それぞれの終幕 (1)
デメトリア王妃の機嫌は、日に日に悪化していっていた。
オルディス領は海に面した大きな川があり、王妃を満足させるものを取り寄せるには悪くない場所であった。
……そう、デメトリア王妃は、ある程度満足していたのだ。当初は。
オーシャンでは王妃の裏の顔が知れ渡り過ぎて、周囲の目も厳しくなってきたし……王太子の力が増し、それに反して王の権威は薄れていって、デメトリア王妃にとってさほど暮らしやすい場所ではなくなってしまった。
そこで思い出したのが、イザイア王子のこと――王太子になることもできず、他国に婿入りしてしまい利用価値のなくなってしまった息子のことなど、その時まですっかり忘れていた。
そうしてオルディス領に来て、久しぶりにデメトリア王妃は満たされていた。
王妃のおこぼれにあずかり、自分たちも楽しめる……彼らも、オルディスという良い遊び場を見つけておおいに満足していた。
それを、イザイア王子の愛人だった女が、王妃に気に入られようと余計なことを提案してきたばっかりに――赤ん坊を連れてくる、と。
デメトリア王妃が、ずっと欲しがっていたもの……最初は、そのへんで安価に買い取ってきた赤子で満足していたのに、次第に質を求めるようになってきて、取り巻きたちは王妃をなだめるのに必死だったというのに……それを、王妃のために連れてくると言い出したものだから、デメトリア王妃は期待し、欲求を抑えられなくなった。
余計な期待を抱かせておきながら、失敗した……おかげで、デメトリア王妃はご機嫌斜めだ。
「おい、例の新入りが戻って来たぞ!」
興奮した声で、仲間の一人が知らせてくる。その声は、どこか喜んでいるようでもあって、まさか、と取り巻きたちは顔を見合わせた。
「あいつ、本当にオルディス公爵をさらってきやがった!」
興奮のあまり、およそ貴族らしくない口調となってしまっていたが……その気持ちもよく分かるほど、取り巻きたちも興奮した。
「オルディス公爵……イザイアの妻ね。たしか……彼女も妊娠していると、イザイアが言っていたわ」
自分のことにしか興味のないデメトリア王妃も、さすがに息子の妻のことは覚えていたらしい。
……妊娠している女だから、記憶に残っていたのかも。
「あの新入り、本当に優秀だな」
どこから自分たちの噂を聞き付けたのか、ふらふらとこの廃墟へやってきた男。
腕は確かなので高く買ってくれ、と自ら売り込んできた。
試しに生贄を連れてこいと命じてみれば、あっさりと上等な女を連れてきて。
――赤ん坊を連れてこれるか、とひそかに頼んでみれば、時間がかかる、と返事が。
そうして彼はどこかへ姿を消し……数週間ぶりに戻ってきた。
その腕に、オルディス公爵を抱いて。
男の腕の中で眠る公爵……そのお腹には、しっかりとした膨らみが。
その膨らみを、デメトリア王妃は凝視していた。
「デメトリア様。マリア・オルディスの子ならば、エンジェリクの王子にも劣らぬ血筋です。きっと、貴女様を満足させる効果が得られるかと……」
取り巻きの言葉に、デメトリア王妃はしばらく考え込むような様子を見せ……身を翻し、自分の部屋へと新入りを案内した。
新入りは、手柄の横取りは許さない、とばかりに公爵を手放さず、自分に近づく様子を見せた者を鋭く睨んだ――こんなにも有能で便利な男を、取り巻きたちも手放したくはなかった。彼の機嫌を損ねないほうが優先だ……。
そこは、デメトリア王妃のために与えられた特別な部屋。彼女のために、しっかりと整えておいた。
イザイア王子宛てに送られるオーシャンからの金をこっそりと着服し、その一部は、この部屋を設えるために利用した。
イザイア王子は、良く言えば鷹揚な人間で、金に対して無頓着であった。自分の生活を支える資金が、いったいいくら……どこから出ているのか、考えようともしない。
オルディス公爵家が浪費家な夫のために多額の援助を行い、そのおかげで自分の生活が成り立っていることに気付きもしない……本来なら自分に与えられるべきオーシャンの財産が、自分の手に渡ることなく、こうして利用されていることも……。
豪華な一室――新入りに指示を出し、石造りの長椅子にオルディス公爵を横たわせる。
途端、彼女が目を覚ました。
取り巻きたちは一瞬ぎくりとなったが、デメトリア王妃は平然としていた。
――身重の彼女が、たった一人きりでここから逃げ出せるはずがない。すぐに、新入りが彼女の腕をつかみ、オルディス公爵を取り押さえていた。
「……思ったより、綺麗に使ってるのね」
室内を見回し、マリアが言った。
オルディス領の中心から外れ……領民もほとんど近寄らない場所。
それはそうだろう。ここは、廃墟となって長い――囚人が収められる監獄だ。まともな人間なら、こんなところに来ようと思わないだろう。
マリアは、自分を捕えている男には振り返らなかった。男と知り合いであることは、絶対に気取られないように……。
彼らに信頼され、ここへ案内されるようになるために、数週間かけてノアは潜入してくれていたのだ。その努力を無駄にするわけにはいかなかった。
「もっと露骨な拷問部屋を想像していたわ」
「拷問なんて無駄じゃない。すべて私のために捧げられる血肉なのよ……そんなことして、何の意味があるというの」
マリアの感想に対し、心底不思議そうに、デメトリア王妃が答えた。
……なるほど。
クロフト候の店は、ドレイク宰相ですら辟易するほど悪趣味な嗜好に満ちていたが……デメトリア王妃は自身の美と若さを保つために手段を選ばないだけで、別に嗜虐趣味があるわけではないのか。
もっとも、デメトリア王妃の美への執着も、常軌を逸してはいるが。
豪華な部屋に用意された、豪華な浴槽。マリアも風呂は好きだが、あれに入るのは御免だ。
金の装飾が施された白い浴槽を満たす赤……その上に吊るされた女の死体。
彼女の身体を染める血は、もう肌にこびりついているようだ。死んで、かなりの時間が経っている。
……赤ん坊を取り出したら、今度はマリアがあそこに吊るされることになるのだろうか。
「無駄話も終わりにしましょう。さあ……ずっと待っていたのよ。私の赤ん坊……さっさと渡してちょうだい」
手を伸ばし、デメトリア王妃はマリアの腹に触れる。
待ち焦がれていたものがようやく自分の手元までやって来て、王妃は恍惚とした表情で――その顔が、ピシリと凍り付いた。
「……小娘がぁ……私の赤ん坊をどこへやった!?」
腹に触れた手を振り上げ、怒りのままに振り下ろす。マリアの腹は、王妃の手の形に添って奇妙に膨らみ、ボスンと鈍い音を上げた。
数えきれないほど女の腹を裂いてきたし、自身も妊娠の経験がある。触れてみれば、マリアの膨らんだ腹が偽物であることぐらい、デメトリア王妃にはすぐに分かった。
「私の、子どもよ。あなたのじゃないわ」
嘲笑するように、マリアは言った。
命よりも大切な我が子を、囮としてこいつらの前に連れ出すわけがない。無事に生まれるまで待って、ようやく……。
子どもも、母の焦れる気持ちを察したのか、予定よりずっと早くに生まれてきてしまった。
命の危機を感じたんじゃねーの――ララからは呆れたようにそう言われてしまったが、そうかも、とマリアもちょっと気まずい思いで同意した。
堪え性のない母が、自分を道連れにしてしまうのではないか不安でさっさと生まれてきたのか……堪え性のなさが似ただけなのか。
手に入ったと思ったものが、虚像だった。デメトリア王妃は怒りと憎しみに燃え、歯を剥き出しにしてマリアを睨みつける。
怒りに震える手で、マリアの腹にギリと爪を立てた――そんなことをしても、腹に巻き付けた柔らかいクッションに食い込むだけ。
「……この女は、あなたたちの好きにしていいわ」
王妃が静かに言い、取り巻きたちが興奮に歓声を上げた。
取り巻きの一人がマリアを押さえつけ、口に杯を押し付けてくる。
マリアを押さえ込むふりをしたノアが、動揺するのを感じた――もう行動に移すべきだ、そうマリアに訴えかけるように。マリアは自分を押さえ込むノアの腕をつかみ、まだ早いと反対する。
口の中に水が流れ込み、すぐさま男の手で鼻と口を塞がれる。苦しくて、マリアは口の中のものを飲み込むしかなかった。
ぞわりと、身体に不快な感覚が……身に覚えのあるそれに、さすがに血の気が引いた。
……まさか。
「そう言えば……エンジェリクの王もこの薬を愛用していたわね」
デメトリア王妃が、ふらつくマリアを見下ろしながら呟く。
視界が歪み、あの気色の悪い感覚が徐々に身体を支配していく。抗うことのできない渇望感……その愉しみを知ってしまったら、生涯忘れることはできない。脳裏に深く刻まれた感覚を、マリアは死に物狂いで抑え込んできた。
薬物中毒に、完治はない。生きている限り、自らの意思で抑え込むしかないのだ。
「これは……純精阿片……あなたたち、華薬を……」
エンジェリクでは純精阿片と呼ばれる、セイラン由来の秘薬だ。
ただの阿片ではない。特殊な精製方法で……その薬を作れる人間は、いまとなっては存在しない。だが、市井に出されたものがいまも残っている。
どこかで出会う可能性はあるかもしれないと警戒していたが、まさか、こいつらが持っていたとは……。
「この薬、色々と種類があるんですって。いま使ったのは、房事で極上の快楽を得られるもの。病みつきになって、それしか考えられなくなるほど……」
道理で、取り巻きたちの目の色が変わるはずだ。
王妃に捧げられるはずだった生贄が、自分たちのための愛玩動物に代わったのだから。
「……エンジェリクの王も、そういった愛用の仕方をしていたのかもしれないわね」
ヒューバート王の祖父リチャード王は、痛み止めとしてこの薬を服用し始めたと聞く。
次第にそれが、別の目的に代わって……薬物中毒となり、手離せないほどの重篤な依存症に……。
リチャード王は、ある少女に執着していた。たぶん、こんなふうに薬を服用して、彼女との房事で想像を絶するほどの快楽を味わったのだ。
だから、薬を手に入れることができなくなったあと、件の少女にこだわった。もしかしたら、同じ女であればあの時の快楽を得ることができるのではないか――そう思い込んで。苦しい禁断症状で錯乱していたから、もはやまともな判断能力も失っていて……。
「あなた……オーシャン王に盛ったわね……」
半分ぐらいはハッタリだった。
彼女の話し方から、なんとなくその雰囲気を察したのと――この薬があって、それを利用しないはずがないという、マリアの一方的な推測。
でも、色々と辻褄は合う。
それなりに名君だったはずのオーシャン国王が色欲に堕落し、暗愚と化した――この薬で、王も重篤な依存者となってしまったのだ。きっといまは、廃人同然……かつてのエンジェリク王と同じように。
「……勘が良いのね。オーシャンの連中は誰も気づかなかったのに」
デメトリア王妃は、決して賢い女性ではない。
自分のことしか興味がない……深く物事を考えようとしない……。自分のいまの発言がどれほど致命的なものなのか、きっと彼女は気付いていないことだろう。
――その台詞を、マリアが待ち構えていたというのに。
部屋に、悲鳴が響き渡る。
マリアを押さえていたノアが、ついに動いた。
持っていた剣を抜き、デメトリア王妃の取り巻きたちを次々と。逃げ出そうとした者は、部屋の外で待機していたララに斬り捨てられていく。
ほんの一瞬の出来事で、何が起きたのか、デメトリア王妃はすぐには理解できなかっただろう。
気付いた時には、オズヴァルト王太子が自分の目の前に――オーシャンの王太子は、義母を冷たく見据えていた。
「王妃デメトリア――貴女を、オーシャン国王殺害の実行犯として逮捕する」
連れて行け、と王太子は連れてきた部下に指示を出す。
王妃はまだ、何が起きたのか分かっていないようだ。自分を部屋から引きずり出そうとするオーシャン人に抵抗することも忘れ、きょとんとした顔でただ戸惑っていた。
きっと彼女は、刑が執行されるその瞬間まで、自分の罪を理解できないだろう。
だって、彼女はただ、美しさを追い求めていただけなのだから。




