微笑う女 (3)
ダンテ王子も、恐らくはマリアと同意見だろう。
なんで彼女たちがここに、という心情を、まったく隠していない。
「義母上。なぜエンジェリクに?」
「あの子から手紙をもらったのよ」
鈴を転がすような声で、デメトリア王妃が答えた。
あの子……というのは、イザイア王子だ。
「せっかく親交を深めようとしているのに、妻にことごとく拒否されて……あの子はとても傷ついているみたい。不憫でならなくて……母として、私も何か助けてやれないかと」
イザイア王子は、たしかマリアより七つほど年下だったはず。
……もう二十を超えた男が、夫婦のことで母親に泣きついたのか。馬鹿か、とマリアが内心で毒づくのも、仕方のないことだと思う。
「奥方がそっけないのも当然のことです。イザイアは彼女の金で遊び呆け、あろうことか愛人まで作って彼女を軽んじておりました。たったいまそれを聞かされ、兄の俺も情けない気持ちでいっぱいですよ」
ダンテ王子が言った。
王子は弟の振る舞いを恥じているようだが、実母デメトリアは恥じ入るそぶりを見せることもなく、あら、と呟く。
「婿入りしたと言っても、あの子は王子だもの。あの子が不自由することないよう、妻が支えてあげるのは、当然のことじゃなくて?」
冗談とか嫌味とかではなく、本気で言っている。悪気や悪意はない。本心から、彼女はそう思っているのだ。
イザイア王子のため――尊い身分にある自分たちのために、周囲は奉仕して当然だと、そう考えて……。
オーシャン王妃デメトリアは、ある女性をマリアに思い起こさせる。かつて、エンジェリク王の妃でもあった女――パトリシア。
あの女も、自分本位で……自分のことしか考えないから、他人への悪意とか、誰かを貶す意思はなかった。本人には。
そんな女だから、周囲もいっそ脱力するほど無恥で、厚顔だった。その手の女は、思い知らせる、なんてことができない。
……これは、また。思っていたのとは少し違った方向に、厄介そうな王妃だ。
「……あなたがマリア?」
王妃が、ちらりとマリアに視線をやる。何気なさを装っているが、マリアという女を確認するように。その視線は、マリアをしっかり品定めして……割とあっさり興味を失ったようだった。
「なるほど……男好きしそうな見た目ね。あの子が欲しがるのも納得だわ」
褒め言葉……ではないな、いくらなんでも。もしかしたら王妃は褒めているつもりなのかもしれないが、馬鹿にされた、としか感じられないのは、マリアがひねくれているからではないはずだ。
「マリア……あなたはイザイアの妻なのよ。彼のために尽くすことができる立場となれて……それはとても光栄なことなの。自分の務めは、きちんと果たしなさい」
まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調で王妃は話す。
マリアも、ダンテ王子も、その場にいた全員が、この女はいったい何を言っているのだ、と目を丸くした――ふわふわとした表情で、何を考えているのかよく分からないピエタ王女以外。
「デメトリア様。それは……どういう意味でしょう?」
なんだか嫌な予感がする。
無礼も構わず無視を決め込んでやりたいが、オフェリアのためと言い聞かせ、マリアは姑にも最低限の礼儀をもって尋ねた。
オフェリアはいま、大切な時期なのだ。揉め事は御免だ。穏便に、こいつらを追い返してやりたい……。
「あなたたちは、本当の夫婦になっていないと聞いたわ。イザイアとの初夜がまだなのでしょう?」
あのバカ王子。そんなことまで母親にペラペラと――いまさら、それを蒸し返すだなんて!
どれに腹を立てればいいのか分からなくて、マリアは怒りで頭がぐちゃぐちゃだ。
「私のせいなのですか、それは。初夜に私の部屋を訪ねることもせず、他の女を寝所に呼び寄せたのはイザイア様のほうですよ。夫の寝室に突撃していって、イザイア様に恥をかかせたほうがよかったのかしら」
ダンテ王子がさらに目を丸くし、オーシャンの使者たちが気まずそうな表情をする。
ダンテ王子は弟の愚行を知らず、使者たちは知っていながら黙っていたようだ。
「ふふ……」
誰もが黙り込んでしまうような気まずい空気の中で、可愛らしい少女の笑い声はよく響く。
デメトリア王妃は、娘のピエタ王女に振り返った。
ピエタ王女は無邪気に笑う。
「お母様ったら、マリア様を責めるようなことを言ってはいけないわ。お兄様のわがままなのは間違いないんだから」
ふわふわした雰囲気通り、ふわふわとした口調。でも、マリアを見る王女の目は、意外としっかりしているような。
「くたびれた年増女だと思って無視していたら、是が非でも抱きたい女になっていたから、いまさら初夜がどうとか言い出しただけじゃない」
可愛らしい顔に、可愛らしい口調にはふさわしくない台詞が飛び出し、マリアたちはぎょっとなった。
オーシャン側も何人か顔色を変えていたが……あれは、王女の発言に驚いたのだろう。マリアたちとは違う意味で。
「それでお母様に頼み込むなんて、お兄様って本当にバカよね。そんなことを義母から口出しされたら、お嫁さんからもっと嫌われるだけなのに。マリア様もそう思うでしょう?」
話を振られ、マリアは答えに詰まった。
そんなことありません、なんて、お世辞にも言えないし。だからと言って、いくらなんでも、ええその通りですね、と答えるわけにも……。
「彼女の感情なんて、どうでもいいことだわ。優先されるべきはイザイアだもの」
王妃が言った。
イザイア王子を溺愛する親馬鹿な母親の発言――のように聞こえるが、その実は、息子のこともどうでもいいのではないかな、とマリアは思った。
マリアの気持ちなんてどうでもいい。それは、息子の気持ちもどうでもいいと、そう言っているような気がして。息子のこともどうでもいいから、マリアが夫をどう思おうが、王妃は構わないのだ。
我が子にすら無関心……その姿は、やはりパトリシア元王妃を思い起こさせる……。
「マリア。今回こそ、あなたはイザイアと初夜を済ませるのよ。あなたたちの結婚は、エンジェリクとオーシャンの友好もかかっているのだから……個人の感情で左右されるべきものじゃないわ」
その言葉、まずは自分の息子に向かって言え。
――たぶん、マリアだけでなく、この場にいるほとんどの人間がそう思ったはずだ。
オーシャン人たちを貴賓用の客室へ案内させたあと、マリアはヒューバート王と共に宰相の執務室にいた。
「いまさら、初夜のことを持ち出してくるとは」
不愉快な結婚式に、不愉快な初夜であったことはヒューバート王も同じだ。
マリアに無茶を強いて、恥をかかせて……。ただ、初夜をすっぽかされたことで、マリアを無駄に穢されずに済んだ――そう思おうとしていたのに。
「……ジェラルド。やっぱり、初夜の立ち合いは僕が……」
苦渋に満ちた表情で、王は宰相を見る。そんな王を、宰相は鼻で笑い飛ばした。
……見た目にはあまり変化のないポーカーフェイスだが。
「陛下。そのような気遣いは無用です。どう考えても、これは宰相が果たすべき役割。それぐらいのことは覚悟の上での就任なのですから」
「しかし……」
食い下がろうとする王に、マリアも悪戯っぽく笑いかける。
「陛下ったら、悪趣味ですわ。私の閨を覗きたいだなんて。さすがの私も、人に見られる趣味はありませんよ」
「そういうわけでは……」
「ならば、余計な気遣いです。変態のジェラルド様なら、私が他の男に抱かれていたこともネタにしますわ、きっと。ジェラルド様の愉しみを奪ってはいけません」
マリアの言葉に、ドレイク宰相が片眉をピクリと動かすのが見えた。
「……マリア。私をどういう男だと思っているのだ」
「あら。じゃあ、今度ジェラルド様と褥を共にするとき、その話題を出したりしません?」
彼の本心を探るようにじっと見つめて問いかければ、しばらく考え込むような様子を見せた後、宰相がさっと視線を逸らした。ヒューバート王も苦笑する。
……やっぱり、それをネタにして愉しむつもりだ。
「あの男と結婚した時に、それは避けられないことだと分かっておりました。思いもかけず回避できたので、いまさら……というガッカリ感は私にもありますが。けれど、それで動じるような女でもありませんわ、私は」
マリアにも宰相にも説得され、それでも王は悩む。
不愉快な役割を、周囲に押し付けてばかりの自分の立場が苦しいのだろう。それが臣下の役目なのだから、マリアたちは気にしなくていいと思うのに――でも、まったく思い悩まないような王だったら、マリアたちの反応も違っていただろうし……。
「私としては、オーシャン人がいつまでエンジェリクに留まるつもりなのか、そちらのほうが気になります」
ダンテ王子たちはいい。彼らは最低限の礼節をわきまえているし、特に問題のないお客だ。
それなりにもてなした後、笑顔で帰っていくのを見送るべきだろう。
問題は……誰がどう考えたって、デメトリア王妃のほう。
「ダンテ王子のそばに部屋を用意させております。いまは、ダンテ王子側が彼女の動向を見張ってくれることでしょう――オーシャンも、王妃を好き勝手させるべきではないと考えているはず」
宰相の言葉に、王が頷く。
「だが……ダンテ王子と共に、王妃が帰国してくれるだろうか」
王が、ぽつりと呟く。
ヒューバート王も、自分と同じ疑惑を抱いているのだろうな、とマリアは思った。
王妃が来る前に、円卓の間でダンテ王子が何気なく口にしたセリフ。
オーシャン貴族が斬られた一件について、ダンテ王子は王ではなく、王太子の返答を求めた。それはつまり、王が答えを出せる状態にないということ。
いまの王が倒れれば、王妃派はかなり危うい立場に追いやられる。
王太子が王に即位すれば、いままでのような振る舞いはできない。それどころか、明日をも知れぬ身に……。
「滞在が長引くようなら、王妃はオルディスに移動させます。イザイア王子の住まいにでも……」
「そうしてもらうしかないだろうな。さすがに、城には置いておけない。こればっかりは……」
王妃の隠された趣味を考えれば当然だ。
そのためにオルディス領を危険にさらすのは気が進まないが……城には、オフェリアがいる。
オフェリアのそばに、あんな女を置いておくわけにはいかない。




