予感
「……こうして、名犬フェリシーはクリスタル姫の子として生まれ変わり、立派な王子様となって、国中の人たちから愛されました」
マリアが絵本を読み終えると、その犬のモデルがマサパンなのよね、とリリアンが目を輝かせて口を挟む。
「でも……そうなると、エドガーがマサパンの生まれ変わりということになるんですか?」
パーシーは、やや懐疑的に呟いた。
何度も語って聞かせたおとぎ話だが、この話を聞かせるたび、子どもたちの間ではちょっとした議論になる。
マリアは、いつもそれを口出しすることなく眺めていた。
どんな結論になるのか……どんな意見を持つのか、子どもたち任せにしている。所詮はただのおとぎ話……でも、子どもたちが信じたいものを、真っ向から否定したいとは思わない。
みんなに愛されていたマサパン……何かしらのかたちで幸せになっていてほしいと。その想いは同じだ。
「デイビッドにこんな才能があったとはな。長い付き合いだと思っていたが、私も知らなかった」
ベッドで寛ぎながら、ホールデン伯爵は例の絵本のページをめくる。
王子様を探して旅をするお姫様と、そんなお姫様を守った勇敢な犬の物語――作者は、クラベル商会の従業員でもあるデイビッド・リースだった。
もともと、作家志望ではあったらしい。言語を勉強していて……その特技を生かして、クラベル商会で働いていたが。
商会で働くのは楽しいので不満はないが、こっそり物書きの真似事は続けていたそうだ。そして、マサパンをモデルにこの本を書いた。オフェリアが挿絵をつけて子供向けの絵本となり、エンジェリクの王都ではそれなりに話題の本となった。
「すっかり、我が家の子どもたちのお気に入りです。何度も読み聞かせたので、私、もう暗唱できますわ」
伯爵の隣に腰かけ、マリアも絵本を覗き込む。
オフェリアが好みそうなハッピーエンド――マリアも、彼女のことは大好きだったから、幸せな一生だったと信じたい。
優しく自分を抱き寄せる伯爵の胸に甘えるようにもたれかかりながら、マリアは目を閉じ、無邪気で勇敢だった友に想いを馳せた――。
ああ、これは夢だ。
マリアはそう直感した。
だって……そうとしか説明できない状況だ。自分はさっきまで、エンジェリクの王都にある屋敷の寝室で……ホールデン伯爵と共にベッドに入ったはず。
なのにいま、マリアの目の前に広がるのは……一面の海――白い砂浜に、波が寄せては返す……遠くに水平線が見えて……砂浜に視線をやれば、とことこと、マサパンがこちらへやって来た。
「……私に、お別れを言いに来てくれたの?」
自分のそばで立ち止まり、自分を見上げるマサパンに目線を合わせるように、マリアも屈む。
マリアの問いかけに、マサパンは尻尾を振った。
「来てくれてとても嬉しいわ。私も、あなたに会いたいと思ってた。ちゃんと伝えておきたかったの……ありがとう、マサパン」
そう言って、マサパンをぎゅっと抱きしめる。マサパンは、嬉しそうにまた尻尾を振った。
「私がこうしていられるのは、あなたのおかげ。あなたが、命を賭けていつも私たちを守ってくれていたから……本当にありがとう。命だけでなく、私の大切なものを、あなたはたくさん守ってくれたわ」
頭を撫で、マサパンを見る。マサパンは、自分の勇敢さや手柄を誇ることなく、いつもと変わらぬ無邪気な瞳でマリアを見つめていた。
「……ねえ、マサパン。ひとつだけ教えて」
マリアが囁く。
「あなたは、私たちに会えて幸せだった?」
ずっと気になっていた。
マリアは、彼女に出会えて、たくさんのものを守ってもらえた。何度マサパンに救われたか、数えることもできない。
でも、彼女はどうだったのか。生涯を、マリアやオフェリアのために……最期の時まで、マリアたちを守り続けた。そんな一生を送って、彼女は幸せだと思ってくれていたのか……。
マサパンはマリアをじっと見つめ、ワン、と親愛を込めて吠える。ぶんぶんと尻尾を振って、自らマリアに身をすり寄せてきた。
「マサパン……大好きよ。私たちみんな、あなたのことが、ずっと……」
マリアが抱きしめたマサパンの身体が、すうっと透き通っていく。次第に、淡い光を放ち始めて……光の粒となって、マサパンの身体は消えていった。
しばらくの間、光はふわふわとあたりを漂って……別れを惜しむようにマリアにまとわりつき……。
あら、とマリアは目を瞬かせた。
光はマリアの全身を包み、やがて一か所に集まり始めて――マリアの、お腹のあたり。そこで、すっと光も消えた。
「……君は不思議な夢ばかり見るな」
朝、目を覚ましたマリアがマサパンに会った夢のことを話せば、伯爵に笑われてしまった。
自分はオカルト嫌いの現実主義のつもりだったが……自分に都合のいいことを信じたがるのは、人間の性だ。仕方がない。
「その子は、ずいぶんと数奇な運命にあるらしい」
そう言って、ホールデン伯爵はマリアの腹を優しく撫でる。そんな伯爵の手に、自分の手をそっと重ね、マリアも微笑んだ。
「私のおかしな夢も、笑い飛ばすことなく聞き入れてくださる旦那様……私、優しい旦那様が大好きですわ」
きっとあれは、ただの夢。自分の願望が、マリアに都合の良い夢を見せただけ――でも、ただの夢じゃなかったと、そう信じているほうが幸せだ。
あれが夢でも、そうでなくても、このお腹の子が、マリアにとって愛しい存在であることには変わりないのだから。




