崩れた均衡 (3)
まだ顔色は優れないが、スカーレットは少し落ち着いたようだった。
母親よりも父親寄りな娘の髪を、マリアは優しく撫でる。
「今日はもうゆっくり休んでなさい。シルビオと、少し話をしてくるわね」
スカーレットの額にキスして、もう一度娘を抱きしめると、マリアは部屋を出た。
シルビオも、もう自分用の客室に戻っているらしい。マリアが訪ねてみれば、どこかぼんやりした様子で長椅子に腰かけていて、でも、振り返りもしないままマリアが入ってきたことに気付いていた。
「スカーレットは落ち着いたか?」
「ええ。まだちょっと動揺してるみたいだけど……」
マリアも椅子に座り、シルビオと向き合った。
「何があったのか、改めて聞かせてもらえるかしら」
シルビオは、エンジェリク王に呼ばれたマクシミリアンについて、エンジェリクに来ていた。
王から持ち掛けられた縁談について悩む従者のため、もうしばらくエンジェリクに滞在する予定――なのはいいのだが、いささかご機嫌斜めだった。
息子セシリオに放ったらかしにされて。
セシリオも、昔はシルビオがエンジェリクに来たら四六時中父親と一緒にいたがったものだが、大きくなり、少し親と距離を取るようになってきた。
父親にべったりという頻度も減って、いまも、クリスティアンやローレンスと遊びに行ってしまった。
こうして取り残されたシルビオは、ちょっと不貞腐れ気味に長椅子に横になって、ごろごろしていた――自分も都合の良い時だけ父親面してるくせに、とマリアが聞いたら呆れられそうな状況だ。
「シルビオ様」
長椅子で仮眠を取っていたシルビオの顔を、スカーレットが覗き込む。
母親そっくりの可愛らしい顔で、にっこりと。どうした、とシルビオも笑って目を開けた。
「退屈そうだね。暇を持て余してるなら、僕の仕事に付き合ってよ」
ひょっこりと、メレディスも顔を出す。
メレディスの仕事と言えば、クラベル商会に……絵描き――それなりに上等な外出着をきっちり着こんでいるということは、いまは絵描きのほうだろう。
「荷物運びか」
「それもあるかな」
画材道具というのは結構かさばるし、重い。シルビオに任せられると、非常に助かる。
「でも、僕が一番頼みたいのはスカーレットのことだよ。依頼人からね、同じ年ぐらいの娘がいるから、ぜひスカーレットも連れてきてほしいって条件を出されてて」
メレディスは、ちらりと自分の娘に視線をやった。
スカーレットも外出用の可愛らしい衣装に着替えている――オルディス公爵の娘で、マクファーレン主席判事の姪。
エンジェリク貴族たちにとって、是が非でも取り入りたい少女だ。高名な画家に肖像画を描かせるのも貴族たちの流行ではあるが、それだけではなく、スカーレットに近づくことも彼らにとって重大な目的である。
「あんまりそういうことに娘を巻き込みたくないんだけど……やっぱり報酬は魅力的だからさ。シルビオがついてきてくれるなら、安心して任せられるよ」
メレディスは金銭に執着はない。でも、絵を描く環境を整えるためには金が必要だ。すでに有力な支援者は何人もいるし、いまさら焦ることもないのだけれど、時には彼も報酬につられることぐらいはあるわけで。
今回はシルビオという護衛役に心当たりがあったから、普段だったら断るようなこの依頼も引き受けたのだった。
「要するに子守りか。まあ、いいだろう。退屈しのぎにはなる。報酬は俺にも少し寄越せよ」
「いいよ。ちゃんと君の分け前も考えておく」
こうして、シルビオはスカーレットの護衛役として、メレディスの仕事について行くことになった。
メレディスが向かったのは、とある子爵の館。
由緒正しい家柄で、リチャード王の時代に家系は縮小してしまったけれど、世が世なら公爵位も有り得た貴族。だから今回の依頼も、お気楽な貴族の遊興だと思っていたけれど……。
「おい。ここの依頼人、本当にそんな報酬支払えるのか?」
館内をざっと見て、シルビオがひそひそと声をかけてくる。
シルビオは少年時代を傭兵として過ごし、財産になるものを目ざとく見抜く能力に長けていた。
メレディスも、芸術家らしい鑑定眼は持っているから、この一見豪華な館が、イミテーションだらけのハリボテであることにはすぐに気づいた。
とても、メレディスに高額な報酬を支払うだけの余裕がありそうには見えない。
「ううん……でも、もう半分は前払いでもらってるからなぁ……」
そう言いつつも、子爵本人を見て、ますますメレディスは不安になった。
豪華な衣装に宝石を身に着ているけれど、見た目ばかりで大した資産価値はない。
……モデルとしてもそそられるビジュアルじゃないし、これでタダ働きはさすがに嫌だ。
「スカーレット様はこちらへ。お嬢様のところへご案内いたします」
この館にはいっそふさわしくないほど完璧な所作で、執事らしき男が声をかけてくる。
彼だけは一流だから、違和感しかない。
「……シルビオ、スカーレットを本当によろしく」
メレディスの言葉に頷きながら、これは本当に自分の出番が来るかもしれないな、とシルビオは覚悟し始めていた。
スカーレットが案内された部屋は、可愛らしい少女部屋。だが……生活感はない。
まるで整えられた人形部屋のよう。部屋の真ん中でちょこんと座っている少女も、見た目だけ取り繕ったハリボテ――豪華な衣装を着てはいるものの、恐らく中身はその衣装に釣り合う豪華さはあるまい。
少女を見て、いよいよ自分の出番が近いことをシルビオは悟った。
「お付きの方は部屋の外へ」
完璧な笑顔で執事はそう指示を出してくるが、シルビオは盛大に顔をしかめ、冗談だろう、と一蹴した。
「これはいったい、何の茶番だ?」
シルビオが腕を組んで言えば、貼り付けたような執事の完璧な笑顔が、一瞬だけぴくりと反応した。
「あの小娘は何者だ?どこから連れてきた?」
「何のことでございましょう」
「あれが貴族の娘なわけがあるまい。それなりに見栄えのいい女を選んできたようだが、ドレスをまったく着こなせていない。そんな令嬢がいてたまるか」
ドレスを着こなすのは、一朝一夕でできることではない。小さな頃から身に着け、ドレスを着た上での所作を学んで、そうやって着こなしていくもの。
スカーレットが完璧に着こなしているだけに、少女との差は歴然だ。
それに……少女の怯えたような表情。必死で笑顔を貼り付けているが、幼い彼女は執事ほど完璧にはなれない。その笑顔には怯えが出ている。
たぶん、執事と違って彼女は無理やりこの役をやらされているのだろう。
「……いいから、お前は大人しく部屋を出て行けばいいんだよ!」
舌打ちをし、執事が言った。
「手間かけさせやがって……その娘は生け捕りにしろと言われてるが――」
執事のその言葉が合図のように、部屋に男たちが入って来る。ドレスを着せられた少女が怯え、部屋の片隅に身を潜めて隠れた。
彼らは自分と同類――荒事解決担当……力技で。
「俺も、手間のかかることは嫌いだ」
穏便に解決なんて、そんな面倒なこと。やってられるか。
片手でスカーレットを抱えるように引っ張り、もう片方の手で剣を振るう。
この屋敷の連中は大した腕ではないが、いかんせん人数が多い。スカーレットをかばいながらとなると、なかなか面倒だ。
「さっきの女の子、大丈夫でしょうか……」
部屋を飛び出す直前、少女の悲鳴が聞こえてきたことを思い出しスカーレットが呟く。
シルビオは答えなかった。
あの少女は、明らかに使い捨ての駒……手厚く扱われるとはとても思えない。用が済んだらどうなるか……。
邪魔な男たちを斬り捨て、メレディスがいる部屋に急いで戻る――部屋の前から派手な物音が聞こえてきた時には血の気が引いたが……部屋から飛び出してきたメレディスを見て、スカーレットは父に飛びついた。
「スカーレット……シルビオ、やっぱり騒がしくなったのは君のせいか」
娘を抱きしめ返しながら、メレディスが苦笑いする。
「部屋の外が騒がしくなって、僕のところにまで変な男たちが飛び込んできたよ」
「よく無事だったな」
メレディスは戦えない……はず。そこそこ打たれ強いが、喧嘩をさせたら並みの男程度の強さだ。
この屋敷の人間は大したことないが、あくまでそれはシルビオ基準。メレディスぐらいなら、あっさりやられているんじゃないかと思っていたのに。
「向こうも完全に侮って、油断してたからね。イーゼルは意外と丈夫なんだ。キャンバスも……角で殴られると頭に火花散るよ」
部屋から聞こえてきた物音はそれか。シルビオが納得していると、メレディスは重苦しい溜息をついていた。
「画材道具で人を攻撃するなんて、僕は絵描き失格だ」
「反省はあとにしろ。いまはここを出るぞ」
シルビオの説明は、ここで中断された。客が来たと知らされて。
玄関ホールに行けば、メレディスの兄アルフレッド・マクファーレン主席判事が血相を変えてララに事情を尋ねている。詳細が分からないララでは、答えられるはずもなくて。
「マクファーレン伯爵、メレディスなら無事ですわ」
ララに代わって、マリアが声をかけた。
「公爵、メレディスが命を狙われて……スカーレットも巻き込まれたと」
マクファーレン主席判事は、弟のメレディスをとても可愛がっている。メレディスやスカーレットが危ない目に遭ったと聞かされて、居ても立ってもいられずすっ飛んできたのだろう。その気持ちは、妹のいるマリアにはよく分かる。
「二人とも怪我はありません。シルビオが二人を守ってくれたので……。メレディスは貧血を起こして、いまは休んでいます。スカーレットも、さすがにショックを受けていて……」
「そうでしょうね。幼い女の子には、とても恐ろしいことだ……可哀想に……。弟とは話せますか?」
「そうですね。そろそろ……ナタリア、マクファーレン伯をメレディスのところへ案内して差し上げて」
主席判事はナタリアに任せ、マリアはいったんホールデン伯爵とドレイク宰相のいる執務室に戻った。
二人も、メレディスのことを聞きたがっているはずだ。
「母上」
執務室に戻る途中、クリスティアンに呼び止められた。
「どうしたの?」
「スカーレットのことです。あの子のことがちょっと気になって」
屋敷に戻ってきたクリスティアンたちは、不安そうにしているスカーレットに寄り添っていた。母親では踏み込めない部分もある。兄弟同士のほうが、気兼ねせずに済むかもしれない――クリスティアンたちの気遣いを、マリアは有難く感じていた。
「恐ろしいことに巻き込まれて、ショックを受けている……みんなそう考えているみたいですが、僕は……何か違う原因があるのではないか、そう思えてならないんです」
クリスティアンも、そう感じたのか――マリアは心の内でひそかに同意した。
怯える娘を追い詰めたくなくて黙っていたけれど……マリアも同様のことを考えていた。
娘は何かを隠している。素直なあの子が母親にまで隠すこと――見て見ぬふりはできないが、それを暴いてしまうこと……マリアもまた、一抹の不安も感じていた。




