ある日突然に (1)
オフェリア付きの侍女であるベルダはエンジェリク人ではない。
遠い異国から奴隷として連れて来られた少女で、まだオフェリアがヒューバート王子と結婚する前からの付き合いであった。オフェリアとは主従と言うよりも友人……いや、姉妹のように仲が良い。マリアも彼女のことは信頼しており、ベルダがオフェリアのそばにいてくれるなら、妹の城暮らしも安心だった。
そんなベルダはいま、マリアの暮らす屋敷に帰って来ていた。
妊娠して……ギリギリまでオフェリアの侍女として城にいたのだが、さすがに出産前後は休養を取る必要があって。ちょっと渋っていたが、マリア付きの侍女であるナタリアと役目を交代し、屋敷に帰って来た。
マリアやオフェリアの子どもの世話をしたことがあるから、自分の子も大丈夫。
明るくそう言っていたが、やはり自分がやるとなったら勝手が違うようで。
「あーん、あんたってば父親に似て面倒くさい子なんだから!そんなとこ似てどーすんのよ!」
生まれた我が子はちょっと気難しい子らしく、ベルダをてこずらせてはこんな台詞を言わせている姿を時々見かける。
今回は、オフェリアとヒューバート王に連れられて妻の様子を見に来たマルセルに、ばっちり目撃されていた。
「面倒くさくて悪かったな」
「あっ、マルセル!あんたもこの子に言ってあげてよ。私の言うことを素直に聞いて、文句があるならはっきり言いなさいって」
「無茶言うな」
憎まれ口ばかり叩いているが、夫が会いに来てくれたことをベルダも喜んでいるようだ。
赤ん坊の扱いはさっぱりなマルセルにあれやこれやと指示を出し、父親ならしっかりあんたも世話しなさいよ、と普段の調子を取り戻している。
ヒューバート王も、マルセルとベルダの息子を笑顔で見つめた。
「男の子……名前はフェリクスだったかな」
「はい。いずれは陛下や王妃様、エステル王女をお守りするような立派な騎士に、必ずや育て上げてみせます」
騎士の息子として生まれるのも、なかなか大変なことだ。
目を輝かせて誇らしげに語るマルセルを見ながら、マリアは苦笑した。
「ベルダはどんな子に育ってほしい?」
オフェリアが聞くと、ベルダはちょっと考え込んだ後、特に希望はありません、と答えた。
「この子が何になりたいか、自分でいっぱい悩んで育てばいいんじゃないかなって、そう思います。私は、何になりたいとか、何になるべきかとか、考えることもできないような場所で生まれて……この子は、何にでもなれる贅沢をたくさん感じて育つことができれば。きっといつかは自分で自分の道を見つけられますよ。私とマルセルの子どもなんですし」
そう言いながら我が子を見つめるベルダの表情は、まぎれもなく母親のそれで。マルセルも、妻の言葉に誇らしさや愛しさを感じているようだった。
オフェリアとヒューバート王も、そんな夫婦をにこにこと笑顔で眺めている。
幸せで温かい雰囲気に包まれた部屋――ベルダたちに気付かれぬよう、そっと出ていく者がいた。
自分が追いかけるべきなのかどうかマリアはためらい、アレクがナタリアを追っていくのを見て、結局は二人の様子を見守ることにした。
ナタリアがどうして部屋を出て行っていたのかわかるから……マリアでは、どうフォローしていいのか分からない。
ナタリアは部屋を出て、中庭に出た。庭に咲く花を眺めるふりをして、静かな溜息を吐く。
アレクはナタリアを追いかけてきたものの、彼もまたどう声をかけるか悩んでいるようで。
「あの、ナタリア……」
声をかけられ、ナタリアは驚いていた。考え込んでいて気付けなかったというのもあるだろうが、アレクが気配を殺すのが上手過ぎる。オフェリア王妃の護衛をやるぐらいだから武術の腕が優れているのは知っていたが……この屋敷へ来たばかりの頃は、あどけなさの残る少年だったのに。
「えっと……悩み事から抜け出せない時は、風呂に入るのが一番いいって言ってた。身体がさっぱりしたら、気持ちも少しは晴れるからって」
もごもごと目を逸らしながら話すアレクに、ナタリアは苦笑する。マリアも二人の様子をうかがいながら苦笑してしまった。
昔、自分がアレクに言った言葉だが……改めて人が話しているのを聞いてみると、なかなかとんでもない言い分だ。言ったアレクが気まずそうにするのも、言われたナタリアが苦笑いしかできないのも当然か……。
「……ごめん。ナタリアよりは、デイビッドのほうに言えば良かったかも。あの人、いつも帰ってくるの遅いし、風呂嫌がるし。風呂入る暇があったら仕事したいって……今度、書類取り上げて風呂場に放り込んでみる」
自分で自分の台詞の支離滅裂さに気付いたアレクは、少し赤面しながらそう言った。
ナタリアは明るい声をあげて笑い、それからありがとう、と笑顔で答える。
「私を気遣ってくれたのね。あなたは……悪ぶるけれど、本当はとても良い子だわ。昔から」
「良い子扱いなのは納得いかない」
アレクは拗ねたような素振りをしつつも、ナタリアが笑顔をになってくれたことでホっとしていた。
「……卑屈になるつもりはないけど、ベルダにまで追い越されてしまったのはやっぱりきついわね。あの子が母親らしい顔ができるようになったこと、私もとても誇らしく感じてはいるの……でも、複雑な気持ちがどうしても拭いきれなくて……心から祝ってあげられない自分が、嫌でたまらないわ」
マリアが子を生み、オフェリア、そしてベルダも。それなのに、ナタリアにはまだ子どもがいない。年齢も結婚もナタリアが一番なのに。
それに対してナタリアが複雑な思いを抱いていること、マリアはずっと気付いていた。
……こればかりはマリアでもどうしようもできない。マリアはあっさりと子を得た女で……。
「ナタリア、これあげる」
アレクが懐から一枚の紙を出し、ナタリアに渡した。
丁寧に畳まれた紙を広げ……そこに描かれた物を見て、ナタリアは困惑していた。
「これは、メレディス様の絵……?マリア様をお描きになった……。あっ、そう言えば。以前、絵を一枚失くしたと話していらっしゃったけれど、まさかアレク……」
「なんかメレディスは勝手に勘違いして、シルビオが盗んだと思ってるみたい。別にそれに関しては僕は何もしてないし。メレディスが勝手に言ってることだから。仕方ないね」
アレクは悪びれる様子もない。
そう言えば、以前メレディスがマリアを描いた絵をなくしたと言っていた。前科があるし、どうせシルビオだろうと気に留めていなかったが……そうか、アレクだったのか。あとでメレディスに密告しておこう。
「ほら、ナタリアはオルディスに帰った時、熱心に教会に通ってたでしょ。あそこの聖女って、子宝祈願でご利益あるから。でもさ、とっくに死んだ人間に祈るより、マリアに祈ってみたほうが効果あると思うんだよね」
思わず変な声が出そうになって、マリアは口を押さえた。ナタリアがマリアに気付かせたくないことを、よりにもよって盗み聞きとか。そんなことが分かったら、ナタリアを余計落ち込ませ、傷つけてしまう。
「マリア様に、ですか」
ナタリアも困惑している。
祈られても信者としては不真面目なマリアでは、あまりご利益がないと思うのだが。アレクはやけに自信満々だ。
「だってあの聖女って、子どもが好きだっただけで別に自分で子ども生んだわけじゃないんでしょ」
「それは……十代ですぐに修道女になった女性なわけだから」
「うん。だから子どもを生むことに関してはマリアのほうが経験豊富で熟知してるわけだよ。経験者の方が絶対うまくいくって」
「そういうものなのかしら……?」
首をかしげつつも、ナタリアは謎の説得力に納得していた。
――いや、絶対その言い分はおかしいって。
アレクからもらったマリアの絵を、ナタリアがその後どうしたのか直接聞くことはできなかった。しかし後日何も知らないデイビッドが愚痴をもらし、マリアは絵のその後を知ることができた。
「ナタリアさんがマリアさんの絵を飾って、熱心にお祈りを捧げてるみたいなんですが……なんだかマリアさんに見張られてるみたいで、私としてはどこか違う場所に貼って欲しいです……」
マリアに見張られてると思うと、おちおち残業もできない。
ララから聞かされ、それで最近のデイビッドは帰りが早く、ナタリアも幸せそうにしているのかとマリアは頷いてしまった。
なんだか考えていたのとちょっと違った結果に転がったが、夫婦仲が深まるのは良いことだ。特に子どもがいないのなら、お互いを思いやる気持ちは大切になる……。
マリアはそう思っていた。
ナタリアも、彼女なりの幸せを見つけてほしいと。心から……。故郷キシリアから一緒にエンジェリクへと渡ってくれたナタリア。自分たちを守るためにナタリアの母親も命を賭けてくれたのだから、ナタリアを幸せにすることはマリアの義務でもある。
「うん、そういう経緯でナタリアは君をモデルにした聖母像に目を輝かせてるんだね」
娘の乗る揺りかごを優しく揺らしながら、オルディス領主エリオットは苦笑する。マリアも困ったように笑うしかできない。
小さな泣き声が聞こえて来て、マリアはベッドから起き上がり娘を抱く。
次女リリアンは生み月より早めに生まれた。そのせいなのか、いままでマリアが生んだ子どもの中で誰よりも小さかった。心なしか泣き声もちょっと弱々しい。
自分も抱きたくてうずうずしているおじのため、マリアは彼に寄り添い、不自由な左手を補助しながら娘を渡す。娘を抱くと、おじはふにゃりと顔を崩した。
おじはいま、オルディス領から王都にある屋敷へ来ていた。マリアが子どもを生んだと聞いて……。
本当は生まれる前に領内での仕事を片付けて到着している予定だったのだが、マリアの出産が思いのほか早くなってしまい、おじが我が子に会えた時には、すでに生まれてから一週間が経ってしまっていた。
「マリア様、リリアン様の泣き声が聞こえたような気がしたのですが」
隣の部屋に控えていたナタリアが、様子を見にやって来て声をかける。
ちょっとぐずってるだけよ、とマリアは答えた。
「おじ様があやしてくださったら、すぐに落ち着いたわ。だからあなたは心配しないで。陛下も気遣ってオフェリアごとベルダを屋敷に帰してくれたことだし、あなたは自分の療養に専念して――ほら、デイビッドさんが飛んで来た」
ドタドタと騒がしい音が響き、デイビッドが駆け込んでくる。
せっかく父親にあやしてもらって眠りかけたのに、リリアンはまたぐずり始めてしまった。
「ナタリアさん、何をしてるんですか!?いまの時期は大人しくしていないとだめでしょう!マリアさんに散々お説教してきたんですから、今度はあなたの番ですよ。仕事なんて禁止です!」
不満そうにするナタリアを、無理やり引っ張ってデイビッドが部屋へ連れ帰っていく。
ナタリアの妊娠が発覚して以降、デイビッドはあんな調子で過保護になってしまっていた。たまには彼女が説教される側になるのもいいと思う。
だってナタリアは、マリアの時にはあんなにお説教して、大人しくしてくださいとしょっちゅう言ってたくせに。自分は仕事をしようとして、デイビッドだけでなくオフェリアやベルダにまで説教されている。
時々助けを求めるようにマリアを見ることもあったが、マリアは気付かなかったふりで微笑むだけだった。
「良かったね。ナタリアも子どもができて」
「まだ妊娠初期なので、油断はできませんが――それにしても参りました。絵に描かれた私にお祈りし始めたら、あっさり妊娠して。おかげで妙な逸話ができてしまいましたわ」
あの後。
ナタリアはそれまで悩み続けた日々が嘘のようにあっさりと妊娠した。
これはマリアのご利益に違いないとひどく感謝されてしまい……。
「おじ様。私をモデルとした聖母像は勘弁してくださいませ。そんなものが飾られるなんて、恥ずかしくて居た堪れませんわ」
「でもすごく美しい聖母像だし……ご利益もばっちりって、すでに証明済みだから。せっかく作ってもらったのにキシリアに送り返すなんてもったいないよ」
数年前、キシリアへ遊びに行ったメレディスは著名な彫刻家と知り合い、その彫刻家に依頼してマリアをモデルにした聖母像を彫ってもらっていた。自分で描いたマリアの絵を送って。
彫像というのは一体作り上げるのに数年かかるのもザラらしく、マリアはそんなことをすっかり忘れていた。
ようやく完成し、彫刻家は約束の像を送ってくれた。
……送ってくれたけれど、これをどうしろと。
「教会に飾ろうよ。シモン修道士なんか、きっと喜んで毎日祈ってくれるよ」
そう言えば、あの教会にはそんな変態もいた。それを思い出したら聖母像を叩き割ってしまいたくなるのも、無理ないと思う。




