親子
五度目の妊娠も安定期に入った頃、マリアは王都へ帰ってきた。
久しぶりのドレイク警視総監の執務室。彼の秘書として働くのも久しぶりで……知らせたわけでもないのに、ウォルトン団長は執務室にやって来た。
「いやあ、この光景も久しぶりだな!マリアもだが、ジェラルド、最近はお前がこの執務室にいる姿も珍しくなった。おかげでそこの棚の菓子が尽きそうだ」
執務室の奥にある、休憩用の部屋――その部屋の食器棚にはドレイク警視総監が衝動買いで買い込んだ菓子が貯蔵されている。
役人やウォルトン団長が勝手に持ち帰っているようなのだが、最近ドレイク卿が来ないことで供給がなされなくなって……知らん、とドレイク卿は眉間に皺を寄せて言った。
「宰相代理でお忙しいのです。ドレイク様がいらっしゃらないと書類仕事に手を抜く者も増えて。自分も、彼らを叱咤激励するのに大忙しです」
アレン・マスターズが、苦笑いしながら言った。
「それにドレイク様でなくては片付かない書類も多いので……。ドレイク様が執務室に来れる日に、オルディス公爵が来てくださって良かった。おかげで仕事が本当にはかどります」
「親父さん、だいぶ調子を取り戻したみたいだな。さっきすれ違ったが、前に会った時よりずっと顔色が良くなっていた」
ウォルトン団長が、ドレイク卿に向かって言った。
ドレイク卿の父親は、エンジェリク宰相。マリアも彼には世話になった――色々な意味で。そのあたりは割愛するにして、恩義ある人物であることに違いはない。高齢で、療養のために城を不在にすることも増えた宰相……マリアも時々見舞いに行っていた。
息子そっくりのポーカーフェイスで、何気ない様子でマリアに応対してくれていたが。
「私も、今日はお城で宰相閣下に挨拶して参りましたわ。やはり、お年を感じられるお姿で……」
「貴女に会って、父はさらに元気になっていた」
ドレイク卿は、意味ありげな目でマリアを見る。ほう、とウォルトン団長も含みのある笑顔を向けた。
ほほ、とマリアも涼しい笑顔で二人から向けられるものをはねかえした。
「今回ばかりは何もしておりません。ちょっと閣下に相談を持ちかけまして……お元気になられていたということは、閣下にとっては肯定的な内容だったということですね。これなら、安心してお二人にも打ち明けられますわ」
ウォルトン団長とドレイク卿に改めて向き合い、マリアは切り出した。
「ヒューバート陛下から、お二人との間に子を作れと命じられました。必ず男児――エステル王女の婿となる男を生めと」
気の毒な傍観者となってしまったマスターズが、おかしな呻き声を上げる。押さえようと努力した結果、奇妙な声が漏れてしまったようだ。
「フォレスター宰相閣下は、私がジェラルド様の子を生むことに賛同してくださいました。娘だった場合は、アイリーンと名付けて欲しいという条件を付けられてしまいましたが」
ドレイク卿が目を瞬かせる。彫像のような完璧な美貌は、そう簡単に崩れることはない。けれど彼の目は、表情よりもよほど彼の心情を表し出していて。
「……子どもか」
一方ウォルトン団長は、浮かない顔で呟いた。普段の陽気で明るい姿からは想像もつかないもので。
団長がそんな反応を見せる理由をマリアは知っているのだが、二人が返事をする前に、明るい声が執務室に響いた。
ララが、マスターズの息子アレンを連れて執務室へと帰って来た。
「ただいま帰りました!ドレイク様、公爵様、ありがとうございました!」
ドレイク卿とマリアの座るデスクの前まで来て、ぺこりと礼儀正しくアレンは挨拶する。顔を上げ、ウォルトン団長を見ると、ようやく別の人がいたことに気付いてちょっと身を竦ませていた。
「お、マスターズの息子か。久しぶりに顔を見たな。ずいぶん大きくなった」
アレンはもう一度ぺこりと挨拶をしながら、わずかにララの後ろに隠れる。陽気な笑顔と明るい雰囲気で親しみやすい振る舞いをしているが、ウォルトン団長の大柄な体格や厳つい顔は、初対面の少年を委縮させるには十分だ。
「いつも城に連れて来ていたのか?」
「いえ、まさか。どうしてもナタリアさんに会いたいと言って聞かず、オルディス公爵やドレイク様に頼み込んで連れてきたんですよ。まったく……自分だってそう簡単には会えないと言うのに」
こっそりと愚痴を漏らすマスターズに、団長は豪快に笑う。
まだここの三角関係は続いていたのか、と笑われ、マリアも苦笑しながら頷いた。
マリアの侍女ナタリアは既婚者。デイビッド・リースという男と初々しくもじれったい交際期間を経てようやく結婚し。そんなナタリアに、マスターズはずいぶん昔から横恋慕していた。
夫婦関係は良好なのだから、何も波風を立てるような男を近付けなくても――と、思わなくもないのだが、デイビッドという男。悪い男ではないのだが、仕事に夢中になると他が目に入らなくなるという悪い癖があり。ナタリアは理解があって、彼のそんな部分を許してしまっているものだから、年々増長していくばかり……。
だから、マスターズのような間男が時々ナタリアにちょっかいをかけて、デイビッドに妻を奪われる危機感を抱かせておくのは重要だとマリアは考えていた。
「ナタリアさんは城に行ってしまって、公爵様のお屋敷に行ってもずっと会えなかったんです」
アレンはしょんぼりとしながら言った。
「公爵様。ナタリアさんは、これからもずっとお城で暮らすんですか?もうお屋敷で会うことはできないのですか?」
「一時的なものよ。ベルダが子どもを生んだから、オフェリア王妃の侍女を交代していて。ベルダが城に戻れるようになったら、ナタリアも私の侍女に戻るわ」
アレンは父子家庭で、父親が仕事で城へ行っている間はクラベル商会で過ごしている。クラベル商会の会長ホールデン伯爵に連れられてしょっちゅう商会に出入りし、年も近いクリスティアンとは仲が良い。
マリアの屋敷に遊びに来ることもあり……父親に似たのか、アレンはナタリアに淡い恋心を抱いているようだ。ままごとのような、微笑ましい恋心なのだが……その父親は真剣にナタリアに想いを寄せているものだから、デイビッド・リースはちょっと複雑そうだった。
「どこもおめでた続きだな。もっとも、年を考えれば自然なことか。この年で揃って売れ残りの上に庶子の一人もいない僕たちのほうが、どうかしてるってもんだな」
ウォルトン団長は陽気さを装ってそう言ったが、マリアは彼と話し合う必要を感じていた。
ドレイク卿のもとでの仕事を終えると、マリアはウォルトン団長に声をかけて一緒に帰路に着くことになった。御者席にララが乗りこみ、馬車にはマリアと団長の二人だけ――マリアの考えを見通したように、ウォルトン団長は苦笑いで切り出した。
「わざわざ僕に声をかけたのは、僕が陛下の命令に乗り気でないことに気付いたからだろう。子どもは好きだが……やっぱり気が引けるのは事実だな」
ウォルトン団長の父親は、なかなか華やかな女性遍歴の持ち主で。団長自身、騎士として父親を尊敬しているのだが、父親が残したもの――母親違いの兄弟との関係に、悩まされることがしばしばあった。
マリアが知っているのは極一部だが、それでも暗い気持ちにさせられるものであった。
自身が、父親の庶子との関係にいまも悩み続ける身。そんな負の遺産を、いずれ我が子が受け継ぐことになるかもしれない。だから結婚も、子を持つことも、団長は否定的だった……。
「レオン様、拒否なさってもよいのですよ。陛下もそこまで無慈悲になれません。レオン様の意に添わぬことを強要して……レオン様の忠誠心を試すような真似はしたくないはずです」
「うーん……正直言って、君に僕の子を生んでもらうチャンスを逃したくないという葛藤もあるんだ。伯爵やブレイクリー提督たちを見てたら、血の涙が出そうなほどに羨ましい。マリアによく似た子が自分の血を引いていて……パパと呼んでもらえるとか……めちゃめちゃ羨ましいじゃないか」
ちょっとおどけたように話す団長に、マリアもくすくす笑った。
けれど、笑い声はそこで止まった。馬車が止まり、御者席に座っているララが声をかけてくる。
「団長さん、あんたに客みたいなんだが」
窓から馬車の外を見れば、男が複数……武器を手に、馬車の前に立ち塞がるように……。帯刀していた剣に手をかけ、それまでの陽気で親しみやすい雰囲気を一変させ、ウォルトン団長は外に出た。
マリアも外に出る――さっとララがマリアの前に立ち塞がり。彼もまた、武器をすでに手に取っていた。
「……俺を覚えているか」
男たちの真ん中に立つ男が、一歩前に進み出て言った。憎悪と強い敵意に満ちた表情でウォルトン団長を睨みつけながら。
「生憎と、私は男の顔を覚えるのは苦手でね。殺伐とした現場に赴くことも多いものだから、美しいご婦人のことしか頭に残さないようにしている」
「ふざけた奴め!やっぱりあの男の息子だけあるな!」
男が怒鳴った。鞘から剣を抜き、ウォルトン団長に向かって真っすぐに突きつける。
なんだか芝居がかった仕草で……男には、自分に酔っているような雰囲気があった。
「俺はロイド!マーシアの息子だと言えば、貴様でも分かるだろう!」
ウォルトン団長がわずかに驚くようなそぶりを見せたが、同時にロイドと名乗る男が斬りかかって来て……他の男たちは、武器を抜きながらも攻撃はしてこなかった。腰が引けている――じりじりとにじり寄りつつ、後退しつつ。団長の隙をうかがっているようだが、結局、どうやって攻めたらいいのか分からないのだろう。
ロイドの剣を受け止め、鍔ぜり合いに応じながら、ウォルトン団長は冷ややかな口調で言った。
「マーシアはかつて、私の父の愛人だった。彼女はロイドという男児を生んだ」
「そうだ!俺の母は売れない歌手で、何の後ろ立てもない貧しい平民で……あの男は、そんな母のパトロンとなった。そして母は身ごもり……あの男は、面倒は御免とばかりに母と俺を捨てた!母は歌手の夢も諦めることになって……ボロボロだ……死の間際まで、あの男を恨んでいた!」
「死の間際まで。ほう。彼女は死んだのか」
「ああ、そうだ!一か月前……みすぼらしい部屋の中で……俺以外、看取る人間もいなかった……!」
ロイドは熱く語り、周囲の男たちもその熱気に引き込まれているようだった。
それに対してウォルトン団長は、どんどんと冷ややかな雰囲気になっていく。
「私には、ロイドという異母弟がたしかにいた。あの子は生まれて三カ月で亡くなった。それでマーシアは、父との愛人関係を解消したのだ。私の異母兄弟は早世した者も多くてな。赤ん坊の内に亡くなってしまうこともしょっちゅう――だから父は、あまり悲しみを表に出さなかった。だがマーシアにとっては何もかも初めての経験で、悲しみを表さない父を不快に感じた。だから父のもとを去ったのだ。そして十五年ほど前、マーシアもまた流行病で亡くなった。身寄りのない彼女の遺体を引き取り、埋葬したのが私だ」
驚愕に目を見開き、嘘だ、と男が叫ぶ。周りも動揺し、困惑したように互いに目配せをしている。
「マーシアの悲劇は、平民たちの間ではちょっとした悲恋物語として有名らしいな。スターを夢見た少女が、貴族の男と恋に落ちるも身分の壁を乗り越えることはできず最後は憐れに捨てられる……尾ひれがつきまくって、いまや真実を知る者も少なくなった」
たぶんロイドと名乗る男の母親は、そんな悲劇的な物語のヒロインと自分を重ね合わせる内に、すべて自分に起きたことだと思い込むようになってしまったのだろう。母親の妄想を、息子も信じてしまって。
……だからと言って、あまり彼に同情する気も起きないが。
「ち、違う!俺は、ウォルトン侯爵家の息子なんだ!あんたがいなければ、俺が後継ぎになれるんだ!」
「……やはり、君の母親がマーシアのはずがない。マーシアは、庶子では一切の権利が与えられないことを知っていた。父はそういった区別ははっきりとつける男だったからな。正妻の子にしか権利は与えないと、愛人たちにも常々言い聞かせていた」
茶番劇はそこで終わりだった。
ウォルトン団長は容赦のない攻撃を与え、母親の妄想を信じた青年は一瞬の内に物言わぬ屍と化し、周囲の男たちも一目散に逃げ出していく。
茶番ではあるが、こんな茶番を信じ込んで、行動に移した勢いだけは見事だったかもしれない。
「やれやれ。ララ、すまんが城に引き返し、カイルを呼んで来てくれないか。大した連中ではないだろうが、放っておくわけにも行かん。マリアは僕が屋敷まで送っていく」
冷徹な騎士モードを解き、ウォルトン団長がララに向かって言った。ララは快諾し、マリアを団長に任せて城へと引き返していく。
暗い道を、マリアは団長と共に歩くことになった。もう屋敷まで距離もないし、ウォルトン団長がいれば何も心配する必要もない。
「とんだ茶番に付き合わせてしまって、申し訳なかった」
「いいえ。どうかお気になさらず……本当に、ただの茶番に終わってよかったですわ」
マリアは心底そう思っていた。
あれがもし、本当にウォルトン団長の弟だったら。
実の兄弟との斬り合いを、マリアは目撃する羽目に……そんな悪趣味な展開にならなくてよかった。ウォルトン団長は動揺を現さないよう努めているが、本当はとても、色んなことに傷ついていて……。
「……レオン様。私、決心いたしました」
月に照らされた夜道を歩きながら、マリアはウォルトン団長の腕をぎゅっと握る。
「私、レオン様の子を生みます。レオン様が嫌がるのなら、一服盛って押し倒してでも……私の渾身の手料理を食べて頂いてでも!」
「うっ……君の手料理は勘弁してくれ……」
マリアの手料理――その単語に、怖れ知らずのはずのウォルトン団長がぎくりと身を竦ませる。
名誉のために弁解しておくと、マリアはちゃんと料理ができる。ただ、マリアが研究している料理は美味しさを追求したものではなく……まあ、たいていの人間には嫌がられるしろものだ。オフェリアからも、これについてはしょっちゅう叱られてるし。
「私、レオン様と絶対傷つけ合うことのない家族を作ってみせますわ」
マリアは、真っ直ぐに団長を見つめて言った。
血の繋がりは、ライオネル・ウォルトンにとって忌わしいもの。複雑な感情ばかり作り出して……傷つけ合うことしかできない……。
だから、そうではない存在をウォルトン団長に与えてあげたい。本当はロマンチストで、優しい人――彼が心を許せる、血の繋がった相手を。
「……本当に君は。僕を喜ばせるのが上手い」
月を背にしたウォルトン団長の顔は、マリアからはよく見えなかった。
ただ、彼の顔が近付いてくるのを感じて。
マリアはそっと目を閉じ、彼の口付けを受け止めた。




