それぞれの終幕 (4)
その夜、王都にあるオルディス邸を、ホールデン伯爵が訪ねてきた。
――どうしても会いたいと、マリアに乞われて。
「すみません、急に会いたいと呼び出してしまって」
夕方頃から雨が降り出し、夜も更けたいまは、みぞれまじりに。
伯爵の手に触れてみれば、すっかり冷えてしまっていた。
「君からねだられては断れん。それも、会いたいなどと……そんな可愛らしいわがままではな」
マリアを抱き寄せ、伯爵が額に口付けてくる。マリアも、彼の頬にキスを返した。
「いったい何の用事なのかと期待したが……もしや、用があったのはそっちの男のほうか」
苦笑いで伯爵が言う。
伯爵の視線の先には、マリアの部屋に残ったララが。
普段なら空気を読んでさっさと部屋を出て行く彼が残っているのを見て、そう察したらしい。
「いや、俺は伯爵が訪ねてくるって聞いたから、ちょっと頼みたいことがあって……。それが終わったら、すぐ退散するよ」
「ふむ。君が私に頼み事。珍しいことだな」
意外そうに伯爵が相槌を打った。
「ノアにさ……俺が謝ってたって伝えてほしくて。面と向かって直接言うべきなんだろうけど……そうすると、あいつ、あっさり許してきそうだから……あんたに間に入ってもらったほうがいいかなって――あれは、やっぱり俺の八つ当たりだった」
何のことだ、とは伯爵は尋ねなかった。
マリアがデメトリア王妃たちに薬を飲まされた時のことだ――ノアがそばについていながら、マリアはそれを飲んでしまって。マリアがノアを制止したのだから、ノアが責められるべきことではなかったのだが……ララは激怒し、彼を殴り飛ばした。
「止めたかったのなら、俺が飛び込んで行って割って入ればよかったんだよ。でも俺も……決定打が欲しいって俺を止めるオーシャンの王子たちの言葉に同意しちまって。自分のことを棚に上げて、ノアに責任を押し付けた」
「気にすることはない。むしろ、君が殴りつけてくれたおかげで、ノアは自己嫌悪の嵐に陥らずに済んだ。あれで意外と繊細だからな。マリアに被害を与えてしまったこと――すぐに落ち込む」
苦笑まじりに伯爵が言った。
「しかも、すでに何度もそれで失敗をしている。君が罰を与えていなければ、数日間は落ち込んで、立ち直れなかったはずだ。たまには厳しい態度でマリアの命令を拒否すべきだと、常々言い聞かせてるのだが」
「あいつ、なんだかんだマリアに甘いからなぁ」
ララも、ノアの困った癖について、呆れたようにため息を吐く。
――なんだか二人とも、わざとらしい。
マリアは唇を尖らせ、拗ねたように口を挟んだ。
「……二人とも、遠回しに私がワガママ過ぎるって責めてるのね」
「自覚あるならいい加減改めろ。俺やノアの寿命を何十年縮めれば気が済むんだよ」
「私にそんなこと求めるのは諦めて、自分たちの寿命を延ばす努力をすべきだわ」
開き直るんじゃねえ、とララに怒られてしまった。
無理なものは無理だもん。
「いまさら、彼女にそれを期待するのは無駄だろう。甘やかすばかりの我々では、どうにもならん」
「むう。ヴィクトール様まで」
用が終わったなら、さっさと出て行きなさい――マリアは不貞腐れながら、ララを部屋から追い出した。
「私だって大切なお話がありましたのに。ララのせいで、雰囲気が台無しです」
「君から大切な話……聞くのが、いささか恐ろしいな」
長椅子に腰かける伯爵の隣に、マリアも座る。そして、一通の文書を手渡した。
「これは……」
丸められた文書を開き、内容に目を通す。
それは、マリアがオーシャンの王太子オズヴァルトからもらった証明書。イザイア王子の助命と、オーシャン王家の尻拭いを色々と代わりにやってやった、その借りを返してもらった。
夫と離婚し、これを手に入れる――いままでの苦労も、少しぐらいは報われるというもの。
「オーシャン王には、素行の良くない叔父がいたそうです。若い頃から、女性関係のトラブルが絶えず……その対応に、王はいつも悩んでいたとか。ついには王も見放し、彼は国外追放となりました」
でも、叔父と親しかった王は彼を見捨てることはできず、こっそり支援を続けて……そうやって甘やかすものだから、彼も改心することはなく、最期まで贅沢と快楽の日々を続けたらしい。
そんな男だから、死んだ後もトラブルは続き……。
「彼が寵愛した女性の一人……彼女には夫がおり、そのような状況で道ならぬ恋に燃え上がりました。しかし、男の気持ちなど移ろいやすいもの……最後は捨てられてしまった。誰にも打ち明けることのできない秘密を抱えたまま……」
生まれてきてはならない命。だからと言って、そう簡単に堕胎できるわけもなく。
悩む内に堕胎することもできない時期となり、彼女は子ども生んだ――生まれた子は、召使いによって密かに養子に出され、遠いエンジェリクへ……。
そこで、思いもかけぬことが起きた。
赤子を引き取るはずだった夫婦が、その数日前に流行り病で相次いで亡くなってしまい、子は行き場を失った。
まさかオーシャンに連れ帰ることもできず、対応に困った仲介人は、こともあろうに赤子を教会の前に捨ててきてしまった。
――聖ヴィクトール像の前に。
「実に面白いおとぎ話だな」
伯爵が言った。
書類に書かれているのは、そんなおとぎ話の末に生まれた子供の出生証明書。だが伯爵は、それにほとんど関心がなさそうだ。
「なるほど……これで私は、オーシャン王族の血を引くやんごとない生まれとなったわけか。だが……それだけだ」
そう話す伯爵の声には、珍しく険が含まれていた。
マリアが語ったおとぎ話は、伯爵のプライドやコンプレックスを大いに刺激するものであった。
どれほど財を成そうが、手に入れられないもの。
ヴィクトールという男の生まれは、どれほど金を積もうと変えられない。
ホールデン伯爵の称号を得たが、本物の貴族になったわけではない。こんな紙切れを振りかざしたところで、何の効力もない。何が得られたわけでもない……。
本当のヴィクトールは、孤児の、何も持たないただの男だ。
「ですが、建前はできますわ。オルディス公爵の夫になるだけの」
伯爵の険悪な雰囲気を気に留めることもなく、マリアはニコニコと笑顔で言った。
一瞬、何を言われたのか伯爵は分からなかったようだ――目を見開き、じっとマリアを見つめ……言葉を失っていた。
「……ヴィクトール様」
伯爵の手を取り、マリアは彼の前に跪く。
――この日が来ることを、ずっと望んできた。
「マリア・オルディスは、あなたに結婚を申し込みます。私は、あなたのことを旦那様とお呼びしたいのです……。ヴィクトール様……どうか、私の夫となってくださいませ」
照れくさい想いから目を逸らすことなく、マリアは真っ直ぐ彼を見つめて言った。
でも、そんな顔をされると、吹き出さずにはいられない。
呆然と、口を開けて伯爵は驚く――普段からは想像もできないほど、ちょっと間抜けな表情。
もう十年以上彼と共に過ごしてきたけれど、そんな顔をするのは初めて見た。マリアがさせているのだと思うと、とても愛おしい……。
「……君は」
ようやく我に返ったらしい伯爵が、口を開いた。
何を言うべきか――何を考えるべきなのか、彼自身、まだ思考が追い付かないようだ。
「君は……とてつもなく愚かだ。もっと賢い女だと思っていたのに……こんな……何の利にもならぬ男を、夫にしようなど……」
「ヴィクトール様と結婚できるのでしたら、私、バカな女で結構ですわ」
ふふ、とマリアは笑う。
それは、偽りのない本心。
旦那様と呼ぶのなら、彼以外に考えられない。他の男と結婚させられて、それを強く感じた。
「ヴィクトール様……プロポーズのお返事は、いただけないのですか……?」
彼の手を両手でぎゅっと握り、マリアは伯爵を見上げる。
伯爵はまた言葉を失い……黙り込んで、何も言えないまま――マリアの手を引っ張って、強く抱き寄せてきた。
自分を抱きしめる伯爵を抱きしめ返し、彼の腕の中、幸せな想いで……ちゃんと言葉にして欲しかった、と心の内でこっそり愚痴をこぼした。
……でも。彼が照れる姿なんて、めったに見れるものじゃないから。今回は、これで許してあげよう……。
「んー……じゃあ、俺たち、これからは伯爵のことを父さんって呼ばなくちゃいけないのか?」
母から結婚の報告を聞かされた子供たち――ローレンスは、眉を八の字にして首を傾げた。
どうでもいいんじゃないか、とセシリオは答える。
「もう少し大きくなったら、おまえやパーシー、ニコラスは、それぞれの父親の家に養子に出されるはずだ。無理に伯爵を父上と呼ぶ必要もないだろう」
「そっか。じゃ、いままで通り、自分の父親を父さんって呼んでればいいんだな」
弟たちのやり取りを眺め、クリスティアンは笑う。
母の二度目の結婚――でも、自分たちを取り巻く環境に大きな変化はない。ただ、一つだけ違うのは……母が、とても幸せそう。
……そしてそれ以上に、父は幸せで、手が付けられないほど浮かれきっていて。
「旦那様!いい加減になさってください!浪費も、さすがにもう見逃せません!」
マリアは伯爵に対し、カンカンになって怒っていた。
屋敷に、新たな贈り物が届いて。
「いったい何着……いえ、何十着ドレスを買うつもりなのですか!それも、一度着るだけのものなのに!」
「何を着せても似合ってしまう君が悪い。だいたい、私を夫にするのなら、それぐらいのことは覚悟しておくべきだったのだ」
マリアとの結婚が決まり、ホールデン伯爵は彼女に次々と婚礼衣装を贈り始めた。
子持ちの年増女の再婚なのだから、式などいらない――マリアはそう主張したが、伯爵が断固として反対した。
せめて、自分のために婚礼衣装を着てほしい、と。オフェリアも、今度こそ私がドレス作るから、と強く懇願してくるものだから、マリアも渋々了承するしかなく……。
それはいいのだが、式で着てほしいドレス、宝石を、過剰なぐらいに贈ってきて。
「僕は別に、何着でも……。どのドレスも美しいし、色んなイメージがあって、描くのがとても楽しみだよ」
そう言いつつも、メレディスも苦笑いしていた。
婚礼衣装のメインとなるドレスは、オフェリアがマリアのために作ることが決まっていた。だから、自分が選んだドレスはメレディスに描いてもらうだけで充分――なんて殊勝なことを言っていたが。蓋を開けてみればこの様。
伯爵は、マリアのために大量のドレスを購入していた。
「お母様、着替え終わったわ」
リリアン、アイリーンを連れ、スカーレットが部屋に入ってくる。
真っ白で、ふわふわとした可憐な衣装を着た娘たちは、天使のように愛らしい。
「可愛い……!三人とも、とってもよく似合ってるわ。衣装もどれも素敵……」
三人は、式で着るための少女用ドレスを選んでいる最中だった。それぞれデザインが異なっており、式でどれを着用するか、実際に着て選ぼうと……。
「ああ、困ったわ。どれも可愛くて、この子たちに全部着せたい……!」
「そう思うだろう。君も、私の気持ちが痛いほど理解できたようで何よりだ」
目を輝かせ、親馬鹿全開で娘たちを見つめるマリアに、伯爵は得意げに頷く。
……あとで、あの子たちの絵も描くことになるんだろうな――メレディスのそんな内心を、クリスティアンは察していた。
第四部・終
いくつか番外編や小話を挟んだ後、第五部が始まります




