崩れた均衡 (1)
「お姉様、とっても綺麗よ!」
目を輝かせ、オフェリアは絶賛する。
オフェリアが縫ってくれた婚礼衣装――本当は、前回の結婚式のために作りかけていたドレス。
今度こそ姉に着せるため、オフェリアは張り切っていた。
今日はマリアが実際に着用し、最後の確認を行っているところだ。
繊細かつ丁寧な刺繍が施された白いドレス。花嫁の清らかさを象徴するような純白の衣装に、マリアはちょっと気後れしていた。
「私に白は、似合わないと思うんだけど……」
「そんなことありません。本当に、よくお似合いで……とても美しいですわ……」
言いながら、ナタリアが涙ぐむ。
主人のマリアがようやく……本当に、心から幸せな想いで結婚を。女性ならば誰もが憧れるはずの夢を、マリアはとうの昔に捨て去っていた……そんな主人が――マリア以上に、マリアの幸福な結婚はナタリアの悲願だった。
それがついに叶う。ナタリアの涙腺は緩みっぱなしだ。
「もー、ナタリア様ったら!いまからそんな調子じゃ、式当日は寝込むことになっちゃいますよ!」
ベルダがからかうように言ったが、ナタリアは涙が堪え切れず、自分でも困ったように笑うばかりだった。
「僕もよく似合ってると思うよ。伯爵より先にマリアの婚礼衣装姿を見ちゃうなんて……伯爵に恨まれそうで怖いや」
メレディスも明るく言った。
メレディスは、マリアの婚礼衣装姿を描きに来ていた。式当日はゆっくり絵を描いている暇もないだろうから、最終確認のために着用する今日、マリアの絵を描き上げる予定となっている。
……大きなお腹だけは、メレディスによる修正が入るだろう。
「オフェリアが結婚式に着てた白いドレスが評判で、それ以来、エンジェリクでは婚礼衣装のドレスと言えば白が定番なんだよ」
オフェリアの結婚式……たしかに、白いドレスを着たオフェリアは、世界一美しかった。
その美しさを、メレディスという最高の絵描きが肖像画に収め、エンジェリクではたいそう評判に。そうして、エンジェリクでは結婚式に着るドレスは白色……といった風習が生まれ始めていた。
……でも、やっぱりマリアには空々しい色だ。
「そんなことないって。きっとこの絵が発表されたら、今度こそ、エンジェリクでは婚礼衣装が白っていう決まりができるよ」
「衣装は美しくても、中身はあれなのにね。こんな大きなお腹をした新婦なんて、やっぱりみっともないわ」
妊娠を恥じたことはなかったが、婚礼衣装とはあまりにもミスマッチ過ぎる――婚前交渉の証でもあり、安易な男女の接触を禁じているルチル教では罪の証にもなりえる。手放しで褒められるようなことではない。
「結婚式は、お姉様が赤ちゃんを生んでからなのよね。それまでには、絶対にこのドレスも間に合うわ」
オフェリアは楽しそうだ。
「もう生まれてるかと思ってたのに……今回の赤ちゃんは、ずいぶんのんびりさんね」
「いままでが急かし過ぎなんです!言っておきますけれど、予定日はまだ一ヶ月もあるんですからね!」
マリアの言葉に、ナタリアが厳しい口調で反論する。
妊娠も出産も、すでに何度も経験してきて……早めに生まれてくることのほうが多かった。だから、子どもが生まれてから式を挙げると話が決まったときも、じゃあそろそろ式が終わってる頃かしら、なんて当初は考えていたぐらいで。
「今回こそ――子どもを生むのは、これが正真正銘、最後になるかしら。最後ぐらい、のんびりと子どものことだけを想って出産にのぞみたいんだけど……」
ちょっと無理かしら、とマリアは溜め息をついた。
だって、いまも……絵を描くメレディス以外男性の立ち入りは禁止しているこの部屋に、役人のマスターズがやって来てしまったし。
わざわざ彼が来るなんて、楽しい理由なわけがない。
「失礼いたします。オルディス公爵、ドレイク様から伝言を預かって参りました」
役人のアレン・マスターズは、マリアだけでなくオフェリアたちとも昔からの顔馴染みであった。
初めて会った時から人の好さそうな好青年で、幼いオフェリアにも誠実に接してくれるから、オフェリアも彼には親しみを感じている。
「マスターズさん、こんにちは。お姉様のドレスをチェックしてたところなの」
「こんにちは。女性ばかり水入らずで楽しんでいるところ申し訳ありません。とてもお美しいです――自分がオルディス公爵のドレス姿を先に見てしまって、ドレイク様から恨まれそうです」
マスターズが冗談めかして言い、マリアたちも笑った。
メレディスも、さっき似たことを言っていたような。
「ジェラルド様が呼んでいるなら、きっとお仕事の話ね。ちょっと行ってくるわ」
ナタリアとベルダに手伝ってもらってドレスを脱ぎ、ゆったりしたドレスに着替えて、マリアはマスターズと共にドレイク宰相との待ち合わせ場所に向かった。
マスターズがマリアを案内したのは……罪人を捕えておく場所。
華やかな城にも、日の届かない暗い場所は存在するもの。城内には、様々な牢獄が存在していた。
警視総監の秘書を務めるマリアは、上司に連れられて牢獄を訪ねることも多々あった。
……そもそも、彼と初めて会った時に連れて行かれた場所でもある。
今回マリアたちが向かった牢獄は、貴人を軟禁しておくための特別な牢――上位の貴族で、かなりの重罪が決まった者だけが入る場所。
そこに捕らえられているのは、外務大臣リッチー伯だった。
「ある娼婦から訴えがありました。リッチー伯爵は娼婦を保護するという名目で女を集め、虐待や殺人を行っていると」
リッチー伯のいる牢獄へ向かう道すがら、マスターズが手短に説明する。
「それは……なかなか、厄介そうな」
リッチー伯の女好きは有名だし、娼婦のもとをしょっちゅう出入りしていることも広く知られていた。その真の目的が、手ごろな女を利用してサディスティックな性癖を満たすためのものだったと訴えられたら、即座に否定するのも難しい。
たぶん彼にはそんな趣味はないだろうが、そんな反論が通用するはずもないし。
牢獄には、先にドレイク宰相が面会に来ていた。
貴人用の牢獄だから、普通の牢よりはずっと待遇もいいけれど……いつもはおしゃれに服を着こなすリッチー伯も軽装で、少しくたびれたように着崩していた。
「おお!オルディス公爵まで私にわざわざ会いに来てくださるとは。いやぁ、最後に見るのがむさくるしい男ばかりかと落胆しておったが、貴女の心に残る男になれたのならば光栄だ」
こんな状況でも平時と変わらぬ態度はリッチー伯らしいが、ドレイク宰相は険しい雰囲気を醸し出していた。恐らく、リッチー伯を取り纏う状況はかなり悪いのだろう。
「……リッチー伯、私は、貴公が罠にかけられたのだと考えている。できれば、ここから助け出したい――」
「それは無理だ」
宰相の言葉を、リッチー伯は事も無げに否定した。
ああ、やっぱり――マリアは心の内でそう思った。恐らく、ドレイク宰相も同様に感じていることだろう。
リッチー伯ははめられた。だが、それを助け出す道はないのだ、と。
「残念ながらわしも、清廉潔白な身ではないのでな。叩けば埃しか出でこんような男だ。いまの地位を守るため、色々と……保身のために隠し持っていた物もある。それを暴き立てられて罪を問われると、結局苦しい立場に追いやられてしまうのは変わらぬ……」
城の中心で強い権力を持つ人間ほど、後ろ暗い過去を様々に抱えているもの。それを暴き立てられないよう、隙を作らぬよう生きるしかない。
――潰される前に、潰すしかない。今回は、相手のほうが先に動いただけ……。
「リッチー伯……貴方を罠にかけたのは、レッドメイン公爵たちなのでしょうか」
証拠があるわけではないが、マリアはそう思わずにはいられなかった。
このタイミングで、外務大臣を始末したい人間――なにかしらのメリットが得られるとは思えない。リッチー伯ほどの人間を消してしまうと、その後に起きる波紋も大きく……特に利もないことを、わざわざ引き起こした。
マリアたちに喧嘩を売ろうとする相手なんて、それぐらいしか考えられない。
「わしもそんなところだろうと思ってはいるが、確信はないな。それに、犯人探しなどしても意味がない。問題にすべきなのは、この状況をどう利用するかだ……」
リッチー伯は、ドレイク宰相に向かってにんまりと笑った。
「犬死ににはせんでくれよ。そんなつまらん結末はごめんだぞ」
からかように話しているが、やはり……リッチー伯は、自身が助かる道を探すつもりはないらしい。
自分の死も、最大限に利用しろと。
助け出せない――宰相にまでなったというのに、自分はまだ無力なまま……。
眉間に皺を刻み付けるドレイク宰相の、そんな無念な想いが、マリアに伝わってきた。
「……こんな状況になって、わしも我が身を振り返るようになった。権力を得て、地位を極めて……その結果行ってきたことと言えば、その席から振り落とされぬよう、自分の椅子にしがみつく算段ばかり。そうして抱え込んだ切り札で、結局は自分が追い詰められる――なんと、滑稽な生き様よ」
リッチー伯は自嘲するように笑っている。
「年を取ると、色々と反省することも多いのう――リチャード・レミントン……不必要にあいつを警戒して、我々のコミュニティから締め出してしまった……あれは、気の毒なことをした……」
思いもかけぬ人物の名前が出てて来て、マリアは目を丸くした。
リチャード・レミントン。マリアにとって、忘れることのない相手だ。彼が遺したものをめぐって、マリアはいまもまだ、彼らに振り回されている。
「生まれながらに貴族のわしには、やつの考えが理解できなかった。だがいまにして思えば、平民に生まれ、貴族社会というものを斜めから見ておったあやつには、権力と地位に固執する貴族がいかに愚かしい生き物か、よく分かっていたのだろう。ただ甥のために……厄介なものを抱えて生まれてしまった甥が生き残れるように、自らの力を強めて甥の道を守ろうとした……貴族のわしらには、平民のやつが、わしらを蹴落とそうと企んでいると決めつけて……」
リチャード・レミントン侯爵は、自分の力を得るためにのし上がってきた人物でもあった。
ただ、その力を振るうことにさして関心はなかった。
たぶん、リッチー伯の語ったように、彼がその力を欲したのは甥のチャールズを守るためであって、権力の頂点に立つことに興味があったわけではないのだ。
でも周囲には、レミントン候ののし上がりが恐怖でしかなかった。次は自分が蹴落とされるという不安を抱え……生まれが平民だった彼には、貴族同士の繋がりがない。貴族同士のまともなコミュニティには所属することができず、それが彼の弱点でもあった。
……甥のチャールズが、リチャード・レミントンの弱みをさらに際立たせてしまったような気もするが。
「純粋に、見返りを求めることなく誰かを守ろうとする者もおるのだと……当時のわしにはそれが分からなかった。もう少し、腹を割ってあやつと話をしたみたかったものだ」
最後は明るく笑っていたが、それはリッチー伯が人生の終焉を悟っての言葉だから、マリアは笑うことができなかった。
外務大臣リッチー。
好色家で、政治手腕はいささか強引なところがあったが……どこか憎み切れない男であった。
彼が処刑されたのはそれから三日後。
リッチー伯の屋敷を捜査することになり――大方の予想通り、彼の屋敷からはむしろ外務大臣が犯してきた罪を自白するような品々が多数見つかってしまい。
彼の無実を証明するどころか、彼がこれまで行ってきた罪を裏付ける証拠が発見されたことで、外務大臣の罪状は決定してしまった。




