分の名を呼ぶ声に顔を上げ、声の主を探した。
痛みでぼんやりとしているマリアよりも先に、向こうがこちらへ駆け寄ってくる。
ヒューバート王と、ドレイク宰相……二人の顔を見た途端ホッとして、踏ん張っていた足から力が抜けてしまう。倒れ込みそうになったマリアを、ドレイク宰相が支えた。
「マリア、無事でよかった」
ドレイク宰相の腕の中でぐったりとするマリアを心配しながら、ヒューバート王が言った。
宰相は無言だったが、マリアを強く抱き寄せる腕が、彼の安堵を伝えている。
笑顔で答えてあげたいのだが、いまのマリアには強がる余裕もない。
「赤ちゃんが……」
マリアの言葉に、王も宰相も目を丸くする。
予定していた日はとっくに過ぎていたし、いつ生まれてもおかしくない状況だった。だから、いまがその時となっても何の不思議もないのだが……いくらなんでも、タイミングが悪すぎる。
「ジェラルド、マリアを急いで城へ――」
その後のことは、マリアもよく覚えていなかった。たぶん、馬車に乗せられて、そのまま城へ連れて行かれて――気付いた時には、もう常連にも近い部屋で出産に臨んでいて。
ナタリアやオフェリアに看護してもらいながら、マリアは苦しみに耐えていた。
男性の入室は禁じられている部屋に、王が入ってくる。人を連れて――マリアの出産を何度も助けてきた侍医を、王は連れてきた。
「先生……」
患者としては問題児なマリアをいつも叱り飛ばす侍医は、エンジェリクで最上位にある医師とは思えぬほどくたびれた姿だ。マリアを見つめる表情にも、いつもの覇気がない。
なぜいまも、自分のような人間がここに呼ばれるのか――そう言いたげな顔も無視をして、マリアは微笑みかけた。
「先生、赤ちゃんを助けて。先生なら、きっと大丈夫ですよね……?」
侍医はうなだれ……やがて、顔を上げた。その時には、聡明で誠実な医者の表情に戻っていた。
「ご安心なされよ、公爵。いまさら問題など、起こるはずもない。私もあなたも、ベテランだ」
ちょっとした皮肉も込めて自分を励ます侍医の手を握る。侍医もまた、マリアの手をしっかりと握り返した。
出産は、あっという間に終わった――ように感じた。
マリアの体感時間と、実際に経過した時間には結構な差があっただろう。嵐に翻弄されているマリアには、とにかくあっという間だったのだ。
それでも……マリアのすぐそばで、すやすやと眠る我が子を見ていたら、それまでの苦しみもすべてがどうでもよくなっていく。
「……おめでとうございます。玉のようにお可愛らしい、女の子でございます」
すべてが終わり、侍医は深々と頭を下げた。そんな彼の姿は、あることを予期させて。
小さな娘の、金色の髪を撫でながら、マリアは侍医をじっと見つめる。
「陛下……先生を罰したりしませんよね?私が、勝手に薬を飲んでレッドメイン公爵にさらわれただけなんです。先生に非はありませんわ」
マリアの嘆願に、ヒューバート王が困ったような顔をする。
「僕も、できることならば侍医に罰は与えたくない。エステルやエドガーが無事に生まれたのは、彼の尽力あってこそ。それに、侍医は自ら罪を告白し、君の捜査に協力してくれた。僕たちはすぐに君を追いかけることができた。この出産を助けたことも合わせ、情状酌量の余地は十二分にあると思う。いままで通り、城で勤めてほしいと頼んだのだが……」
「私がお願いしたのです。どうか城を出ることをお許し頂きたいと――私は引退します」
侍医が言った。力なく笑い……でもその笑顔には、吹っ切れたものがあった。
引き止めることはできないのだと、マリアは悟るしかなかった。
「神や、陛下……オルディス公爵がお許しくださっても、医者としてのプライドが私を許さないのです。私は医者という立場を悪用し、自分の患者を危険に晒しました。もう私には、医者を名乗る資格はない。以前のようには働けません」
「そう……。ごめんなさい、先生。先生の生きがいを、私が奪ってしまったのね」
侍医の裏切りを察した時。同時に、マリアを裏切らなくてはならない事情があるのだということも理解した。
彼は間違いなく信頼できる人物で、医者としての使命感に燃えている人。そんな人が医者としての立場を悪用するのなら、よほどの理由があるのだと……。だから、マリアは彼の裏切りを受け入れた。
……でも結果的に、大切な医者を失うことになってしまって。
「公爵が私の裏切りを拒否していれば、私は孫を殺されていました――あの子が人質に取られていて、仕方なく彼らの要求を呑むしかなかった……。あの子が命を落としていれば、私の心も死に、医者など、とても続けられる状態ではなくなっていたはず。どちらの道を選んでいても、結局は同じこと。どうか公爵は、ご自分を責めず……」
もう一度頭を下げる侍医をじっと見つめる。
彼の実力は本物で、いまのエンジェリクに、彼以上の医者がいるとは思えない。侍医を失うのは、エンジェリクにとっても大きな損失だ。
「先生。最後に、この子を抱いてあげてください。先生が助けてくださった子です。誰が何と言おうと、先生には感謝の気持ちしかありませんわ」
引き止めることはやめ、マリアは笑って侍医を見送ることにした。
侍医も穏やかに微笑み、医師として自分が助けた最後の患者を抱き上げ……一筋の涙が、静かに頬を伝っていた。
生まれたばかりの娘に寄り添いながら、マリアは休息を取っていた。
ホールデン伯爵はマリアの無事と娘の誕生を喜んでくれたが……元気になったら覚悟しておきなさい、ととても良い笑顔で言われてしまって、マリアがちょっとすくみ上ったのは内緒だ。
自ら危険に飛び込み、我が子の命まで危うくしたことを、かなり怒っているらしい。
ナタリアやララ、ノアたちは、伯爵をなだめるどころか、しっかり仕置きを受けるように、と口をそろえて厳しく言ってきて、誰もマリアを助けてくれない。
唇を尖らせるマリアに、仕方がないね、とヒューバート王まで苦笑するばかりだった。
「例の火事について――捜査は、早々に打ち切られた。多数の貴族から圧力をかけられ……はねのけても構わなかったのだが、こちらにとって特に都合の悪いことでもない。彼らの思惑通りの選択をすることにした――少しぐらいは、恭順するふりも必要だろう」
自宅のベッドで横になったままのマリアを訪ね、ドレイク宰相が説明する。
「ケンドール候も、間もなく城に戻ってくる。果たして、彼が私の謝罪に応じて復職してくれるかは謎だが」
「モーリス様は、実はジェラルド様のことをかなり気に入っておられますわ。エンジェリクを想う気持ちは一緒ですもの。意外と柔軟な考え方もできるお人で……強引なやり方を全面的に肯定することはできないものの、致し方ない部分があるのは同意していらっしゃいました」
マリアが言えば、ポーカーフェイスのままドレイク宰相が含みのある視線を送ってくる。
まるで、ケンドール候本人から聞いたような口ぶり……。円滑な人間関係を築くため、マリアが彼を陥落していることは宰相も知っていた。
「……ナサニエル・クロフトの遺体は確認できなかった。あの火事だ。確信のない遺体はいくつかある――その中に、あの男が埋もれてしまった可能性もあるが……」
「生きていたところで、エンジェリクではもう暮らしていくこともできぬ男です。もし生き残っているようなら……ジェラルド様が突き止めずとも、他の誰かが始末してしまうでしょう」
宰相が、マリアをじっと見つめる。
かつては非常に有能な警視総監だったドレイク宰相に、自分の嘘が通用すると思うほど、マリアの頭もめでたくはない――でも、素知らぬ顔で彼の視線を受けとめた。
「あの火事のおかげで、粛清予定だった人間がすべて片付いた。いずれ、また目障りな人間が現れるだろうが……城の連中も、胸を撫で下ろしていることだろう」
宰相は自嘲気味に話す。
今回、始末してしまう人間が片付いただけ。いずれ、次の標的が生まれる。城の中心にいて、権力を握るということはそういうこと。
敵は何度消し去っても、次が現れる。
権力は、手に入れるよりも維持するほうが大変だ。だから、城で重職に就くことができない自分は、むしろ幸運なぐらい――リチャード・レミントンだったら、そう言って嗤っただろうか……。
「多くの血が流れた……恐らくその中には、無用だった血も……」
自身の膝の上に置かれたドレイク宰相の手にマリアは手を伸ばし、そっと握る。
チェンバロの演奏を好む彼は、音楽家らしい手をしている――長い指は、綺麗に整っていて。でも、その美しい手も血まみれだ。
アレン・マスターズに……目的の獲物を捕らえるために引きずり込んだ、憐れな生贄たち。
全員が、苛烈な尋問を受けるほどの罪を犯していたわけではないだろう。中には、本来の罪に対して重すぎる罰を与えられた者もいる……。
「マスターズの息子は、貴女の侍女夫婦が引き取ってくれるとうかがった」
「はい。ナタリアとデイビッドさんが自ら申し出ました。王国騎士副団長のカイル様もアレン君の引き取りを考えていたようですが……独身の自分よりは、ナタリアたちのほうがいいと快諾してくださいまして」
「私も、それが最良の選択だと思う」
ドレイク宰相が同意する。
息子アレンには実母がいるが、絶対に彼女には渡したくないと副団長カイルが強く反対して、ナタリアたち夫婦が養子に迎えることになった。
夫婦の娘であるカタリナも、アレンにはよく懐いているから、家族として一緒に暮らせるようになったことを無邪気に喜んでいる。
「アレン君は、役人を目指すそうです。父親のような、立派で、誠実な役人に。いずれ警視総監になって、父親を越えるんだと意気込んでおりますのよ」
マリアが笑って言えば、ドレイク宰相はわずかに口角を上げ、そうか、と頷く。
「……それから。ジェラルド様にとても感謝していました。父さんの仇を討ってくれてありがとう、と……ジェラルド様は、アレン君のヒーローなのです」
傍目には変化のないポーカーフェイス――握った手から、ドレイク宰相の動揺が伝わってくる。
報復と復讐の連鎖ですっかり血にまみれ……決して、正しい行いではなかった。
そんな自分を、誇りに思ってくれる少年。それがドレイク宰相の心にどれほど大きな波紋を起こすのか――マリアは気付かないふりで、ただ彼の手を握っていた。




