幸せの、そのかたわらで
オーシャンの王太子は画家メレディスの大ファンで、帰国の前にどうか彼に会わせてほしいとマリアに懇願してきた。
それぐらいなら……と、マリアも了承し、自分の愛人の一人でもあるメレディスをオズヴァルト王太子に紹介した。
「メレディス殿……高名な画家のあなたに会えて、とても感激しています……その喜びは、言葉にできないほど……」
憧れのアーティストを前に、冷静沈着なはずの王太子はもじもじとしており、メレディスもちょっと戸惑っている。
エンジェリクに来てから、何が起きようとも淡々とトラブルを片付けていたあの王太子が……。たぶん、かなり珍しい姿だ。それが証拠に、彼の弟であるダンテ王子が、興味津々といった表情で傍観していた。
「どんだけ緊張してるんだよ……義姉上との初夜でも、あんな狼狽した姿は見せなかったぞ」
ダンテ王子が、ぽつりと呟く。オズヴァルト王太子は外野なんか視界に入らないようで、完全にメレディスに夢中だ。
「オーシャンは、新進気鋭の芸術家たちが頭角を現し始めた頃で……私としては、芸術家たちが互いに切磋琢磨し、オーシャン文化を大いに発展させてくれれば、と考えております。もし、メレディス殿が我が国に来てくだされば……。彼らにとって、良い刺激になるかと……」
ようやく本題に入ったか。マリアはそう思った――たぶん、ダンテ王子も。
「メレディス殿――あなたを、ぜひ我が国にお招きしたい」
「オーシャンに……僕が……」
メレディスは驚いて目を丸くし、やがて考え込む。
だが、その時間は意外と短かった。
「すみません。とても有難いお話なんですが、いまはまだ、ここで描きたいものがたくさんあって……娘も小さいので、できればそばにいたいんです」
メレディスの言葉に、露骨なぐらいオズヴァルト王太子ががっかりする。落ち込む彼にメレディスは焦った。
もしよければ、あなたの絵を描かせてほしい――慌ててそう言えば、沈んだオズヴァルト王太子も少しだけ浮上していた。
「ちょっと意外だったわ」
ゆったりと肘掛け椅子に腰かけ、絵を描くメレディスと、絵のモデルを務めるアイリーンを眺めながら、マリアが言った。
「あなたなら、すぐにでもオーシャンに行ってしまうかと思ったのに。新しいインスピレーションが得られそう、とか言って目を輝かせて」
「昔の僕なら、きっとそうしたね」
若い頃を懐かしむように笑いながら、メレディスが相槌を打つ。
出会った頃は十代だったメレディスも、もうすぐ三十代半ばに……情熱に突き動かされていた青年も、ずいぶん落ち着いたものだ。
「絵描きとしての情熱が失せたわけじゃないけど、スカーレットと一緒に過ごす時間を大切にしたいんだ」
メレディスが、娘スカーレットを特に可愛がっているのはマリアも知っている。スカーレットも、すっかりパパっ子だし。
終わったよ、とメレディスがアイリーンに向かって声をかける。
「もうお洋服、脱いでもいい?」
「休憩したらもう一枚描くから、それからね」
持っていた筆を置き、描き上げた絵を移動させながら、メレディスが説明した。アイリーンは眉間にちょっとだけ皺を寄せた。
「モデルも大変……」
「ジェラルド様も貴女の絵を欲しがってたから、二枚描く必要があるのよ。お父様も、自分の屋敷に飾りたいんですって」
マリアの結婚式のために着る衣装……ホールデン伯爵が娘たちのためにいくつか用意してくれて、マリアが全部着てほしいと思うぐらいよく似合っていて――だから、マリアも娘たちの絵を描くことにした。
当然、娘の父親たちも、可愛く着飾った娘の絵を欲しがった。
すでに描き上がったスカーレット、リリアンの絵の横に、アイリーンの絵が並ぶ。三枚の絵を、マリアはじっと見つめた。
「三人とも、本当に可愛らしいわ。特にスカーレットは……そろそろレディ扱いをしてあげたほうがよさそう」
スカーレットは、次の誕生日で七歳となる。可愛らしいお嬢ちゃんから、清楚な乙女らしい変化が始まっていた。
マリアによく似ていると言われるが、控えめな微笑み方は父親譲りだ。
「メレディスも、自分の娘となるとやっぱり気合が違うわね」
からかうようにマリアが言えば、メレディスが苦笑いで頭を掻く。
「そんなに差が出てるかな。自分では、リリアンやアイリーンも全力で描いたつもりなんだけど……」
「そうね。リリアンやアイリーンの絵に手を抜いているとは思わないわ。でも……スカーレットには、最愛の娘っていう最大の魅力があるから、自分でも無自覚なまま気合が入っちゃうのよ、きっと」
そうなのかな、と呟きつつ、そうかも、と思う自分がいることにメレディスも気付いていた。
三人とも、マリアの面影を持つ可愛らしい女の子たちだけれど……つい、スカーレットを贔屓気味に。だって、自分はあの子の父親なのだから――他の子たちはそれぞれの父親が贔屓にするんだし、メレディスだって自分の娘を贔屓にしたっていいと思う。
オルディス邸から戻ってきた後、自分の家――クラベル商会の従業員寮にある部屋で、メレディスは絵の仕上げに取り掛かっていた。
スカーレットの絵は、メレディスも自分用が欲しい。もう一枚、複製画を描いていた。
スカーレットの目の色は、マリアと同じ。でも髪色は……同じ茶色でも、どちらかと言えばメレディスのものだ。あどけない顔立ちは母親譲り……笑い方は父親譲りだってマリアは話してたけど、このおっとりとした笑顔は、マリアのほうだと思うんだけどなぁ……。
絵の中で可愛らしく微笑む娘を見つめていたメレディスは、こみ上げてくるものに堪え切れず咳き込んだ。
発作のように激しく咳き込んで――咄嗟に背を向けたけれど、咳が落ち着いて絵に振り返ってみれば、美しい肖像画に無粋な色が……。
「ああ、しまった……これは……ダメだな。描き直すしかない」
大切な娘の絵に、なんてことを。傑作だったのに……恐らく、描き直したとしても、その作品はこれ以上の出来栄えにはならないだろう。
だがこれは、人には見せられない。誰にも見られないよう、あとでこっそり燃やしてしまわなくては。
画家のくせに絵を燃やすなんてそんなこと、許されない行為だけれど。
……オーシャンにも、本当は行ってみたかった。まだ見たことのない景色が、きっと世界にはまだたくさんあるはず。
でも、無情な残り時間を知らせてくるこの身体を抱えていては。
――新しいキャンパスを取り出し、メレディスは娘の肖像画を改めて描き始めた。
次話から第五部となります。




