崩れた均衡 (2)
華やかなエンジェリクの王都――その中心から少し外れた静かな地域に、彼女の屋敷はあった。
ひっそりと佇むこの美しい屋敷に、かつてはエンジェリクの貴族たちも夢中にさせた大物娼婦が住んでいるなどと、誰が考えるだろう。
マリアが屋敷に足を踏み入れれば、小さな鈴をつけた猫が、するりと近寄って来る。
ニャオーンと鳴く声は、どこか寂しそう……。
「お客様は久しぶりだから、その子も嬉しいのよ。最近は、ここを訪ねる人がめっきり減ってしまって……」
女性が姿を現し、猫はそちらへ飛びついた。猫を抱き、女性はマリアに向かって微笑む。
「ようこそ、オルディス公爵。お呼び立てしてごめんなさい。来てくださって感謝しておりますわ」
彼女の名はベティ。以前、リッチー伯がデート相手として連れていた。
かつてはエンジェリクでも有数の高級娼婦で、貴族の顧客も抱えていた女性。年を取って、もう引退しているが。
「マスターズ様から、あなたが私を指名しているとうかがいました」
「ええ。生意気なことを……と思うでしょうけれど、それがスペンスの頼みだったから」
スペンス……スペンサー・リッチー伯爵の愛称だ。
娼婦虐待の罪で逮捕されたリッチー伯。
余罪の追及のために彼の屋敷を捜査してみれば、娼婦虐待とか、そんなものが霞んでしまうほどの証拠品が発見され、結局彼は別の罪状で極刑となってしまった。
彼の処刑後も捜査は続いており、リッチー伯が出入りしていた店も捜査の対象に――生前親しくしていた娼婦たちも、それぞれ取り調べを受けていた。
このベティという女性も、もちろんその対象。ただ、彼女はやって来た役人に対し、条件を提示した。
マリア・オルディス公爵にだけ、真実を打ち明ける――貴族とも親しい彼女の主張をむげにすることもできず、マスターズはマリアに協力を依頼してきた。
そしてマリアは、彼女を訪ねてここへ。
「生前、彼から預かっていたものがあるのです。その時が来たら、然るべき相手に渡してくれって。いつ、誰のことなのか、彼は全然教えてくれなくて……いったい何のことなのって、私、首を傾げたわ……」
当時を思い出して、ベティが笑う。
肘掛け椅子のそばにある小さなチェスト――何気ない装飾のひとつが鍵穴となっている。小さな鍵を取り出して、ベティが引き出しを開けた。
ぴょこんと猫は肘掛け椅子に飛び移って、ふかふかのクッションの上に丸まった。
厳重な封印が施された箱を取り出し、マリアに向かって差し出す。マリアがじっと見つめていると、中身は私も知らないの、とベティが説明した。
「私が見ていいものじゃないから、きっと」
ベティが微笑む。
マリアは何も言わず、静かにその箱を受け取った。ずっしりと重い。それは、リッチー伯の彼女に対する信頼を現しているようでもあって。
「リッチー伯は、娼婦から虐待と殺人の罪を訴えられ、逮捕されました」
「……その女は、ウィンダムの娼婦ではないでしょうね。この王都で娼婦をしているのなら……そんなことはできないはず」
ベティが話す。その口調は先ほどまでの優しげなものとは一転して、暗く険しいものであった。
「そんな女が、私の耳に入らないはずがないもの。生きて……五体満足なまま、この町で暮らしていけるはずがないわ」
ベティは、王都ウィンダムで商売をしている娼婦たちのまとめ役でもあった。
女好きなリッチー伯は娼婦の顔馴染みが多く、彼女たちの良き保護者という顔も持っていた。
そんなリッチー伯のお気に入りでもあり、友人でもあったベティは、娼婦の中でも別格だ。
「レッドメイン公爵……あのあたりが雇った女かも……」
「リッチー伯爵も、その名前を挙げておりました」
「そうでしょうね。私のところへ来た時も、スペンスが、あの男が落ち着かない様子だ、とこぼしていたわ……。レッドメイン公爵は、このウィンダムではブラックリスト入りしておりますの。娼婦同士結託して、彼の出入りをお断りしておりました。それができたのは、リッチー伯爵という後ろ盾があったからこそ……。レッドメイン公爵の悪趣味な性癖は、私たちの間では有名です。あの男が、いったい何人の娼婦を殺したことか」
まったく驚くこともない話だ。
過激で悪趣味な性癖を満たすために、立場の弱い娼婦が利用され……でも、誰も気にも留めない――娼婦たちがひっそりと姿を消したとしても。
そしてそれは、レッドメイン公爵に限った話でもない……。
「ベティ様……リッチー伯爵が亡くなったいま、あなたは……」
「かなり苦しい立場に追いやられることでしょう。もう彼の庇護は期待できない。私にはまだ支持者が残っていますが、スペンスほどの理解者はいません。彼の威を借りて、私もずいぶん大きな顔をしてきたから、この機会に報復に出る者もきっといるはず……でも」
にっこりとベティが微笑む。
その笑みは、何十年もの間、娼婦としてこの王都で生き続けてきた彼女のプライドの高さの象徴でもあった。負けるものか――負けを認めるものかという、彼女の強い意志のあらわれ。
「私を潰すのは、そう簡単なことではありませんわ。ですから……オルディス公爵は、どうぞ余計なことを気にせず、ご自分の務めを果たしてくださいませ。それがスペンスの望み……私たちの望みでもあります」
オルディス邸に戻ってきたマリアは、自分の帰りを待っていたドレイク宰相、役人のマスターズ――それから、ホールデン伯爵と共にベティとのやり取りを報告した。
ホールデン伯爵が同席しているのは、リッチー伯が持っていた品々を鑑定するためだ。
リッチー伯爵は外務大臣で、趣味の一環として下町の市場に出かけ、掘り出し物の骨とう品などを見つけ出しては購入していた。
外務大臣という職業柄、外国の品々にも彼は詳しかった。個人的に仕入れるルートも確保していたらしい。
そして……あまり、大っぴらにはできないものも買い漁っていたようだ。
この所持品が発見された時、さすがのドレイク宰相も顔色を変えた。
「……間違いはありません。この紋章……朱の商人と呼ばれるセイラン人が持ち込んだ品にも、同様のものが」
ホールデン伯爵が、険しい表情で鑑定結果を話す。ドレイク宰相の眉間に刻まれた皺が、いっそう深くなった。
「では……リッチー伯は、華煉と繋がっていたと?」
嘘であって欲しかった――そんな想いを隠すこともできず、マリアが呟く。
いや、とドレイク宰相は首を振った。
「リッチー伯がエンジェリクを裏切っていたとは思えぬ。恐らくこれは……彼が罠として所持していたものだ」
「罠……ですか」
「華煉――朱の商人にまつわるものは、エンジェリク王家の敵と認識される。彼らと繋がっていた――それだけで、問答無用で罪に問われるだろう。それを利用して、リッチー伯はいざという時、政敵を消してしまうつもりだった。今回は、向こうに先に動かれ、かえって自分の首を絞めることになったが……」
誰かを陥れるための罠が、自分の首を絞めることになるだなんて。
「……どうかな。私も、スペンサー・リッチーという政治家の抜け目のなさと強引さは知っているが……むしろ、この罠はまだ生きていると判断します」
リッチー伯が遺したものを鑑定しながら、伯爵が言った。伯爵が次に鑑定していたものは、箱の奥に収められていた書類の束。
セイラン語で書かれているのだが、書かれた文字が崩れ過ぎていて、マリアではなんと書いてあるのか読み取れなかった。
セイラン風に言えば、これは達筆らしい。セイランで出会った人も……無骨なシオン太師も、この手の筆記体の解読には悪戦苦闘していた。
「華煉から、協力に感謝すると言った旨がしたためられております。この文を受け取った人間は、あたかも彼らの協力者だったかのような……しかし、宛名がない」
書類の内容を見せ、セイラン式の書について伯爵は説明を続ける。
「つまりこれは、誰が受け取ったのか、いまの段階では確定していない手紙です。そしてリッチー伯は、これらをマリアに託した。それは自身の罪の告白なのか、あるいは――これを利用しろということでは」
伯爵から書類を受け取り、ドレイク宰相は考え込んでいた。
利用――エンジェリク王家の仇敵でもある相手からの手紙を使って。
リッチー伯は、マリアにこれを渡すよう仕組んでいた。マリアの手に渡れば、それは当然、ドレイク宰相に……。
「リッチー伯は自分が陥れられることも想定済みで、そうなった時の罠も用意してあった。自分の死を利用して、地獄への道連れを――」
「これを利用するということは……」
伯爵の言葉を遮り、宰相が口を開いた。
ドレイク宰相にしては珍しく、動揺している。
彼も清廉潔白な男ではない。自分の立場を利用して、事実を都合よく改変したことぐらいはある。罠にかけて、罪をでっち上げることぐらい……ただ、今回はいままでのものとは比べものにならないスケールだから、宰相もためらっているのだろう。
これを利用して罪人を捕えるのであれば、彼らの罪状は――。
「マリア様、お話し中、失礼いたします!」
執務室に、ナタリアの焦った声が響く。マリアの返事も待たずに、部屋にナタリアが飛び込んできた。
「マリア様、メレディス様とスカーレット様がお戻りになって――」
「二人に何があったの?」
メレディスと娘の名に、マリアは思わず立ち上がった。
「シルビオがお二人を連れて戻って来たんですが、様子が――急ぎ、玄関ホールに……!」
激しく動揺し、ナタリアは冷静に説明できないでいるようだった。マリアも彼女に説明を求めるのは止め、急いでメレディスたちのもとへ向かった。
玄関ホールには、シルビオとスカーレット、メレディス……メレディスはぐったりとした様子で、シルビオが彼を支えていた。スカーレットが、血の気の引いた顔で父を気遣っている。
メレディスとスカーレットの衣服には、血が……。
「スカーレット!メレディス!」
マリアが駆け寄ると、スカーレットが顔を上げ、母親を見た。
「お母様……」
恐怖に怯える娘の手に血の跡が――ゾッとする光景に、マリアは堪らずスカーレットを抱きしめた。
「何があったの?怪我をしてるの?ああ、可哀想に。こんなに怯えて……」
「二人とも怪我はない。血の跡も、全部返り血だ」
シルビオが、落ち着いた様子で答えた。
「こいつも、かすり傷ひとつ負ってない。情けない奴だ――血を見て、貧血を起こしやがった」
シルビオの説明を受け、マリアは改めてメレディスとスカーレットを見た。
たしかに、二人とも怪我をした様子はない。衣服の血も乾き始めている。メレディスも苦笑いでマリアを見上げ――でも、彼も顔色が悪い。
「スカーレットは酷くショックを受けている。無理もないことだが。とりあえず、二人とも休ませてやれ。説明はその後でいいだろう?」
シルビオの言葉に、マリアは頷いた。
何があったのか聞きたいが、それは怯える娘を放置してまでやることではない。
まずは娘を落ち着かせてから――メレディスのことはシルビオに任せ、マリアはスカーレットに付き添い、娘を部屋まで連れて行った。




