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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その悪名伝~  作者: 星見だいふく
第五部02 別れのあとに
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業火


「……だから、赤ん坊さえ取り出してしまえば、もうこの女は処分すればいい……憎たらしい女め……これで終わりだ……」


耳障りに喚く声に、マリアの意識は浮上し始めた。


声の主には聞き覚えがある……ような気がする。彼とはあまり個人的な接点がなかったから、こんな声だったかと問われると自信がない。

それぐらい、マリアにとってどうでもいい人間だったのだ。向こうは、マリアのことを強烈に意識していたみたいだけれど。


「目が覚めたのか――まあ、いい。せっかく気付いたのなら、子どもと対面させてやる。お前の腹を切り裂いて、直接な」


何が面白いのか、レッドメイン公爵はそう言って大笑いし、上機嫌で部屋を出て行く。

意識は戻ったが、まだ身体に力が入らない。なんとか周囲の様子を確認しようと顔を動かして、自分を見下ろすナサニエル・クロフト侯爵と目が合った。


「あの男……あなたの店に私を連れ込んだの。馬鹿ね――ジェラルド様に口実を与えないよう、あなたは細心の注意を払っていたというのに……これで全部水の泡だわ」

「まったく」


嘲笑するようにマリアが言えば、クロフト候は静かにため息をつき、同意した。


「もっと適当な場所であなたを始末してしまう予定でしたが、赤ん坊は欲しいので、殺すのをいったん保留にしてここに連れて来たそうです。命拾いしましたね――お互い」


最後の一言は、クロフト候の本音だっただろう。まだぼんやりした頭で、マリアはくすりと笑った。


「この店も終わりね。クロフト候――あなたはどうするの?リチャード様への義理にこだわって、店と命運を共にする?」


たぶんクロフト候ならば、さっさと逃げ出して姿をくらますことも可能だ。

というか、その可能性が高いから、ドレイク宰相もこの店への手出しには周到な準備を行っていたところだった。


「……貴女は自分の勝利を確信しているようだが……貴女の命は私の手の中に在るという事実には気付いていらっしゃるのか」


クロフト候は冷たく言ったが、マリアは笑うばかり。


「もちろんよ。ジェラルド様に掛け合ってあげるから、私のことを助けて……と、泣いて命乞いすべきなんでしょうけど、生憎そういう可愛げは親のお腹の中に置いてきてしまったの。こういう性格だから無駄な苦労を背負い込んでるって分かってるんだけど……難儀なものね――お互い」


マリアの言葉に、クロフト候は少しの間沈黙した後、かすかに口角を上げた。


危機的状況にあるのは間違いない。

クロフト候の店に一人きり――レッドメイン公爵を始め、店の客はマリアの命と腹の子を狙っている。クロフト候はマリアと友好的な関係ではないし……まあ、絶体絶命という言葉が脳裏をよぎる程度にはピンチだ。

でも、泣いて助けを求めるようなことはプライドが許さない。最後まで虚勢を張って笑うことしか、マリアにはできないのだ。

――それは、クロフト候も同じ。


マリアを助けるからドレイク宰相に口添えしてくれと、彼も懇願すべきなのだ。

でも、彼もプライドがそれを許さない。


「オルディス公爵をさらって、危害を加えて……無事で済むわけがない。私が生き延びようが、殺されようが、連中の命運に変わりはない」


ようやく身体が動くようになり、マリアはお腹に手を伸ばす。


このやり方は、実は前から考えていた。レッドメイン公爵はマリアが嫌いでたまらないみたいだから、その敵意を利用してやれば、愚かな男が店に破滅をもたらすだろうと――それを実行に移せなかったのは、このお腹が理由。

お腹の子を巻き込むのだけは絶対に嫌だった。城で侍医から薬湯を差し出された時、マリアも迷っていた。

迷いに迷って、それを飲んだ。


「……お腹の子は渡さないわ。そんなことになるぐらいなら、この子と一緒に死んでやる」


横になっていた寝台から、なんとか身体を起こす。まだ頭が重くて、フラフラする。

寝台の上に座り込んだまま動けないでいるマリアの腕を、クロフト候がつかんだ。


「そう焦って幕を引こうとせず――せっかくですから、もう少しショーをご覧になっていくといい」


痩身で陰気な男だが、やはり男女の差があって力ではクロフト候に勝てない。特にいまのマリアは、抵抗する力もないのだから。


クロフト候はマリアの腕をつかみ、引きずるようにどこかへ連れて行こうとする。自分の足で立てないか、何とか踏ん張ってみるが……クロフト候に先導されるまま、マリアは足を引きずった。


「……レッドメイン公爵は、貴女を殺せばすべてが魔法のように解決すると考えているようです」

「そうでしょうね。愚かな男……さっさと逃げ出すべきなのに……」


何気ない世間話のように話しかけてくるクロフト候に、マリアも内心を見せることなく答えた。


死刑台に連れて行かれようとしているのは分かっているのだが、身体はどうしても言うことを聞かない。そしてこの状況になっても、怯えたり不安がるような姿は見せたくなかった。


「私も、何度か協力を求められました。オルディス公爵やドレイク宰相を始末したいと――バカバカしい。そんなことをやっている暇があれば、財産をまとめてエンジェリクを逃げ出すべきだというのに」


話すクロフト候は、彼にしては珍しく感情が出ていた。


「逃げ出すなんて――あの人たちがそんなこと、するわけないわ。まるで敗北者のように……プライドの高さと歪さは、私なんかじゃ足元にも及ばないもの」


マリアはレッドメイン公爵たちの愚かさを嗤った。

あいつらは、逃げたりしないだろうと思っていた。もう価値のなくなった家名にしがみつくことしかできない連中だ。由緒正しいエンジェリク貴族と言うのが、彼らのよすが――それを捨てるなんてこと……。


「貴族と言うのは、本当に度し難い。自らで自分の首を絞めておきながら、思い通りの結果が得られなければ、周囲に責任を押し付ける。ベターな策はいくらでもあるというのに、自ら破滅を選んでおいて、何とかしろと命令してくる……」

「自分のために、周囲が動くのが当然だと思い込んでいるのよ。貴族にも色々いるけれど……あなたの店に来る貴族なんてのはそういう人間ばかりでしょうね」


あんな連中と一緒にされるのはマリアも心外だ。退屈だから、こんなろくでもない遊びを――真っ当な人間のわけがない。

マリアが彼らよりましな人間かどうかは反論できないが。


「……それは一理ありますね。私の店を利用するような連中に、期待するほうがどうかしている」


クロフト候に連れられてマリアがやって来たのは、重厚の幕の前。開演前の、幕が下りたままの舞台のような……。


幕を払って外に出てみれば、そこは半円形の舞台の上。客席と思わしき場所には、レッドメイン公爵以外にも何人か客が。マリアを見て、一同は興奮し、騒ぎ出す。


「待ちくたびれたぞ、クロフト。さっさと赤ん坊を取り出して、その女を始末してしまえ!」


最前列で喚くレッドメイン公爵は、仮面を被ることも忘れていた。俗世での正体は明かさないようにするのがこの店のルールだが、マリアが死ねば、それで問題ないと考えているのだろう。

レッドメイン公爵の自分に不利なことが、起きるはずがないと。そう信じているのだ、本気で。


「大変長らくお待たせいたしました。オルディス公爵が御越しとのことで、当方も特別なもてなしをしようと用意をしておりまして」


侯爵が静かに答えれば、客たちはさらに興奮する。


舞台らしき場所には、何もない。マリアと、マリアの腕をつかんで捕えているクロフト侯爵が立っているだけ。

見覚えのある店の用心棒が、舞台にやってきてクロフト候に火のついた燭台を渡す。客たちが食い入るように見つめる燭台を、舞台の端に放り投げた。

舞台を取り囲むように、一気に火は燃え上がる。客たちは感嘆の声をあげた。


「この館――この部屋は、いささか特殊な構造となっているのです。この館を建てた、当時のレミントン家の当主がこだわったらしく……本日、ついにそれを披露する時がやって来た」


燃え盛る炎に興奮していた客たちも、次第に異変に気付き始めた。

マリアも、自分を取り囲む熱に薬でぼんやりしていた頭も覚醒し出して、その炎の意図を理解した。


舞台を取り囲むように炎は燃える――それはまるで、客席を舞台から遮断するように。


客の間に、恐怖という空気が流れていく。

身を乗り出す勢いで舞台を眺めていたレッドメイン公爵や前方のほうの客たちはじりじりと後退し、後ろのほうでは、部屋から出ようと出入り口の扉に向かう客も。

だが、扉は開かなかった。扉を触った客は悲鳴を上げ、ついにクロフト候――この部屋の構造の正体を誰もが悟った。


「その扉は非常に熱が伝わりやすい素材となっております。この状況で迂闊に触ると危険ですよ。手が焼けただれる恐れもあるかと」


この部屋には、当たり前だが窓がない。どういう目的で利用されている部屋なのかを考えれば、窓なんて設置されるはずもなく。

逃げ道は部屋の出入り口と……マリアたちのいるこの舞台。舞台の裏は、幕ひとつ隔てただけの廊下だ。

だが炎が舞台を取り囲み、激しく燃え盛っていて、これを飛び越えるのは自殺行為というもの。


クロフト候は表情を変えることもなく、相変わらず陰気に、淡々と説明を続けた。


「部屋の構造上、火は、まず客席を焼き尽くします。客を、確実に焼き殺す――レミントンがこんな館を建てたのは、あなたがたの異常な趣味を利用してコネを作るため……だけではなく、何かあれば全員始末してしまえるようにだったようです。みなさんはエンジェリクでも有数の、古い家柄の貴族。成り上がりのレミントンからすれば、自分の出世を妨げる邪魔くさい人間です。それが集まって……命を落としたとしても、深く追及されることのないやり方――実に効率の良い方法ですな」


なるほど、とマリアも心の内で同意した。


この館にやって来るような連中は、力と金を極め、退屈と暇を持て余して刺激を求めている――成り上がり者のレミントンからすれば、良いカモでもあり、腹の立つ人間だ。

先祖が築いた地位と財産を受け継いだだけで、それを活用するでもなく腐らせているような人間……なのに、成り上がり者の自分は彼らの下に置かれる。


だから、本格的に目障りになった時に始末するためにも、この店を作った。

この店で何かが起き、命を落としたとしても、遺族が訴えてくることはない。公になれば、一族も破滅する。特にリチャード王の時代に、こういった遊びへの取り締まりは厳しくなったのだから。


利用できる間は親しく振舞って、邪魔になったら一人残らず始末する……。実に彼らしいやり方だ。他人は、使い捨ての駒と考える男だったとマリアも聞いている。


腕を引っ張られ、マリアの思考はそこで打ち切られた。クロフト候はマリアを引っ張り、舞台からさっさと退場しようとしている。


「ま、待て、クロフト……!私はレッドメイン公爵だぞ!エンジェリクの大貴族で……その私を、おまえのような卑しい男が手にかけるなど……許されることではないぞ!」


この期に及んでも、何の意味もない家名を振りかざすだけの男をクロフト候は冷たく一瞥し、喚く彼を放って舞台を降りた。

幕の向こう側は平穏なもので、幕一枚隔てた部屋が大火事になっている気配を感じさせない。


クロフト候は大股で廊下を進み、いくつか角を曲がり……先ほども舞台にいた用心棒が二人を追いかけてきて、マリアにマントを渡した。


「燃えにくい素材で作られています。それを羽織って、あとはここをまっすぐ進めば外に出られますよ。客を確実に焼き殺し、自分が脱出する道はしっかり確保されるような造りになっていますから、貴女が逃げ出す余裕ぐらいはあるはず――実際に火を点けるのは初めてなので、絶対とは言い切れません」


淡々と説明するクロフト候の顔を、マリアは見上げた。

口調は淡々としているが、その表情には諦めが浮かんでいた。マリアは、思わず口を開いた。


「あなたはどうするの?」


聞いて、どうするわけでもないけれど。マリアには、この男を助ける義理はないし。

ただ……この男はもう、エンジェリクにはいられない。


確かに、ここでの火事について深く追及されることはないだろう。公になったら困るのは遺族。

だからと言って、クロフト候が無罪放免というわけにもいかない。公にならないだけで、遺族が個人的報復に出る可能性は大いにある。というか、その展開しかありえない。

少なくともエンジェリク……王都ではまともに暮らせまい。一日ともたず、クロフト候は八つ裂きにされてしまうことだろう……。


ただの好奇心――答えが返ってこないかもと思ったが、クロフト候はあっさりと、どうしましょうかね、と呟いた。


「リチャード様に任された店だったのに……」


そう言って大きくため息をつくが、クロフト候の声に後悔は感じられなかった。


「本音を言えば、何故こんな店を私に任せたのか、ずっと考えていました。私は貴女の味方をするような真似はしたくなかったが、貴女への敵意以上に、連中に嫌悪していたんです。この館の正体を知った時、何度火を点けてやりたい衝動に駆られたことか……」


マリアを助けたと思われるのが、クロフト候にとっては我慢ならないらしい。素直に恩を売っておけばいいのに……律儀というか、真面目というか。


「私は……リチャード様のすべてを知っているわけではないけれど、何となく分かるような気がするわ」


リチャード・レミントンとの関係は、それほど深いものではなかった。でも、彼はマリアによく似ていたと思う。

なら……何となく、答えは予想がついた。


クロフト候が、マリアをじっと見つめる。


「あなたなら、この館に面白い結末をつけてくれると思ったのよ。リチャード様はレミントンの遺産に興味はなくて、全部捨ててしまってもいいと考えているような人だったわ。だからこの館も、いずれは片付けてしまうつもりだったんでしょうけど……思いもかけず自分の寿命が早く来てしまって。だから、あなたに任せた」


リチャード・レミントンもクロフト候も、母親は平民。二人とも、貴族社会にはなじめなかったタイプで……この店に遊びに来るような貴族は、むしろ嫌悪するような立場にあって……。


「リチャード様なら、きっと笑ってるわよ。なかなか派手なやり方で、よかったんじゃない?」


マリアはマントを羽織る。まだ自分を見つめたまま黙っているクロフト候をもう一度だけ見上げ、不敵に笑った。


「助けてもらったお礼がまだだったわね――チャールズなら生きてるわよ。セイランにいた。元気そうにしていたわ」


初めて会った時からほとんど表情を変えなかったクロフト候が、わずかに目を見開く。


そしてマリアは背を向け、足早に廊下を歩いた。火の気配はまだないが、煙は近付いている。こんなところで死ぬのは御免だ。この店の客だと勘違いされるのも嫌だし、何より、お腹の子のためにも生き延びないと。


クロフト候がどうしたのかは確認しなかった。

彼に道は示した。それであの男がどう選択するか――マリアには、もうどうでもいいことだ。


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