遠くを想う
ゆりかごの中で眠っていた娘セレンが、うっすらと目を開けた。
まだちょっと眠たそうにしているが、ゆりかごの居心地がなんだか気に入らないらしい。むずがって小さな泣き声を上げる娘を、マリアは優しく抱き上げた。
異国の父親の血を引くセレンは、やはり他の兄妹たちに比べても特徴的な容姿をしていた。
でも、瞳の色はマリアと同じで。オルディス家の特徴をしっかり受け継いでいる。
「外が気になるの?昨夜、雪が降り始めて……今年初めての雪だから、お兄様たちはみんな遊びに行ってしまったわ。いまはお天気もいいし、あなたも外へ出てみる?」
きょろきょろと瞳を動かす娘に向かい、マリアは話しかける。ブランケットを手に取って、娘の身体をしっかり包んだあと、娘を抱いたままマリアは外へ出た。
庭に出た途端、賑やかな声が聞こえてくる。
息子のセシリオ、ローレンス、パーシーが、雪合戦をしておおはしゃぎしているところだ。
娘のリリアン、アイリーン……それから末の弟ニコラスは、スノーマンを作っている。
鼻の頭を真っ赤にしながら姉たちと熱心にスノーマンを作っていたニコラスが、マリアに気付いてパッと駆け寄ってきた。
「母上、スノーマン、作ってました」
父親そっくりのポーカーフェイスだが、どこか誇らしげに目を輝かすニコラスに、マリアはくすりと笑う。手を伸ばして息子の頬に触れてみれば、すっかり冷たくなっていた。
「ニコラス、スノーマン作りが終わったならお前も来いよ。こういうの、本当に苦手なやつだなぁ」
大きな雪玉を手に、ローレンスが叫ぶ。ニコラスは、嫌そうにクリスティアンの後ろに隠れた。
兄妹たちを少し離れたところで見ていたクリスティアンが、苦笑いで仲裁に入る。
「お前たちとニコラスじゃ、年齢差があり過ぎる――弱い者いじめだろう。自分たちを基準に考えるんじゃない」
リリアンは、アイリーンが作ったスノーマンの顔を見てクスクス笑っている。その気持ちは、マリアもよく分かった。
アイリーンはスノーマンの顔の配置をしていたのだが……小物の角度が、何とも言えず……誰かさんを思い起こさせる。
「ふふ、アイリーンったら。そのお顔、なんだかジェラルド様に似てるわ」
アイリーンは姉に笑われるのが納得いかないらしく、自分が作ったスノーマンの顔を見つめ、首を傾げている。
スカーレットは、庭の片隅で雪のかかった花をスケッチしている……。
「マリア」
従者のララが、庭に出ているマリアを見つけて急いで自分も外に出てきた。
上着を手に――マリアに、それを羽織らせる。
「セレンと外に出てたのか……まだ、ちょっと早くないか?」
娘のセレンは早くに生まれ、あまり体が丈夫ではない。だから、寒い季節に外に連れ出すことがララは不安でならないらしく。
マリアも、分厚い雲が空を覆い始めたのを見て同意した。
「気候は落ち着いてるから、ちょっと散歩のつもりだったけれど……そうね。もう部屋に入ったほうがいいかも。あなたたちも――そろそろお部屋に入りましょう。お風呂に入って身体を温めて、おやつにしましょうか」
マリアが声をかければ、子どもたちは素直に頷いて部屋に入り始めた。
スカーレットだけは、スケッチに夢中だから気付かなくて――リリアンとアイリーンに引っ張られ、ようやく部屋の中に入ってくる。
楽しそうに笑っている子どもたちの笑顔を見ていると、マリアも自然と笑顔になり……少し、胸が痛んだ。
その痛みは、愛しい我が子を見るたびにマリアを苛んでいた。
「会いたい人に、会えるお香……ですか」
その日、マリアはホールデン伯爵からの贈り物を、珍しく素直に受け取った。
やたらと貢ぎたかがる人なので、最近はお説教やお小言を繰り返していたのだが……今回は、伯爵が持ってきた品に強い興味を抱いた。
「この香に火を点けて、会いたい人の顔を思い描きながら目をつむると、夢の中でその相手に会えるらしい――胡散臭い話ではあるが、真っ向から否定してしまうのも野暮というもの。ちょっとしたお遊びと思って、試してみてはどうだ」
伯爵から贈られたのは、セイランから伝わった香だった。
美しい細工が施された香を、マリアはじっと見つめた。
伯爵からもらった香のことを思い出したのは、それから数日経ったある日の昼下がりであった。
子どもたちが、珍しく全員揃ってお昼寝をして――マリアの生まれ故郷キシリアにはシエスタの習慣があり、オルディス家では昼寝がおおいに推奨されていた。
本来のシエスタは夏に行われるものだし、子どもたちも大きくなって、あまり昼寝をしなくなったのだが、その日はみんな遊び疲れ、はしゃぎ疲れたみたいで、うとうとと……。
ちょうど末娘セレンも眠ったところで、マリアも休息を取ることにした。
それで――ふと、あの香のことを。
香を取り出し、火を点ける。やがて時間が経ち、静かに……じんわりと、落ち着く香りが部屋を満たし始めた。
会いたい人に会える。
その言い伝えを信じているわけではないが、遠いかの国を思い出させる香りは、それだけで……。
たぶん、この香は、心地良い眠りに誘うものなのだろう。会いたい人に会えるという逸話は、その副産物。
ふっと笑い、マリアはクッションを枕にして長椅子にもたれかかった。どこか懐かしい香り……夢でいいから、あの子に会いたい。
マリアが目を覚ました時、そこは見慣れた屋敷ではなかった。
エンジェリクではあり得ないような様式……マリアの記憶が正しければ、セイラン風の室内。しばらくあの国で生活していたから、はっきり分かった。
……セイランのことを思い出していたから、本当に夢に見たのかしら。
横になっていたセイラン風の長椅子から起き上がり、マリアは改めて室内を見回した。
マリアはずっと、後宮の一室で生活していた。ここは、マリアが過ごしていた部屋ではないようだ。
なぜ、そんな何の馴染みのない部屋を――あの香の匂いがただよってくる。
オカルトや迷信は信じないほうだが……伯爵の言う通り、理屈っぽく考えるのも野暮というもの。
マリアは、匂いに誘われるまま部屋を出た。廊下を歩き、いくつか部屋を通り過ぎ――誰ともすれ違わない。人の気配もない。
無人……という言葉が脳裏をかすめたが、匂いをたどって着いた部屋には人がいた。
背の高い男。マリアに背を向けて、じっとしている。
マリアの記憶にあるよりも白髪が増え、少し痩せていたから、それが誰なのかすぐには気付かなかった。
「シオン様?」
マリアが恐るおそる声をかければ、男がパッと振り返った。
マリアを見つけ、目を丸くして、なぜここに、とシオン太師が呟く。
「いえ……私にも、何が何やらさっぱり……」
困惑しながら答えたマリアは、シオン太師のそばに見覚えのあるものを見つけ、あ、と声を上げた。
それは、マリアがホールデン伯爵からもらったものと同じ……。
「これか。これは、セイランでいま流行っている品でな――会いたい人間の顔を思い浮かべて寝れば、夢の中で会えるらしい」
どうやら、シオン太師はその香に見入っていたらしい。
マリアの反応から、太師も、マリアが同じものを使っていたことを悟った。
「……そうか。おまえも、これを……」
大股で近づき、シオン太師が力強くマリアを抱きしめてくる。長い間、戦場で戦い続けた太師の力で抱きしめられると、ちょっと痛い。
……でもそれも、とても懐かしい感覚だ。
「おまえも、わしに会いたいと思ってくれていたのだな……」
太師の背にマリアも腕を回し、彼を抱きしめ返しながら――実は、と告白する。
「本当は、リチャードに会いたかったんです。でも……私、あの子の顔を知らないことに気付いて……」
香に火を点けて、セイランに置いてきてしまった息子の顔を思い浮かべようとした。
――できなかった。
だって、マリアが知っているリチャードは、赤ん坊の姿。あの子がいま、どんな子供に成長したのか……マリアは知らない。
「リチャードならば、なかなかやんちゃな子に育ったぞ。好奇心が強くて、屋敷中の大人たちがあの子に振り回されておる。誰に似たのやら」
からかうように、太師が笑いながら言った。マリアも笑い、言っておきますが、と反論する。
「子どもの頃の私は、育てやすい賢い子で有名だったのですよ。時々、どうしようもなく頑固になって周囲を困らせたことはありますけど……」
「――目元はお前譲りだ。笑うと、お前にそっくりで……物怖じせず、人懐っこい性格ゆえ、シャンタンやグーランにも可愛がられておる。最近では、姉上のもとにまで出入りしているとか」
太師の腕の中で、マリアは微笑んだ。
リチャードはセイランで、シオン太師たちの深い愛情のもと、幸せに育っている――そう信じたい、マリアの願望が見せた都合の良い夢だったのかもしれないけれど。
「……あの、シオン様?これは夢ですし、こういうことをしてもあまり意味がないと思うのですが」
シオン太師に押し倒され、マリアは苦笑まじりで彼を見上げる。
気付いたら寝台の上――こんな都合の良い状況も、やっぱり夢だから……だろうか。
「何を言うか、むしろ逆であろう。夢なのだから、何をしようとも許される。多少無理をさせても、夢だから問題ない」
「もう……勝手な言い分ですわ」
そう言いつつも、慣れないエンジェリク風のドレスを脱がせるのに手間取る太師に代わり、マリアも自ら服を脱ぐ。
起き上がり、太師の首に腕を回して、マリアから彼に口付けを求めた。
「……ということがございまして。秘密にしておくべきかと思ったのですが、さすがに後ろめたいというか」
いつもと変わらぬエンジェリクの屋敷――マリアの寝室で。
マリアから嬉しい報告を聞かされた伯爵は、続く懺悔に苦笑いを浮かべていた。
「気にしない……とはさすがに言えんが。あの香を持ってきたときに、君が誰を思い浮かべるか、私もある程度予想はしていた」
もっとも、この展開は伯爵も予想外だっただろうが。
「私の子は、いつも何かを背負う運命なのかもしれん。私が父親だからなのか……母親の君が、波乱に満ちた人生を送り過ぎているのか」
言いながら、伯爵はマリアの腹を撫で、マリアに優しく口付けてくる。それを受け止め、甘えるようにマリアは夫の胸にすり寄った。
伯爵と結婚し、新婚期間を楽しんでいたマリアは――彼とは、よほど相性が良いらしい――また妊娠していた。
心当たりは夫しかない。さすがに蜜月の間は、他の男を遠ざけていた。
だからこの子の父親は、ホールデン伯爵で間違いないはずなのだが……ちょうど身ごもった時期に、あんな夢を見てしまって。
本当に伯爵の子なの?と、マリア自身、ちょっと疑ってしまったり。
「仕方がない――君の浮気性に腹は立つが……そんなところも愛しくて堪らないのだから、いまさらだ――私も末期だな」
「ヴィクトール様は本当にお優しくて、私を甘やかすのがお上手ですわ」
「そんな殊勝な態度を取っても許しはしないぞ。子が生まれたら覚悟しておけ――子が生まれるまでは、自分と子を慈しむことだけを考えておけばいい」




