微笑う女 (4)
「デメトリア王妃の滞在は……長居で終わるかどうか」
ドレイク宰相の言葉に、マリアは重苦しい溜息をつくばかり。
果たして、一時的な滞在で済むのか――デメトリア王妃は、エンジェリクに永住する気では。
「デメトリア王妃は、やっぱりエンジェリクに逃げてきたのだろうか」
言いながら、ヒューバート王も溜息を吐く。
王が弱り、自分たちの権勢に陰りが見え始め、息子イザイア王子が泣きついてきたのを口実に、デメトリア王妃はオーシャンの城から逃げ出した。
その可能性が高いような気がしてならなくて、非常に憂鬱だ。
「そうなると……ダンテ王子たちも、王妃をあえて放ったらかしにして帰ってしまいそうです。私ならそうしますもの」
労せずしてデメトリア王妃を追い払えるのだから、王太子派にとっては、わざわざ回収していく理由がない。
義理とはいえ、母親を始末すれば、王太子の評判にも傷がつく。彼女が勝手に城を出て行ってくれるのなら……あわよくば、エンジェリク側の怒りを買って、姿を消してくれたら。
逆の立場なら、自分でもそうする……。
「オーシャンの思惑にはまるのは屈辱ですが……デメトリア王妃が永住するのなら、そうせざるをえないでしょうね。いくらなんでも、彼女と共存は……」
マリアは言葉を切った。
部屋の外に、人の気配を感じて。
マリアだけではなく、部屋にいる人間全員が、その気配に気付いていた。マリアでも気付くような相手……それが誰なのか、姿が見えなくても予想はついた。
やがて、少女がそーっと顔を出す。部屋の中をうかがうように。
おそらく、少女は気付いていない。誰も、自分の存在に気付いていないと、本気でそう信じている。
でも、大きな犬は無遠慮に部屋の中を覗き込んで、構ってほしそうにこちらを見つめながら尻尾を振っている。
「エステル」
王が微笑み、優しく呼び掛ければ、エステル王女はパッと顔を輝かせ、マサパンと共にちょこちょこと駆け寄ってきた――父親のヒューバート王ではなく、伯母のマリアに。
「伯母様。お母様と一緒に、お花のポプリを作ったの。たくさん作ったから、伯母様にもプレゼントよ」
そう言って、エステル王女は自身の掌におさまりそうなほど小さなガラス瓶を手渡してくる。
中には、赤いバラと、色とりどりのクラベルの花が詰められていた。
「ありがとう。とっても良い香り。持って帰って、お部屋に飾るわね」
マリアが笑顔で受け取れば、エステル王女も嬉しそうに笑う。
マサパンはマリアの膝にのっしと頭を載せた。やわらかい毛並みを撫でてやると、うとうととまどろんでいた。
僕にはないのかい、とヒューバート王が苦笑いで問いかける。
「お父様の分は、お母様が作ってるもの。私、そんな無粋な女じゃないわ」
澄ました口調で、王女が言った。マリアも王も笑い、ポーカーフェイスのドレイク宰相もかすかに口角を上げてみせた。
「ジェラルド様のもあるのよ。はい――あと、ニコラスとアイリーンの分も」
「恐れ入ります。息子たちも喜ぶことでしょう」
宰相にもガラス瓶に詰めたポプリを渡すと、エステル王女はじーっと彼を見つめた。
「私、大きくなったらニコラスと結婚するのよね?」
「殿下が望んでくだされば」
マリアの息子ニコラスは、エステル王女の王配候補。ただ、はっきりと婚約が定まっている他の子たちに比べれば、その関係は緩い。
あくまで、将来女王の王配問題で揉めた時に、ニコラスがそれを引き受けるだけ。
伯母としては、可愛い姪をどこの馬の骨とも知らぬ男と結婚させるぐらいなら、自分の息子と結婚してほしいと思ってはいるのだが。
「ニコラスは嫌いじゃないし、スカーレットやアイリーンと姉妹になれるのは嬉しいわ。でも、ニコラスって赤ちゃんだもん」
「殿下のお言葉もごもっともです」
ドレイク宰相は、王女の言葉に同意する。
「エステル殿下に相応しい男となるよう、ニコラスには厳しく言いつけます」
冗談とも本気とも分からぬ宰相の台詞に、王女は眉を八の字に寄せた。
「いじめちゃだめよ。ニコラスはいい子なんだから」
エステル王女から見ればニコラスは幼くて、結婚相手として考えられないのだろう。小さい頃から仲良くし過ぎて、弟のカテゴリーに入ってしまっているのかも。
……弟として見ているのなら、ニコラスに親愛の情は抱いていも、恋愛感情は難しいかもしれない。
「エステルは、どんな男性に憧れるのかしら」
さりげない探りを込めてマリアが聞けば、エステル王女は考え込む。
「んー……マクシミリアン様かしら」
「マクシミリアン?シルビオの従者の?」
マリアは目を丸くした。
マクシミリアン・ガードナーと言えば、いまはシルビオの従者で、騎士になるべく彼のもとで鍛錬をしている青年だ。シルビオがキシリア王の代理としてエンジェリクの城を訪ねることも多いから、彼のお供をしているマクシミリアンと面識があっても不思議ではない。
エステル王女より十三歳年上で……王女にとって、自分の身近にいる男性の中で、大人過ぎず、子ども過ぎない相手だから、憧れの君になりやすかったのだろう。
「……マクシミリアンは、まだ独身だったね」
「はい。シルビオに振り回されて忙しいみたいで」
マクシミリアン自身、結婚を考えていないのも原因だが。
マクシミリアンはガードナー家の名誉を取り戻すために、騎士として励んでいる途中だ。
「マクシミリアン……」
ヒューバート王が、ぽつりと呟く。
その名前は、王の心を動かすものだ。ガードナー家のことは、王もずっと気にしてきた。
「……ジェラルド。もし、オフェリアの生んだ子どもが男の子なら……」
エステル王女の前で、ヒューバート王はそれ以上のことを口にするのは止めた。
だが、マリアもドレイク宰相も、王が何を言おうとしたのかは察した。
もし、オフェリアが王子を生めば。エステル王女の結婚には、別の意義が生まれてくる。
マクシミリアン・ガードナーのもとに降嫁させて、ガードナー家の名誉を回復したい――マリアも、マクシミリアンがガードナー家の再建に努めているのを、手を貸すことはできないかと考えていた。
「陛下のおっしゃりたいことはよく分かります。ですが……いまは、オフェリアの出産を無事終えることだけに集中しましょう。生まれるかどうか……二人とも、元気でいてくれるかどうか」
「そうだな……うん。すまなかった。気が逸り過ぎた」
「無理もありません。陛下にとって、ガードナーの名は特別ですもの。ただ……陛下が望んだところで、果たしてマクシミリアンがエンジェリクに戻って来てくれるかどうか。シルビオは彼をキシリア一の騎士にすると言って鍛えておりますから、そう簡単には手放してくれないでしょうし」
マリアが冗談めかして言えば、ヒューバート王も笑った。
エステル王女は不思議そうに首を傾げ、父親を見つめる。ヒューバート王は改めて娘を優しく見つめ、彼女の金色の髪を撫でた。
王女の髪は、母親譲りだ。
マリアの膝を枕にまどろんでいたマサパンが、ぱっと顔を上げる。
「あっ、やっぱり!エステル、お仕事中は、お父様のところに行っちゃだめだよ」
エステル王女を探して、オフェリアも執務室へやって来た。エステル王女は父親にしがみつき、会いたかったんだもん、と可愛らしく拗ねる。
「大丈夫だよ。仕事の話はもう終わったから」
「本当?」
ヒューバート王が言えば、オフェリアとエステル王女が声を揃えて同時に反応し、ぱっと笑顔になった。
「なら、お部屋に戻りましょ。エステルと一緒にポプリ作ったんだ。ユベルの分も作ったのよ」
嬉しそうに誘うオフェリアを、王が拒否できるはずがない――マリアはそう思った。おそらくは、ドレイク宰相も。
ヒューバート王は、もう妻と娘のことしか見えていない。オーシャンの厄介事について話し合うのは、これで終わりだ。
――そう考えていた。
マサパンが部屋の入り口に振り返り、マリアも何気なく視線を追って、ぎょっとなった。
「ピエタ王女……!?いつの間に……」
「ちょっと前からよ」
執務室の入り口から、先ほどエステル王女がやっていたように、ピエタ王女がそーっと顔をのぞかせている。
まったく気付かなかった……。
「……警備は何をしているのだ」
宰相が苦々しく呟けば、よくあることなの、とピエタ王女はふわふわした口調で答える。
「オーシャンのお城でもしょっちゅう。みんな、私を見つけても、幽霊でも見たような顔をするばかりでちっとも声をかけてこなくて」
……それは、何となく理解できるような気が。
ピエタ王女には、独特の雰囲気がある。浮世離れした、ふわふわとした空気……夢の世界で生きていそうな、ちょっと普通の人間とは違うもの。
だから警備の人間がふらふらしているピエタ王女を見つけても、「えっ……と、あれ、止めなきゃだめかな」みたいな、見てはいけないものを発見したような気になってしまうのだろう。
しかも彼女は王女だ。王女らしくない見た目だが。
だが浮世離れした雰囲気に反して、ピエタ王女は、意外と現実を生きている――。
「こんにちは。あなたが……オフェリア王妃様ね。お話で聞いていた通り、可愛らしくて素敵な王妃様」
オフェリアに視線を向け、可愛らしい笑顔でピエタ王女が挨拶する。
見知らぬ人に声をかけられて、オフェリアがおろおろと戸惑う。ヒューバート王やマリアに、自分はどうしたらいいのかと忙しなく視線で問いかけていた。
ピエタ王女はオフェリアの返事を待つ様子もなく、その視線を下に移動させた。
じっと、ドレスの上からでもはっきり分かるほど膨らんだオフェリアのお腹を見つめている。
「王妃は妊娠中で、もてなしをできる状態にない。だからダンテ王子たちの出迎えも控えさせていた」
ヒューバート王が、ピエタ王女の視線からオフェリアをかばうようにさりげなく前に立ち、説明した。
そうなの、とピエタ王女は答えて……口調はふわふわしているが、その目つきはしっかりしている。
マサパンがピエタ王女に近づき、スンスンと彼女を嗅ぎ回った。
「賢そうな子ね」
「マサパンよ。優しくて、とってもいい子なんだから」
エステル王女が言い、マサパンに近づく。
ヒューバート王やドレイク宰相がわずかに顔色を変えた。
エステル王女が、無防備にピエタ王女に近づくから――でも、マリアはそれを止めなかった。
マサパンを撫でるエステル王女のそばで、ピエタ王女もかがみ、手を伸ばす。
びろーんと、マサパンの垂れた耳を広げた。
「マサパンをいじめちゃだめよ」
エステル王女はピエタ王女の振る舞いを嗜めたが、マサパンは怒ることなく王女のされるがままになっていた。
構ってもらえて、マサパンはご機嫌だ。
「……公爵」
ドレイク宰相が、小さな声で自分に呼びかけてくる。
引き離すべきでは――そんな内心が聞こえていたが、マリアはピエタ王女への警戒は解かないまま、それでも彼女を止めなかった。
マサパンが、ピエタ王女に敵意を向ける様子がない。
全面的に信頼できるわけではないけれど……たぶん、害はない。いまのところは。




